真夜中。
灯篭の火も疾うに消し、障子の向こうからおぼろげに差し込んでくる月の光だけが頼りの暗い部屋の中、総司は壁に背をもたれさせていた。
小さな部屋ではあるがきちんとした旅籠だ。今回の旅を始めてから、初めて泊まった宿だった。
部屋の中には四組の布団が敷かれている。
総司と対面して敷かれている布団にはセイと姫が。そして彼の隣には付きが眠っている。
本来なら身分に分かれて部屋を取るべきであろうが、同室にしたのはいつ刺客に襲われても対処できるようにだ。
万が一の場合、窓からの刺客の侵入にはセイが、廊下からの刺客には総司が対処できるように寝る場所を決めた。だから枕を対するようにセイが眠っている。
久し振りの宿と布団は、それまで殺伐とした状況で旅をしてきて彼ら自身が思っていた以上に擦り減らしてきた体力も気力もそして心も癒した。
湯殿付きの宿で、入る事も考えたが、元々いつ何があるか分からず、セイが元々女子とはいえそれを明かしていない以上、女子は姫だけで、湯殿とはいえ彼女が一人になる時間を作るという危険性を考えると選択できず、女将に湯を貰い、衝立を立てる事で一人ずつ部屋で湯浴みをする事になった。
その場でも姫は特に異論を唱える事は無く、だからと言って男ばかりの中で警戒するでも恥らうでもなくいつものように平静として湯を浴び、部屋での簡単な湯浴みでさえも、もう何十日と風呂に入れなかった彼らには一息を付かせた。
そうして一人ずつ湯浴みをし、質素だが持て成される調理された温かい料理を久し振りに味わうと、半ば獣のようにして山を越えていた自分たちが人間としての感覚を取り戻すようで、心落ち着き、日干しされた布団に入り込むと体の芯から癒された。
皆が寝入る中、見張りの当番をしていた総司は壁から背を外し、己の枕元に座ると、彼に頭を向けて眠るセイを見下ろした。
久し振りの布団でほっと息を吐いている半分、いつ何が起きても対処できるように気構えている半分なのか、眉間に皺を寄せて彼女は眠っていた。
本人は気付かせないようにしているが、元々白い肌ではあったが、日々更にそれに輪をかけて寧ろ青白くなっている。
「そんなに力んで寝ていると土方さんみたいになっちゃいますよ…」
総司は小声で囁き、セイの髪にそっと触れた。
さらりと前髪が揺れる。
元々新選組は夜襲に備える訓練している事もあって、寝ている時でも不測の事態にすぐに目を覚ますように体が完全に眠る事は少なく、それでも休息を取れるように日々慣らしている。
とはいえ、幾日も続いた、時も場所も選ばない襲撃に緊張が続き、宿に泊まれたからといってすぐに体が休まるものでもなかった。
山の中では交代で眠り、宿でも布団は対面で敷いているとはいえ、交代で仮眠を取るようにしている。
本当ならもう少しゆっくりと落ち着いて眠らせてあげたいのだが、彼女がそれを嫌がる。総司がそうする事で己の睡眠時間を削る事になるからだ。
一度彼女に気付かれないように寝かせてあげた事があったが、その時大いに叱られ、ついには泣いて訴えられてしまった。
いつ、どちらかに何があるか分からないのだから、不測の時の為にも公平に休んでくれなければ、万が一総司に何かあった時に自分が負担をかけたせいだと思うだけで己を許せなくなる。と。
そんな事を言われれば、元々体力さもあるのだから、彼女の為だといっても甘やかす事は出来ない。
眉間に皺を寄せ、何処か苦しそうに眠る少女を見つめ、唇を噛む。
言葉にならない感情が総司を襲う。
そうして浮かんでくるのは土方の言葉。
『お前は神谷をどうしたいんだ?』
ずきりと胸が痛くなる。
戦いの間、武士として信頼して背を任せている。そこに嘘は無い。
しかし、一方で修羅場が終わり、セイの無事な姿を見るとほっとするのも確かなのだ。
そこには同志をの安否にほっとするだけで終わらない感情が確実に含まれている。
そしてその後に襲ってくる罪悪感。
こんな命のやり取りの場にセイを巻き込みたくは無かったのに。
そんな思いが取り巻くのだ。
今回の仕事はセイが先に望まれていたし、セイも武士として覚悟し、一仕事として全うしている。
彼女は巻き込まれた訳でもなければ、嫌がってもいない。
彼女を見下しているつもりは一切無い。
寧ろいつだって彼女のそうした懸命な姿に自分の方が励まされ、尊敬している。
それなのに罪悪感と恐怖が襲ってくるのだ。
彼女が。――女子として大切だから。
――愛しさ故。
きっとこの想いを吐露してしまえば、今度こそ本気でセイに怒られ、拒絶されてしまうだろう。
けれど戦いが終わる度に、セイが無事生きている姿を確認する度に、泣きそうになるほど、苦しくて、嬉しくなる。
無性に抱き締めたくなるのだ。
あの時、そんな想いを土方に告げる事は出来なかった。問われるまで自分でも何処か無意識下の淡い感情だったから。
『やがて気付くぞ』
そんな事は言われなくても分かっていた。
彼女は聡いから、きっといつか総司の行動の意味を知りたがり、そして、勘付くだろう。
それでもどうしても己の力でどうにかできるのなら出来るだけ刀の届かない後方に彼女を置いておきたかった。
「…武士として最低です」
そして、一方で思う。
今回、セイが望まれ、そして総司が同行者として選ばれた。
これがもし、他の人間だったとしたら…。
こんな状況に置かれている彼女を守れないのだとしたら。
傍にいて守れない自分も、自分以外の誰かが彼女を守る自分も、自分以外の誰かと互いに命を守り合う彼女も、例え彼女が命散らすその時に真っ先に駆け寄れない自分も、想像するだけで、――総司の心を凍りつかせた。
『守るのは要人の命だけだ。後はてめぇの命をてめぇで守れ。神谷が死んでもな。――それができるなら、行け』
土方にそうは言われて、この役目を引き受けたが。
「私は神谷さんをどうしたいんでしょう…」
彼女がこの旅で修羅場に追い込まれる度に、追い込まれる故に、どんどん力量を上げ、総司に追いつかんばかりの腕を磨いている。
きっと京で最初に迎えた修羅場のような戦い方はもうきっとしない。あの程度の刺客なら軽く納められる位に。
山の中、川辺、遮るものの無い畑、時に屋敷、雨天、強風、暑さや寒さ、武士や山賊時に農民、あらゆる条件下で、あらゆる身分や立場の刺客を相手に、刀を抜き続ける事で研ぎ澄まされ、総司自身もそしてセイも格段に腕は上がっていく。
己の腕が上がる事もさることながら、己の初めての弟分であり、一番弟子と思っているセイの成長は師として兄分として誇らしく、そして嬉しい。
それなのに。
この旅を始めると同時に、己の中で抱いていた感情は顕著に現れ、事ある毎に衝動に似た感覚で総司を突き上げ、体が勝手に動こうとする。
修羅場を抜ける度に大きくなり、総司を悩ませた。