凍る月2

「私の事は『姫』と。そしてこの者は『付き』とお呼びください」
出立の日、本来であれば総司たちが迎えに出向く所を、警護されるべき立場の人間自ら新選組屯所に現れ、少女はそう名乗った。
これからの旅で身分を隠す為にか、仕立てこそ良いが質素ながらの着物に身を纏った、まだ十四、五歳くらいの少女。そして彼女のすぐ後ろに総司と同じ年の位の男が控えていた。
男は総司たちと同じ着物に袴という動き易い格好をしているが、帯刀をしていない事から彼女の世話役として付いているだけのようで、斬り合いの際の人材としては期待出来そうに無かった。
結局松本から聞かされてはいないが、恐らくは高位であろう人間が態々訪れた事に慌てた近藤は門前では、と、自室に招き入れ、今回警護に当たる総司とセイを呼ぶ。突然呼ばれた二人は近藤と同様に驚いて、慌てて駆けつけ、彼女の前に座すと同時に、少女は自己紹介を始めた。
男ばかりの屯所に自ら訪問し、傍付きの男がいるとは言え女一人で部屋に招き入れられ今も囲まれている事に怯える事もせずに、背筋を伸ばし真っ直ぐ近藤を見据えて名乗る少女に誇りと気位の高さを感じさせる。
思わず恐縮して己も背筋を正す近藤とは対して隣に座っていた土方は目を細めた。
「本名と身分は名乗れない。と」
彼が皮肉を込めてそう問うが、少女は表情一つ崩さず、ただ頷いた。
「知る必要はありません。通称さえあれば会話はどうとでもなります」
「仮にもこれから寝食を共にし、命をかけて警護をする人間に対して、礼儀として名乗るのが筋だろう」
「――そんな事で貴方がたは仕事を疎かにはなさらないでしょう」
それは新選組を評価している言葉のようでいて、明らかに彼らを牽制している言葉だった。
しかしそう言われてしまえば、松本の仲介という事もあって、これ以上話を荒げて揉め事を起こしても何の得にもならない。
土方はそれを理解しているだけあって、悔しさに唇を噛むが、それ以上追求する事は無かった。
彼が牙を納めたのを見て、少女は総司とセイに向き直ると、深々と頭を下げる。
「理由も話さず、ただ命を懸けて我が身を守って頂く過酷な旅になるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」
まさか高位の人間が何処の場に赴いてもいつも嘲りを受ける新選組のしかも一隊士に対して頭を下げると思わなかった二人は、少女の行動に驚き、慌てて自分らも頭を下げた。
――そう。
理由も聞かされず。
ただ今までの要人警護の比にならないくらい道中命を狙われ続けるだろう。
それだけを覚悟し、彼女を江戸へと送れ。
それが今回の使命だった。 そして。
その終着地、江戸の何処へ彼女を送ればいいのかも、明かされていない。
目的も素性も、命を狙われる理由も、何もかも一つも伝えられないまま、総司とセイは姫と付きと名乗る二人を連れて旅に出る事となった。
そして、旅立ってすぐに、この使命を全うするのがどれ程困難であるかを身を持って知る事になる。
土方が今回の命の内容を総司とセイに伝えた通りに、そして少女自身が語った通りに、身分の分からない浪人が出立後間もなく、彼らを襲った。
「神谷さんは姫様を!」
総司はそう叫んで、突然起きた修羅場から要人とお付の者を遠避けてから戦おうとするが、襲ってくる男たちはそんな隙を与えなかった。
数は六人。何れも刀を構える姿は同門の流派を習っているようで統一されていた。
彼らの身分を咄嗟に察するが、思考する余裕は無い。
まだ屯所を出て間も無く、京の中心から離れたとはいえ、まだ京の中だというのに、男たちは最初から総司たちが通るだろう事を見越して待ち伏せているようだった。
浪人たちは総司たちの姿を見つけると、すぐさま抜刀し、名乗る事も目的を語る事も無く、ただ真っ直ぐ姫だけを狙って襲い掛かる。
そんな既に打ち合わせ済みのような素早い行動だからこそ、総司は体制を整える間も無く己も抜刀し、迎撃した。
相当の手練。
土方の話を信用していない訳では無かったが、正直ここまで強い人間が襲ってくるとは思っていなかった。
交わす刃が重く、彼を防御に徹しさせる。
己の意識が甘かった。
そう思って、総司は唇を噛み締める。
刃を弾いても、すぐさま次の刃が彼を襲い、繰り返される。常に己が優位にあるように無言で敷かれる浪人たちの布陣。
仮にも新選組で随一の刀の使い手が集められている一番隊の組長である総司から、隣で刀を交わすセイを振り返る余裕を与えない。
周囲の状況を捉える余裕くらいはある程度に動けはするが、恐らくは総司たちの力量を予め見定めてから人選し、どう布陣するか計画し、襲ってきたのだろうと想像できた。そして、浪人たちの中で最も腕の立つ人物が総司に当てられていて、その人物は恐らくはこの集団の主犯格であるようだった。
正確な布陣。乱れの無い攻撃。皆同じ流派の型。目の前が少なくともこの集団の中での中心人物。
――だったら話は早い。
ギリギリと刃が噛み合い、拮抗するところを総司は少しだけ力を抜いた。
「!」
彼が力を抜いた事で、前方に体を傾け続けていた主犯格の浪人の体は顔面から地面に向かって傾き、体制を崩す。
対峙する浪士も恐らく思っただろう。拮抗する相手に――隙を与えてしまったと。
思った時にはもう遅い。
ザン――。
総司は刀を引くと同時に、半歩後ろに下がったが、刀は上段に構えたまま、相手の体制を崩す事に成功すれば、後は前のめりに倒れてきた相手の上に刃を下ろすだけでよかった。
てん。てん。と、同から切り落とされた首が、鞠の様に地面に転がる。
切り離された胴から吹いた血飛沫を避けながら、周囲を見ると、主犯格が斬られた事でそれまで総司たちに刀を向けていた浪士たちは身を翻すと、皆ばらばらの方向に向かって走り出し、あっという間に何処とも無く消えていった。
「待てっ!」
セイがその痕を追おうとするが、総司は軽く手で制す。すると、彼女は不満気に顔を上げた。
「先生!」
「貴方の役目は何ですか?」
そう問われると、セイははっと表情を強張らせるが、しかし納得の出来ない様子で「でも!」とだけ反論する。
「――彼らが何者であり、何故貴方を狙うのか知る必要がありますか?」
膨れるセイを無視し、総司が背後を振り返ると、こうした修羅場自体に慣れているのか襲われる前と表情を何一つ変えないで佇んでいた姫は横に首を振った。
「必要ありません」
「だ、そうですよ」
要人本人に言われても尚納得の出来ない様子であったが、セイは渋々と刀を納めると、周囲を見渡した。
「――命を狙われているとは聞いてましたけど、周りが畑とはいえ、まだ今日を出てないのに、御上の膝元でこんなにも堂々と襲ってくるのですか?」
それは総司も先程感じたことだった。
人通りの多い所では流石に衆目もあるし、見廻組や新選組が巡察をしているから動きにくいだろう。しかし、少し目が届かないだろう場所に出た途端襲われるとは思ってもみなかった。
「私の命を奪う事。彼らの目的ははっきりしていますし手段は選びません。大抵の事ならどうにでもできる人間が背後に付いている事だけはお伝えしておきますのでその上で判断下さい」
総司とセイ、二人から注がれる視線を姫は受け止めると、それだけを端的に答える。
己の命が狙われ、危険な目に早速遭い、そんな旅がこれから始まると言うのに、何処までも冷静に己の事さえも他人事のように話す少女は既に覚悟していたのだろうか。つい彼女の心が何処にあるのか探りたくなってしまう。
しかし、それは任務とは関係無い。
「今の人たちは明らかに私たちがこの道を通るのを知っていて、待っているようでした。これから先もそういう事があるのでしょうか?何処かで私たちの情報が流されている?」
「もしかしたら今この時も誰かが目を凝らし、聞き耳を立てているかも知れません」
総司が抱いていた問いを口にすると、姫はさらりと答えた。
「…お付の方がもしかして…」
口篭りながらもセイが戦いの間ずっと姫の傍におり、守るでも庇うでもなくたっていた男をちらりと見、憶測を口にすると、「それはありません」と姫ははっきりと答えた。
余りにもはっきりと断言された事で、疑ってしまった事を逆に恥じたセイは「申し訳ありません」とすぐに詫び、頭を下げる。
「…とにかく。まともに進んでいたらこれからもこんな風に場所や時間を構わず襲われ続けるという事ですね」
「私たちが江戸に向かうという事は知っております。道程はきっと今、この瞬間も何処かで見張られていて、次の刺客も用意しているでしょう」
「このまま済んでいては疲れるだけだし、態々敵に自分から会いに行くだけですね」
姫の言葉を受け、総司は考え込むように顎をなぞる。
「分かりました!だったら本来取るであろう道程で進まなければいいんですね!」
セイは顔を上げ、そう意見するが、総司は眉間に皺を寄せたまま彼女を見た。
「それはそうですけど…」
「多少時間はかかるけど仕方がありません。常に私たちの道程を今、この瞬間も予測されて先回りされている前提でその予測に最も反するように進みましょう。このまま進んでは恐らく、数日も経たずに私も沖田先生も道の途中で疲れ果てて、姫を江戸までお送りする事が出来ません」
今襲ってきた浪士は強かった――。
セイは胸の中に言いようの無い恐怖が今になって襲ってきた。
襲われた瞬間、総司の指示を聞き取る前に抜刀していなければ、己の身さえも守れなかった程の速さで刀が彼女の目前を横切った。
姫と付きを守らなければ。という頭は働いたが、彼女の元へすぐに駆けつける暇は無かった。
二人が気配を察し、素早くセイと総司が彼女らを守りながら戦える最適の位置に移動してくれたから良かったものの、そうでなければ、己の命も守るべき人の命も疾うに尽きていた。
松本に出立前に念を押されたが、まさかこれ程までとは思っていなかった。
このまま進めば総司は持ったとしても、自分は体力が尽きる。そしてきっと力尽きたセイさえも守ろうとする総司も倒れる。
それだけはあってはならない。
弱い事は悔しい。悔やんだ所で現実は変わらないし、任務を引き受けた以上引く事は出来ない。
弱いなら弱いなりの戦い方をするのだ。
「姫様にも付き様にも速さや体力よりも、命を優先して頂きます」
「構いません」
姫の言葉と付きの頷きを受け、セイは振り返るとそこに聳える青々とした山を示した。
「取り敢えず、今から道を変えます」