生きろ-草-

「生きろ」
土方はそう言った。
そう言って、彼はその数日後、官軍に討たれ、帰らぬ人となった。

セイはそれを戦傷者を匿う陣屋で聞かされた。
「え?」
発せる言葉はそれだけ。それ以上声が出なかった。
襲ってくるのは、後悔。
私は何の為に、北の地まで必死で駆けてきたのだろう。
彼の人と約束をしたのに。
陣屋を出て、今すぐにでも土方のいる戦場へ駆け出そうとするセイを、隊士の一人が止めた。
行っても無駄だと。もう遅いと。
けれど、セイは彼を守る為に来た。
彼の人の代わりに。彼の人の刀になると決めたのだ。
――今はもう、この世にいないはずの、彼の人の為。
今この場で、負傷している隊士たちを一人でも多く助ける役目を土方に再会して早々に与えられた。
セイは何度も傍付きにさせて欲しいと願ったが、彼は頑としてそれを受け入れず、「大童に守られるほど弱くねぇ!」と反論され続けた。
京都で過ごしていた頃よりずっと丸くなったと周りは言うが、セイに対しては以前と何一つ変わらない態度で憎らしい。
それでもセイは何度も食い下がり、きっと必ず彼が嫌がってもこっそりでもついていってやる!と決意していた矢先、彼は討たれた。
そこから先は、セイはよく覚えていない。
ただ、外を出れば官軍に討たれ命果てた仲間たちがそのまま地面に放置されており弔う事もされないそんな中、新選組隊士の仲間に手を引かれ、何処かの屋敷へ連れて行かれた。
隊士のその人に何かを言われ、土方と同様に洋装をした身奇麗な姿をした男性に連れられ、引き合わされた彼の妻らしき人に手を引かれ、気が付けば女子姿に戻された。
そうして船に乗せられ、気が付けば江戸に着いていた。
いや、その頃には東京と名を変えていたが。
女子姿で東京に戻ったセイは、そこで気が付けばその家の養女となっているらしかった。
ずっと呆然としていたセイはその頃になってやっと、己の置かれている状況を初めて知ろうとしていた。
もう北の地に戻ろうにも、既に幕府軍は降伏し、瓦解していることを知った。
ある者は捕虜として捉えられ、ある者は逆賊として刑に服していた。
セイを戦場から連れ出してくれた隊士が今はどうしているのかは分からない。
彼女を匿ってくれた男性も一時的に捕らえられているが、才能を買われこれからの国作りに尽くす事を条件の上で近々解放されるらしかった。
男性の妻はとても気の良い人で、自失呆然としているセイに毎日声をかけ、彼女を支えてくれた。
セイには帰る場所も、行く場所が何処にも無くなっていた。
あるのは、彼の人の刀となって消えるはずだった、彼女自身の命だけ。
『私が沖田先生の刀になります』
そう誓ったのに。
『頼みますよ』
彼の人はそう言って微笑んで見送ってくれたのに。
小さな黒猫を抱いて。
その子の名が『セイ』だという事をセイは知っていた。
彼の人は隠している様子だったが、ふとした際にそう名を呼んでいた。
己の女子としての心だけはここに置いていけるのだ。彼の人の最後まで傍にいられるのだ。そんなささやかな幸せを感じていたのをきっと彼の人は知らないだろう。
誠の武士として、彼の人の刀となって果てるはずだったのに――。

セイは街中をとぼとぼと歩いていた。
日々目まぐるしく変わる景色に、戊辰戦争が始まる以前なら浮き足立っていただろうが、今のセイには鬱陶しく映る。
女子の格好をしている己が酷く滑稽だった。
しかし、今現在世話になっている屋敷では女子として世話になっているので男の格好は出来ない。屋敷の家人に迷惑がかかってしまうからだ。
だからと言って、今のセイにはすぐさま働けるような職が無い。
家の人間は養女としてセイを受け入れ、いつまでもいたらよい。と言ってくれているが、セイが一人で生きていく術を探っているのも知っている様子でその事に対しても何も触れず、彼女の生き易い様に助力してくれていた。
セイには分からない事だらけだった。
何故あの時手引きした隊士は己を女子の姿にさせたのだろう。女子の方がその後来る追っ手から逃しやすかったからだろうか。
それとも女子と知っていて戻したのだろうか。
それにいつの間に上役らしき人物と伝手を作っていたのだろう。土方がいざという時の為に指示を出しておいたのだろうか。
そう考えて、セイは唇をぎゅっと噛む。
刀に触れようとしても、腰に大小はもう無く、蝦夷地を離れる際に奪われてしまった。
『生きろ』
土方はそう言った。
何故彼はそう言ったのか分からない。
セイが何を思って、何を抱いて彼の元に辿り着いたかはきっと知っていただろうに。
彼はセイに一度も総司の事を尋ねなかった。
どれだけ戦況が変わろうとも総司の為の医薬方としてずっと傍にいたのは分かっていたはずなのに。
今も耳に残る、セイにとって残酷な言葉。
しかし。彼女にはこれからどう生きていけばよいか分からなかった。
綺麗に舗装されていく街並みを見ながら歩く。
何を目的も無く歩く。
そうして暫く歩き続けていて、ふと、立ち止まり遠くを見つめた。
――数ヶ月前まで隠れ住んでいた場所を。
大切な人の快癒を願って、それでも共にあれるというささやかな幸せを過ごした場所を。
噛んだ唇を更に強く噛んだ。
そうしないと涙が零れてしまいそうだったからだ。
「ふっ…」
溢れる嗚咽をぐっと堪える。
きっとあの場所に、もう、――総司はいない。
最後に別れた時、彼は、もう――命の灯火も儚かった。
青白い顔、筋張った肩、骨の張り出した掌、咳を一つすればそのまま崩れてしまいそうなくらい細くなっていた。
それでも、きっと治る。絶対治る。それだけを信じ続けてセイは懸命に看病を続けた。
そんな彼を支えるのは、武士としての矜持。
近藤を守るのだ、土方の片腕になるのだ、そして新選組を守るのだ。
それが全てだった。
目の前で看病するセイを映さずに、ただ日々それだけを口にしてその日を生き延びている。
セイに出来る事はただ、総司の命をこの世に留める為に出来る事を尽すだけ。
彼女の生命力を注ぎ込むように、作る食事に、触れる肌に、交わす言葉に祈りを込めた。
その出来る事も日に日に少なくなっていき、彼のいない所で無力な自分に絶望し泣き喚いて、それでも尚彼に己の生命力を全て分け与えられるならと、彼自身に許可を貰い、手当てとして彼の手に背に己の掌を乗せ念じた。
けれど、ある時から、それは彼が望んでいる事とは違うのではないかと思い始めた。
武士の彼は本当に生きる事を望んでいるだろうか。
武士としての彼の望みは何だ。
己も武士の端くれ。ずっと彼の傍にいて、彼から武士とはどうあるべきかを彼の背中から学び続けてきたのだ。
真の望みは何だ。
彼の為に出来る事。
彼が望む事。
己に出来る事。
――総司の刀となって、近藤を、土方を守ること。
それが、セイ自身が出来る事だと悟った。
総司の傍を離れる事は心が引き裂かれるくらい辛かったが、それは我欲であり、決して総司自身の望みではない。
だから、セイは武士として、彼の本当に望む事に命を懸けて貫く事を決めたのだ。
例えそれが、今生の別れだとしても――。
「…どうして、私は生き残ってしまったんだろう」
セイは己自身に問う。
『生きろ』
という言葉が、呪いの様に彼女を捕らえた。
「どうして…副長は、私を傍に置いてくれなかったんだろう」
生き残ったところで、総司はいない。
総司の為に生き、総司の為に死ぬと決めたのに、生き残ったセイには何も無い。
「沖田先生…」
名を呼んでも、もうその名を持つ大切な人はこの世にいない。
我慢し続けてきた涙がぽろぽろと頬を伝った。
墓を参ればいい。そうすれば区切りがつく。
そうセイの中の理性が訴えるが、怖くてできなかった。
本当に総司がもうこの世にいない事を受け入れる勇気がセイには無かった。
とっくの疾うにこの世を離れて、総司と再会出来ると期待してだけに、生き残った己を受け入れ難かった。
約束も守れず、武士として死ぬ事も出来ず、結局女子として生き延びてきた己にこの世に生きる何の価値があるだろうか。
だからと言って自刃しようかと思えば、土方の言葉がセイをこの世に留める。
生き地獄とはこのようなものか。こんな想いを抱いたままこれから先どの位あるか分からない寿命まで全うしろというのか。
きっと死しても、約束を守れなかった自分を総司は迎えに来てくれない。
もう生きていても、死しても会う事はできない。
ただ、辛く、苦しかった。
せめて武士である己を留めるように纏うのは、総司の見合いの時に女子の己を弔う為に纏った着物と同じ色、そして切腹も出来ない今の己を戒める、浅葱色。
赤穂浪士の逸話を知る者から不吉な色だとしか言われない、周りの人間にも他の色を勧められるが、浅葱色の着物を敢えてセイは常用する。
そんな形で己を殺す事しか、今のセイには出来なかった――。
そして朝敵として扱われる新選組のたった一つの形見の形――。
「おセイさん」
背後から声がかかり、セイはびくりと肩を震わすと、慌てて着物の裾で涙を拭った。
そして笑顔を作ると振り返る。
そこには最近書生として屋敷に入った青年が立っていた。
「はい」
笑顔で振り返るセイに青年は少し頬を赤く染める。
「奥様にお聞きしたらおセイさんが街に出ているって…お帰りが遅くて心配でお迎えに来たんですけど…」
言葉尻弱くそう語る青年に、セイは「すみませんでした」と答えると、踵を返した。
総司より少し背が低く、気弱な性格がそのまま滲み出るようにやや猫背の青年。しかし頭の回転は良く、現在どこぞの大学やらに通っているらしい。
そして彼はセイの婚約者候補らしい。
セイの方がずっと年上で相手にならないのではと彼女自身思っているのだが、青年の方が望んでいると奥方に聞いていた。
ずっと今の屋敷にお世話になろうとはセイも思っていない。
屋敷の人間はセイに幸せになって欲しいと願ってくれている。
女子の一番の幸せになれる道は結縁。という流れは当然の事で、その気持ちはとてもありがたいと思っている。
しかし実際に結縁したいかと言われれば、セイの女子としての心は総司の傍に置いたまま今も彼の魂と共にあり、そんな事少しも望んではいない。
だが、これから先の事を何も考えられず、何もできないでいるセイには固持して断る理由も浮かばず、促されるままこのまま結縁の流れになるのだろうか。と他人事のようにしか思えなかった。
ただはっきり自覚しているのは。
――セイの幸せはもうこの世の何処にも無い。そして望んでもいなかった。
隣で頬を染めながら語りかける青年に、セイは相槌を打つ。
良い人だと思う。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけ。
だから、横にいて歩く歩幅に総司を重ねる。
見上げる角度に、総司を思い出す。
聞こえる呼吸音に、総司の息遣いを思い出す。
こうして一緒に過ごし、ひとつ思い出を作る事に、総司との思い出が鮮明に思い出されて、総司がいない事をセイに知らしめる。
広がる街並みも――総司と共に歩いていればきっと…。
隣を歩くこの青年との思い出はいらないのだ。
欲しいのは、総司との思い出なのだ。
わかってはいる。
けれど、総司はもういない。
生きていくのだ。
そう思って、また己を叱咤する。
首を振って、前を見上げると、見知った人影を見て、セイは息を止めた。

何処か足取りふらふらと歩いていた短髪で上背の男は、空を見上げていた。
覚束無い足取りに、具合が悪いのか、それとも酔っているのか。
男はふと足を止めると――。
空を見上げたまま、ぐらりと身体が傾いた。
止めていた息を吸い込んで、何度も何度も繰り返し呼び続けた名を呼ぶ。
「――沖田先生っ!」
セイは駆けた。
間一髪男が完全に倒れきる前に、セイは体を支え、そのままその場に屈むと膝の上に男の頭を乗せる。
すると男は何処かほっとした表情を見せ、頬をセイに摺り寄せた。
最後の別れ際に、見て、触れた彼の人の姿から、少し筋肉がつき、骨張った腕にも膨らみがあった。
未だセイが支えられるほどの軽い体重ではあったが、元々鍛えていただけあってしっかりとした骨格とそれについた筋肉でずっと体重は増えていた。
また髪結いできるようにと肩まで伸びていた髪は襟足短く切り揃えられていたが、顔を見れば分かる。
見間違えるはずが無い。
彼だけは見間違えるはずが無い。
それでも、もう会えるはずが無かった人。
セイは震えた。
「…沖田先生?」
もう彼に向かって名を呼ぶ事は無いだろうと信じていた名を震える声に乗せる。
「私は富永です…」
「富永…?」
懐かしい声色がセイの耳に余韻を残しながらも、セイが訝しむ。
それは、セイの名前ではないか。
女子の彼女の真名。
何故総司がその名を名乗るのだろう。
分からずに、ただまだ瞼を開かない彼が不安になって、じっと見つめていると、ゆっくりとその瞳にセイが映った。
彼は酷く驚いた様子だった。
そんな彼の表情の意味を確認するよりも先にセイは問いかける。
「お体は大丈夫ですか?こんなふらふら街中歩いて。また無理されたんでしょう!お姉様は何処ですか?咳は出ませんか?熱があるんじゃないですか?立ち上がれますか?」
労咳は治ったのだろうか。それとも一時的に持ち直したものなのだろうか。どちらにしてもこんな状態で何故こんな所を一人で歩いているのか分からない。
目の前の総司は慌てる彼女の心境を察する事もせずににへらと笑った。
「…やっぱり女子姿の神谷さんは綺麗だなぁ…」
囁かれた言葉に、セイは頬を染める。
「なっ!何言ってるんですかっ!?」
心のまま正直に言葉に出すその声も。
はにかむように微笑む表情も。
真っ直ぐにセイを見つめるその眼差しも。
膝から伝わる鼓動も。
触れるような呼吸も。
慟哭から抜け出せずにいたセイの感情を激しく揺らした。
何故。
何故。
何故。
言葉はそれだけ。
そして。
ただ目の前の総司が以前と何一つ変わらずセイを見つめてくれる、その事にただただ胸が満たされた。
何をどう声に出したら、どう接したらいいか分からないまま振るえ、涙が止まらないセイを総司は一度も目を逸らさずに見つめ続けながら、総司はゆっくりと体を起こす。
セイも慌てて彼の背に手を添えて手伝うと、触れる体の熱と鼓動にまた心が震えた。
「沖田先生、医者に行きましょうか?屋敷まで歩けますか?水お持ちしましょうか?」
少しふらつきながら立ち上がる総司に、そう声をかけると、総司は何も言わず、ただ彼女から瞳を逸らさないまま胸に抱き込むように強く抱き締めた。
「沖田先生っ!?」
抱き締められる温もりが、匂いが、鼓動が、熱が、腕の強さが、セイに総司がここにいるのだと言う事を――。
――生きているのだと。
今度こそはっきりと伝えてきた。
「……神谷さん…神谷さん、神谷さん…」
万感の想いを込められて呼ばれる名に胸が熱くなる。
セイを求める声に、求めるように強くなる腕の力の強さに、涙が零れる。
もう二度と聞く事はないと思っていた声。
もう二度と会えないと思ってた人。
生きて会えると思っていなかった人。
――生きている。
生きている。
生きている。
「沖田先生…」
小さく名を呼ぶ。
そうすると、またぎゅっと抱き締められる力が強くなった。
「…沖田先生…沖田せんせい…おきた…せんせい…」
何度も何度も声が段々大きく、涙と嗚咽で声が掠れても呼び続ける。
「生きててくれてよかった…生きててくれてありがとう…神谷さん…神谷さん…一緒に生きてください……神谷さん…」
セイは息を飲む。
そんな事言われると思わなかった。
総司の刀として生き、総司の代わりとして近藤や土方を守って死ぬ。
それだけだ。
そう思っていたはずなのに。
彼はセイが生きていた事を心から喜んでくれていた。
「…っ!沖田先生っ!…生きてたっ!沖田先生っ!」
初めてセイは自ら総司の背に手を伸ばし、回した。
それに反応したように、総司もまたセイの背中に回した腕の力を強める。
「…相変わらず泣き虫ですねぇ…」
あの頃と変わらない口調に、セイは顔を挙げ、そして涙を零しながらも思わず笑ってしまう。
ずっと冷たく凍っていた心が溶けて心からの笑みが浮かぶ。
「沖田せんせぇ…」
涙を零し続けるセイに抱き締めたまま総司は彼女の耳元でそっと囁いた。
「今は、富永祐馬ですよ」
それは、セイの兄の名。
どうしてそれを総司が名乗っているかは分からない。
ただ、彼がそう名乗ってくれているのが酷く嬉しくて、セイはまた笑って泣いた。
「せんせぃ~」
「もう。セイは泣き虫ですねぇ」
女子姿のセイを見て、総司は笑みを見せて彼女の涙を指先で拭う。
あの頃と変わらない笑みに、セイはあの頃と変わらない笑顔を見せた。

『生きろよ。神谷』
ずっと呪いのように聞こえた声が、酷く優しくセイの耳に響いた。

2016.10.09