凍る月6

闇の中、総司が一人見張りをしながらも、思考していると、彼の隣の布団がもぞりと動いた。
「眠れないんですか?」
彼は他の人間を起こさぬよう小声で話しかけると、付きは静かに起き上がり、彼を見ると首を横に振った。
付きは総司を見上げ、彼の伸びた手の先、セイの額に当てている姿を見つめる。その視線に気付いた総司は慌てて手を引いた。
火照る頬をそのままに、変な風に思われなかっただろうか、と総司は付きの表情を伺うが、付きは微笑む。彼は徐に立ち上がり、総司の布団を越えてセイの枕元に座ると彼女を見下ろした。
「沖田さんにも、神谷さんにも感謝しています」
そう付きが呟いた事に総司は驚いた。しかしそれ程驚かなくともと自分を省みたが、そう言えばこの旅で付きの声を聞いたのは初めてだったからだと思い至った。
いつもは姫の半歩後ろに控えており、姫の冷静な表情と言葉の印象が強く、何も言葉を発さず、表情も変えなかった彼がこんな人間らしい声と表情で語るのだと総司は思わず付きをまじまじと見てしまった。
付きは付きで自覚があるのだろう。素直な反応を見せる総司を少し仰ぎ、苦笑すると、それに答えぬまま、また視線をセイに下ろし、眠る彼女の額にそっと手を触れさせた。
一瞬自分以外の男がセイに触れる事にむっとする総司だが、手を乗せるだけの彼の行動を不思議に思い、見た。
「神谷さんはすごいですね…」
その総司の反応にもまた彼は答えず、セイの額に掌を乗せたまま呟き、総司は首を傾げる。
「幾度か旅をしていますが、こんなに襲われる回数が少ないのも、途中で護衛の方が変わらないのも初めてなんですよ」
「そう…なんですか?」
「沖田さんもお気付きでしょう?京の町で最初に出会った刺客。相当強かったでしょう?」
総司は言われて思い出す。
そして同時に、言われている事にも気が付いた。
「松本法眼には一流の剣客が引っ切り無し襲ってくると神谷さんに言っていたそうです。――けれどあれほどの精鋭であれ程の腕を持った剣客は、あの時だけです」
毎回命懸けであり、総司とセイの腕も格段に上がっていったとはいえ、最初の時に襲われたあの時ほど死を強く意識したのは無く、またあれ程の足並み揃え且つ精鋭を揃えた刺客は無かった。
「本当ならば旅をしている間、あれ位の剣客が襲ってくるのが常なんです。素人目に見ても強くなられているとは言え神谷さんでは敵わない程の剣客が、それも目的地に近付くに連れてより精鋭になっていく」
明らかにこの旅でセイの剣術の腕は死線を乗り越える度に上がっている。守る、と思っていた総司が彼女がいなければ己の背を守りきれないと思えるくらいに。
それでも、もう一度あの時の精鋭を揃えた刺客、もしくはそれ以上の刺客と対したら、確実に死んでいるだろうと、総司は思う。
幾度も修羅場を抜け、またあの位の精鋭を揃えた刺客に出会う事の無い事祈りながら戦い続け、総司はその度にほっとしていたが、それを付きも確実に見抜いていた事に総司は目を見開いた。
普段から修羅場になると、瞬時に安全な場所へ逃れる判断力も秀でていたが、刀を交える事は無くとも、武士の力量を見抜ける程度には、姫の傍にいたからかは分からないが付きは幾度も目の当たりにしてきたのだろう事が伺えた。
「神谷さんが決して弱いと言っているのではないんです。神谷さんは強い。今までの護衛の誰よりも。そして沖田さんは別格です。ただ襲ってくる相手が強過ぎるんです。だからいつも何度も護衛の死に目を見ては、新しい護衛を呼ばざるを得なかった」
その言葉の真意に、総司の胸がきりりと痛む。
そして同時に疑問が沸く。それが表情に出たらしく、付きは「ああ」と言って笑うと、答えた。
「刺客も常に私たちを狙って襲ってきますが、一方で私たちを守る為に隠密で動いている方もいらっしゃるんですよ。護衛して下さっている貴方方に信が置けないという話ではありません。換えは常に用意して置かないといけないいんです。いつもなら。けれどその隠密もいつもは迷う事無く付いてきているのですが、今回は、その隠密さえ巻いていますよね?」
「そうですね」
総司は迷う事無く頷く。
今も常に、傍に人がいないか気を張っているからだ。
しかし、本来なら換えになるはずの護衛も付いてきているというのは、初めて知った。あれだけの刺客が襲ってくるならその必要もあるだろうと言われて今更ながら思う一方で、旅を出てから少しもその気配を感じなかったからだ。
「沖田さんは剣客として十分に凄い。そして神谷さんは、己の剣術の技量を補えるだけの洞察力と勘と運がある。隠密もそうですが、刺客とその裏で暗躍している人は神谷さんの思惑通り、山中や街中あらゆる道程を選ぶ事で撹乱されて、強い人間を一箇所に配置する事が出来なくなっているんです。何処から現れるか分からない、けれど確実に私たちを仕留めたい、そうすると手練の人間をある程度分散させて配置するしかないんです。その結果、最初の時のように精鋭に囲まれる事が無くなっている。相手はこういった戦術や戦場に慣れているはずなのに、その人間に読み合いで勝っているんです。それは凄い事です。そして――私たちを特別扱いしない」
「?」
「沖田さんもそうですが、普通、姫と呼ばれる方に山中を歩かせたりしません。そして一緒の部屋を取る事も」
「それは…。命を優先した結果であって。寧ろ、それに素直に従ってくれる事に驚きました。湯浴みまでこの部屋でさせて…」
「大抵の人間は命よりも身分を優先するんですよ。それに、大体の人が取る、二組に分かれて目的地へ向かうという方法も取らなかった」
「そうですね。神谷さんもそれは考えたらしいですけど。後は神谷さんの容姿は…本人は否定していますけど、女子のようだから女装をして誤魔化すとか」
「それもされませんでしたよね?」
付きは今も手を触れたままのセイを見下ろし、苦笑する。
「二組に分かれても、結局あらゆる所に刺客が配置されているのなら、変わらないと。四人組を狙っていたとしてもどういう方法でどんな情報が流れるか分かりませんし、もし二人組に分かれたと知られればそこで襲われます。それを一人で一人を護衛をし、また再度合流するまで苦労をするのなら、四人組のまま二人で二人を護衛する方が生き抜ける確率が高いという事と、神谷さんが女装をしても女物を動き辛いですし、戦力が落ちてしまうくらいなら相手の知ってる情報そのままに道程を撹乱させるのが結果的に一番得策だと考えたみたいですよ」
総司の説明に付きは納得したように頷いた。
「それは沖田さんの助言もあっての事でしょう?」
「私も多少は助言しますけど、そこまで突き詰めて考えられません。見ての通り、難しい事考えるくらいなら斬ってしまえの思考の持ち主ですから。だから元々機転の利く子で隊でも信頼を置かれていますけど、今回本当に神谷さんには脱帽しています」
そう。今回セイが同行者でなければ、いくら総司と同等、それ以上の剣客と共にしてもここまで辿り着けたか分からない。
それを見抜いてのセイへの仕事の依頼だったのかは分からないが、自分一人でもこの旅を遂げるのは不可能であり、セイで以外にこれほどまで機転を利かせる人間が隊にいるとは思えない、――総司と同じ性質の隊士の方が圧倒的に多い、だからセイで良かったと心の底から感謝した。
剣術馬鹿であることは自覚しているが、戦において策で戦況が変わるのは分かっている。しかし、いつもそれを決めるのは土方だった。
そして、昔からある兵法を用いても結局のところ武士個々人の資質が大きく左右されるものだろうと心の何処かで思っていた総司は、策を練るだけでこれ程にも状況も兵の負担も軽くものだと始めて知った気がした。
これ程までにセイを武士として尊敬しているのに――。
目の前で眠るセイの顔を見ていると、やはり彼女をあらゆる危険から今すぐ遠ざけたくなる。
「己の命を守る事で、人の命を殺める事を最小限に抑える。――そんな選択もあるんですね」
そう呟く付きを総司は見る。
今まで何度も姫と共に旅をしてきて、その度に護衛や敵の死を見てきたのだろう。
己の主君を守る者の死と、襲う者の死。どちらも同等の命だ。
武士である総司は戦での死を当然として受け入れる。しかし誰かの為に目の前で死を迎えるその人間を見てきた瞳は暗く、その奥底の感情を覗く事は出来なかった。
「付き!」
暫し落ちた沈黙の中で、荒ぶる高い声が名を呼んだ。
視線を上げると、姫が勢いよく布団の中から飛び出し、ずかずかとこちらまで来ると、付きの体を突き飛ばした。
それまで触れていたセイの額から付きの掌が離れると同時に大きな物音で覚醒したセイは飛び上がって、傍に置いていた刀を構えた。
「何っ!?…え?どうしたんですか!?」
起き上がってみれば自身の布団の上とは言えセイの枕元に座る総司、左側の壁には背を打ち付けて座り込んでいる付き、そして同じくセイの枕元で付きを突き飛ばした手をかざしたままの姫の姿が目に入った。
姫はセイの驚きにも問いにも答える事は無く、立ち上がると付きを見下ろした。
「貴方は何勝手な事をしているの!誰が私以外の者に触れてよいと言いましたか!」
背中を打ちつけた付きはゆっくりと身を起こすと、正座をし、その場に平伏した。
「申し訳ありませんでした」
「以後勝手な事をするのは許しません」
「――はい」
いつも冷静な表情と態度しか見せなかった姫が初めて感情を表に出して見せた姿と、付きとのやり取りについていけないセイは呆然とし、総司を見たが、彼も彼女と同じ気持ちだったらしく、呆然としていた。
「貴方方も」
姫は付きを睨みつけ、そして次の標的に総司とセイを見据えた。
「無事に私を江戸へ送り届けてくれるのであればどんな事でも致しましょう。森の中でも山の中でも歩きますし、同室で寝食を共にしてもいいし、数日食事を抜いたって構いません。どんな無礼でも見逃しましょう。けれどその目的を果たす為の事以外で気安く私たちに触れる事も話す事も許しません。私を守る事と身分を疎そかにする事を同等と勘違いしないでください」
この旅を始めて以来『身分』を口に出す事の無かった姫が初めてそれを明確にする言葉に、総司もセイも驚きと、今までの彼女の姿との違和感に何も返答する事は出来なかった。
「付きは私の付き人であり、屋敷では下男でしかありませんが、貴方たちよりずっと身分は上なのですよ。今後気安く話す事も触れる事も禁じます」
「――申し訳ございませんでした」
反論は許さない、高貴な者故に纏う圧倒的な威圧感に、我を取り戻したセイは普段から身分に物怖じしない性格が発揮され彼女の威圧感に制される事無く反論しようとしたが、総司に押さえ込まれ、その場で平伏させられた。