凍る月10

神谷さん!
炎が上がる納屋に向かって総司は一目散に駆けつけた。
対峙していた男が遮ろうとするが、それまでの苦戦が嘘のように、空を薙ぐが如く自然な動作で男を一閃すると、総司は無我夢中で駆ける。
肩の傷が両足で地を蹴る度に響いたが、そんなものは少しも気にならなかった。
どくりどくりと高鳴るのは鼓動か、それとも肩から溢れる血流か。
刀を納め振り上げる腕が片方だけ段々と持ち上がらなくなる。
それでもいい。
一刻も早くあの場所へ。
泥の道に足を取られ、それでも踏みしめながら、早く、早くと駆けつける。
既に天まで舞い上がり、納屋全体が既に赤く燃え、入口は炎で閉じられていた。
そんなものは関係ない。
炎に構わず飛び込もうとする彼の目の前に人影が現れた。
「!」
男一人と、彼に肩を貸されながら足を引き摺るようにして歩く人物。
煙に撒かれ、はっきりとしない人物像は総司の心臓を凍らせた。
まさか――。
ありえない。
どちらが助かれば嬉しいのか。
一瞬己の中の理性に問われ、総司は思考を停止させる。
しかしその間もどくどくと心臓は高鳴り続けた。
守るはずの命。
それは三人のはずだ。
響く土方の言葉。
『守るのは要人の命だけだ。後はてめぇの命をてめぇで守れ。神谷が死んでもな』
奥から現れるのは二つの人影。
刺客でないことは分かる。――では、誰と誰だ?
風貌からして、明らかに一人は付きとしか判断できなかった。
それが嬉しいのか悔しいのか分からない。
ではもう一人は――。
込み上げてくる吐き気と、喜びの涙。
セイが、彼女が自分が助かり、姫を置き去りにするはずが無い。
武士としての信頼が、総司に確信させる。
確信する事で、黒い虚ろの中に吸い込まれるような慟哭が彼を襲って息が出来ない。
己は、誰の生を望んで駆けつけてきた?
体が無意識にガタガタと震えだし、現実を拒否するように、意識が鼓膜が、網膜が、全てを受け入れる事を拒否する。
正しいはずの事を受け入れる事を拒否する。
そんな己に愕然とし、そしてそれでも望むたった一人の命が現れてくれる事を祈った。
「沖田さん!」
現れたのは付き。
そして――。
「神谷さんは私がこのまま運びますから!早くこの場から離れましょう!」
左胸から溢れる血が袴を伝い、足元まで赤く染めたセイがぐったりと青白い顔で付きに体を預けていた。
付きの肩を借り、僅かに零す呼吸で揺れる体が彼女が生きている事を伝えていた。
「神谷さん!」
溢れるのは歓喜と悲嘆。
そして頭の中に響き続ける土方の言葉。
「姫様は!?」
それでも湧き上がる感情を必死で押し殺し、総司は付きを見る。
付きは首を横に振った。
「では…」
任務を果たせなかったのか。そう暗に総司は言葉を発したが、付きは彼を見上げると揺ぎ無い眼差しのまま答えた。
「大丈夫です。彼女も身代わりですから。それよりも奴らの仲間がここに辿り着く前に、そして目的を果たしたと思い込んでいるうちにここを離れましょう!」
訳が分からないままであったが総司は頷くと、付きに寄りかかったままのセイを抱き寄せようとする。が、付きに阻まれ、顔を上げた。
「大丈夫です。神谷さんはこのまま私が運びます」
「―――」
「絶対に死なせませんから。安心して下さい」
総司は戸惑いながら彼を見つめ、そしてセイを見下ろすと、そっと彼女の頬に触れた。
――冷たい。
まるで全身の血が抜けきったかのように冷たい。
「!!」
やはり預けられない。
セイに早く手当てをして、彼女の体温を取り戻さなくては。
彼女を生かすのは私だ。
私が彼女を抱き締め、そして――。
言葉にならない想いが呼吸も浅く死に向かっているセイに触れる事で一気に暴走する。
付きの手から彼女を毟り取るように手を伸ばすが、それを見越したように付きは先にセイを横抱きにして、抱え上げた。
「貴方も怪我をして抱き上げる事は出来ないでしょう!沖田さん!お願いします!貴方の大切な人だからこそ私にこの命救わせてください!」
付きに抱き上げられ、彼の胸に頬を寄せるセイに焦燥感を覚えるが、総司はまだ動かせる左手で握り拳を作り、ぎゅっと力を入れる。
大丈夫だ。
セイは絶対に大丈夫だ。
総司はくるりと背を向けると、駆け出した。
「何処か身を隠せる宿を探しましょう!――それでいいんですよね?」
「はい」
彼の言葉に、付きは強く頷いた。