川辺にて

さらさらと穏やかに流れる川にセイはそっと素足を差し入れる。
夏の初めの今時期は、気温こそ既に少し歩いただけで汗を滲ませるくらいになっていたが、流水の温度はまだ上がらない。
ひやりとした感触に、びくりと体を震わせて一旦引くと、もう一度差し入れた。
「沖田先生っ!川の水冷たくて気持ちいいですよっ!」
顔を上げると、川辺の石に腰掛けている総司を振り返り、手を振った。
「気をつけてくださいね。貴女粗忽者なんですから滑って転ばないでくださいね!」
総司は手を振るセイにそう声をかけると、一人川の中に入って遊ぶ少女を微笑んで見つめた。
言った傍から川の石に足を滑らせたのだろう足元を掬われ尻から転びそうな所を寸でで留まり、仁王立ちを保ちながら暫しその場で体制を立て直すと、セイは振り返り、にっかりと笑って見せるが、総司は堪らず声を上げて笑ってしまう。
「神谷さんっ!言った傍から~!」
「笑わないでくださいっ!転ばなかったじゃないですか!」
「そうは言ってもっ!しかも仁王立ちって!格好良過ぎますよ~!」
女子なのに。
そう言ってしまえばセイから怒りを買ってしまうからその言葉はぐっと飲み込み笑う。
セイはと言えば恥しそうに頬を染めながら、こちらを睨んでいた。
どんな姿でも目の前の少女の姿は総司に眩しく見える。
はしゃぐ姿も、笑う姿も、恥しそうに俯く姿も全てが愛しい。
一人の女子として。
恋情を抱く相手として。
そう――気付いてからどの位経っただろうか。
自覚するのが遅すぎるくらい、ずっと前から愛しさは抱いていた事を、こうして彼女を見つめている事で気付かされる。
自覚してからも自覚する前からも、彼女に抱く感情は少しも変わらないからだ。
ただ愛しくて、大切で堪らない。
変わった事と言えば、自覚できた分だけ、より深く彼女への愛しさを深める事ができることだろうか。
愛しさが増すだけ、無自覚だった独占欲もより深さを増して、そんな自己へ嫌悪してしまうが、どれ程考えたところで、彼女を己の傍へ、己の妻へと願い、至る事は無い。
――今のところは、まだ。
時折溢れ出そうになる感情に蓋をして、敢えて見ようとしていない自分にも薄々気付き始めているが、そこに触れないようにしている。
――彼女には誰よりも幸せになってほしいから。
誰よりも愛しい彼女を己自身の手で貶める事はしてはならない。
彼女は幸せになるのだから。
そう思って、つい、微笑んで見つめていると、セイは総司の視線に耐えられなくなったのか、顔を背け、その場に屈み、魚でも探し始めたのだろうか、手を水に付けた。
「――」
最近。気付いたことがある。
セイも総司と同じ様な感情を抱いてくれているのではないだろうか。と。
最初はもしかして。と思っていた。
けれど、それが段々疑惑になり始め、今は、そう、確信している――。
「神谷さん。何かいますか?」
セイに気取られないようにそっと川に屈み込む彼女の背後に近付き、耳元近くで声をかける。
「うわぁっ!?」
悲鳴染みた声を上げると、セイは勢いよく振り返り、そして総司の顔の近さに顔を真っ赤にして、距離を取る為に後退りすると同時に石に足を引っ掛けてその場に尻餅をつく。
ばしゃんと派手な水音と飛沫が跳ねる。
「あらら。大丈夫ですか?神谷さん?」
「~~大丈夫かじゃありませんっ!気配消して背後から声をかけないでくださいっ!」
「どんな時でも常に周囲に注意するのが武士でしょう。士道不覚悟ですよ」
「ただでさえ気配を消すのが上手いのに、その上慣れ親しんだ沖田先生の気配に気付くのは難しいんですっ!」
まだ頬を染めながら呻くセイに手を差し伸ばすと、彼女は少し戸惑いながら、それでも、視線は合わせないまま総司の手を握り返す。
ひょいと、握り返してきた手を引くと、セイは軽々と総司に引き上げられる。が、総司も彼女を引き上げる為に力を入れた足を置いた場所が悪かったらしく、つるりと滑ると、為す術無く、セイもろともその場に転んだ。
「どわぁっ!」
総司が尻餅をつき、その上にセイが覆い被さる形だ。
勿論、咄嗟にセイが怪我をしないように総司は彼女を抱える。
また派手な水音を立て、二人とも頭から水を被り全身びしょ濡れになっていた。
「…せんせぃ~」
「ごめんなさい!今のは完全に油断しましたっ!」
そう言って、総司は胸に抱えたままのセイを見下ろし、セイは抱えられたまま総司を見上げる。
「……」
「……」
息もかかりそうな顔の距離だった事に気づき、総司もセイも暫し固まってしまう。
転んだ拍子にかかった水飛沫がセイの前髪を濡らし、睫に乗った雫が瞬きと共に頬を伝う。
上気して赤らんだ頬が白い肌に映え、ぷっくりと膨らんだ真っ赤な唇から零れる吐息が総司の唇に触れる。
細く柔らかな体は互いに密着し、濡れた着物の分だけ素肌の温もりを互いに伝え合う。
どくどくと早く鳴る鼓動は、己のものか相手のものか。
目の前の少女の眼差しが、戸惑いながらも、何処か憂いと、喜びを感じているように見えて、総司の全身をざわつかせる。
己の頬が上気し、心音が急激に早くなるのに気付いて、総司は慌ててセイを引き剥がした。
「っ!……あ、ほら、こんな所に沢蟹っ!」
「…え?…あ…」
セイも何処か夢から覚めたように表情を変え、総司の指摘する彼の座るすぐ横を動く小さな沢蟹を見つけた。
「これ、捕って帰ったら皆喜びますかねぇっ!」
総司が無邪気に笑って見せると、セイも何処かほっと安堵した表情を見せ、「そうですねぇ」と笑う。
「でも。壬生の頃ならまだしも、今はもう、態々沢蟹を取って食べたい人なんていないでしょう。もっと他に美味しい物一杯あるのに」
「神谷さん。初心忘れず。ですよ。懐かしい味は今も昔も美味しく食べれます!それに実際美味しいじゃないですか!」
「…はいはい。じゃあ、何匹か取って帰りますか」
そう言うとセイはその場に立ち上がり、くるりと総司に背を向ける。幾つかの石を転がし、沢蟹を探し始めた。
もういつもと変わらないセイの様子に、総司は何処か寂しさと、嬉しさを感じてしまう。
いつの頃からか気付いた。
セイはいつだって総司の一番近くにいた。総司自身無自覚の時から愛弟子として傍にいるのが自然になる程彼女を望んでいたからだけではなく、彼女は何度異動しても、必ず総司の元に戻るのを望んでいた。
そして、触れる時、――頬に触れたり、手に触れたり、それは総司自身が彼女への想いに気付いてからは少なくはなったが、それでも何かの際に触れる時、彼女はいつだって驚いたり、頬を上気させたり、瞳を潤ませたり、笑みを浮かべり、時には涙を零したりして見せた。
どれも今の総司だから気付く事ができる――。
それは、――恋情故の感情の揺れ。
セイは総司に恋情を抱いている――。
それに気付いた時、総司は言い知れぬ喜びと幸せに満たされた。
中村や斎藤や土方や、己よりもずっと魅力的で彼女を幸せにする男たちがいる中で、己を選んでくれたのだと思ったら、彼女に想われているのだと気づいたら――今までに知る事の無かった喜びに全身が震えた。
けれど、同時に――気付いたからと言って、その先に踏み出す事ができない己に気付いた。
己自身は既に、妻帯する事は無く、生涯不犯で武士道を貫くと疾うに決めていたのだから――。
それを翻す事はできない。
そんな己が彼女を幸せに出来るはずが無い。
第一、セイは武士だ。
彼女は恋情を抱いてくれている。けれど。彼女は武士でいる事を望んでいる。
そうでなければ、――彼女はもっと早く総司に想いを告げていただろう。
彼女は何も言わず、ただ、総司の傍にいてくれる。
だから、総司は――彼女の幸せを望む為に、己の想いに蓋をした。
ただ。
今は。
「そう言えば、今日はどうして二人で川まで来ようって仰ったんですか?私てっきりいつも通り何処かの菓子屋で休みを過ごしましょうと言うと思ってたのに」
袴を広げその中に取った蟹を入れていたセイは総司を振り返って問いかける。
「神谷さんと誰にも邪魔されず二人っきりになりたかったからだすよ」
「……え?」
ぼっと一瞬にしてまた顔を真っ赤にさせるセイに、総司は苦笑する。
「って。あーっ!神谷さん!蟹がっ!折角取った蟹が落ちてますっ!」
耳まで真っ赤になったセイはその場に固まり、意識が削がれた手元は袴の裾を掴むのを止めて、ぼとぼとと捕まえられていた蟹が落ちていた。
「っはっ!?ぎゃーっ!折角取ったのにっ!」
慌ててその場に屈み込みセイは今逃げた沢蟹を捕まえようと既にびしょ濡れではあるが更に濡れるのも構わず右往左往する。
その姿にまた総司は笑ってしまった。
今はまだ、彼女の恋心は総司の元にあるのだと、何度も確認する。
確認したところで、どう動く事も無いのだが。ただ、彼女の心がまだ己にあるのだと想うと安堵するのだ。
いつまで続けるのだ。そんな不毛な事を。と斎藤に知られればきっと言われてしまうだろう。
こんな事をするくらいならば、相愛だと気付いているのであれば、そう伝え合えばいいだろう。と。
それでも、総司は伝えない。
今の幸せを噛み締め、安堵する――。
まだ、幸せな恋心であるうちに、誰か信頼の置ける人の元へ。そう望みながら、己の傍で己を想い続けてくれる事を望む。
それくらいを望むことくらい許されてもいいだろう――。
想いは伝えないのだから――。

己の想いを伝えたら何か変わるだろうか――。
そんな総司の自身への問いは、はっきりと形になる前に心の奥に溶けた――。

2015.12.23