「神谷さん!貴方ちょっと来なさい!」
その日、総司の怒声が屯所中に響き渡った。
そして、その数刻後。
総司の左頬には真っ赤な掌の痕が残っていた。
「土方さぁ~ん!」
涙声になりながら総司が土方の部屋障子のの取っ手に手を掛ける。
「来るな!総司!それ以上揉め事を俺に持ってくるな!」
「ひどーい!」
そのまま無視を続けていると、障子の向うからしくしくと声が聞こえてくる。
「お、総司。見事な手形だな」
「原田さん…」
「神谷に殴られたんだってな」
「永倉さん…」
「流石神谷だねー。総司に一発ってそうそう入れられないよ」
「藤堂さん…」
そのままどっかへ行ってしまえと思う土方の願いとは裏腹に、男たちはそこで語り始める。
「聞いてください……もしかしたら神谷さん…実は…あの隊士の事本当は好きだったのかも知れないんです…」
ぽつりと力無く呟く総司に、一瞬しんと沈黙が降りる。
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暫し無言の時を重ね。
「は?」
永倉が最初に声を上げた。
「だから、神谷さんは私の事好きじゃなかったのに、私の命令で渋々結縁してくれたみたいなんです!」
もう一度、はっきりと告げた総司の告白に、一斉に笑いが降っていた。
「どうして笑うんですかっ!」
真剣に打ち明けた悩みを三人が笑う理由が分からない総司は声を上げる。
「だってよー。あの神谷がお前の事好きじゃ無かったって…」
「ありえねー!あんなにあからさまだったのに!」
「そうだよー!何をどうしたらそうなるのさっ!」
「てめぇら煩せぇぞっ!」
黙って障子の向うで聞いていた土方はいい加減我慢が出来ず、怒声を浴びせる。
しかし少しも怯まない彼らは、逆に障子を開けるとずかずかと中に入り、総司を囲むように座った。
「俺は話聞くなんて言ってねーぞ!」
「いいじゃない。ここまできたら土方さんも気になるでしょ。一緒に聞こうよ」
「そーだ。そーだ」
のんびりと笑う藤堂に、原田も笑って同意する。永倉も頷いた。
「んで。どうして総司は神谷がお前の事好きじゃなくて、例の隊士の事が好きだと思ったんだ?」
にやにやとしながら永倉が凹んだままの総司を見る。総司は少しだけ顔を上げ、彼を見ると、語り始めた。
「今日もまた、懲りずに神谷さんが屯所に来てたんです…松本法眼も面白がって自分の検診の助手に連れて来たとか言って…私何も聞いていないのに…」
「んで?」
「検診が終わってから、神谷さんも懐かしかったのか、一番隊の皆と話をしていて…その中にあの人もいて……普通に話してたんですよ…」
「……」
「……」
「……」
「それだけ?」
また訪れた暫しの沈黙に問いを入れたのは藤堂だった。
「それだけ?じゃないですよ!それだけの事ですよ!だってあんな事があったのに!普通に話してるんですよ!」
「そりゃお前、元同志だし、お前の話だと色々あったけど後腐れ無くあの事は済んでたんだろ。二人の中で」
それがいいか悪いかは別として。と原田は思う。
総司がその後悋気で暴走しなければ、彼らは今も同志として共に屯所で寝起きをしていただろう。
「三木先生の時だって、中村さんの時だって、一度あった後から明らかに嫌悪感を示していつだって避けてたのに、あの人だけは普通に今も接しているんですよ!」
「だからそれは終わった事だから…」
冷静な永倉の言葉は総司の耳には全く届いていなかった。
「それで、私が神谷さんに近づき過ぎるなと叱ったら、あの人また怒って、最後に私の事ひっぱ叩いたですよ。『いい加減にしてくださいって』」
「…」
「『沖田先生の相手をするの、もう疲れました!』って…」
「…」
「もしかして…私、お邪魔虫だったんでしょうか…神谷さんやっぱりあの人の事が好きで…本当はあの日そうなっても…よか……」
それ以上は自分で想像するのも言葉にするのも嫌だったらしく、青褪めたまま思考を強制停止させたらしく総司はそのまま固まってしまった。
藤堂が軽く突いてみるが、何も反応は無い。
原田が軽く揺すっても、目を見開いたまま動く事は無い。
永倉が小突いてみても、ぴくりともしなかった。
土方は、そんな彼らを見て、溜息を吐く。
救いを求めるように、三人は土方を見上げた。
「何?総司いつもこうなの?」
「ああ」
「え?毎回土方さんの部屋で怒っている声を聞いていたけど、こんな事?」
「ああ」
「…神谷…大変だなぁ…」
「ああ」
『結縁前に捨てられたりして!』
「捨てられませんよ!」
三人揃っての言葉に、我を取り戻した総司は食って掛かる。
「あ。目が覚めた」
「お。そこは反応するんだな」
「神谷も大変だなぁ」
三者三様に呟いて、土方は溜息を吐く。
同時に閉められた障子を小突く音が聞こえた。
「入れ」
土方の声に、すっと障子が開くと、前と変わらず若衆姿のセイが頭を下げ、顔を覗かせる。
「沖田先生がこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
やや憮然とした面持ちで中を覗き、総司の姿を認めるとほっと息を撫で下ろす。
総司はセイの姿を確認するとほにゃりと頬を緩ませるが直にまた緊張させ、ふいと顔を背ける。その反応を既に察してかセイは溜息を吐くと土方を見上げる。
「また、沖田先生がご迷惑をお掛けしてすみません」
「私、何も迷惑掛けてませんよ!」
透かさず顔を背けたまま総司が反論する。
「…沖田先生…お家に帰りましょ?」
「…お里さんの所に帰ればいいじゃないですか…それとも今日は法眼の所ですか?」
不貞腐れたまま言う総司に、セイは眉を八の字にすると、今度は意を決したように腹に力を入れ、背筋を伸ばし、総司に語りかける。
「…沖田先生と私のお家は一つしか無いじゃないですか…」
「!」
その言葉に、総司はぱっとセイを振り返った。
「一緒に帰りましょ?」
「…やっと一緒に休息所で暮らしてくれる気になったんですか?」
「…は…ずかしかっただけです…」
「でも、あの人は…あの人の事好きなんじゃ…」
「私には沖田先生だけです…本当は…う…嬉しかったんですから…沖田先生が娶ってくれるって言ってくださった時……」
「!!」
総司の枯れた平目顔が見る見る血色を取り戻し、すくっと立ち上がると、セイの前に座り、顔を覗き込む。
「私は神谷さんが大好きだから…お嫁さんにしたんですよ…神谷さんは…?」
「……こ…こで…言うんですか…」
「ちゃんと言ってください。神谷さんが私との結縁が本当は嫌で、あの人がいいと言うのなら、私は身を引いても構わないんです。それで貴方が幸せになれるなら…」
「私の…幸せは…沖田先生といることです……だ…い……すき………です…」
顔を真っ赤にして、何度も深呼吸をしながら搾り出すようなセイの告白に、総司は今度こそふにゃりと頬を緩めて、嬉しそうに頬を染める。
「じゃあ、帰りましょ!私たちの家へ!」
一気に元気全開になった総司は立ち上がると、セイを抱え、意気揚々と障子を開け、出て行く。
軽やかな足取りが彼の気配が完全に無くなるまで、聞こえ続けていた。
「…何?何なの?今の何だったの!?」
藤堂は状況が飲み込みきれず目を白黒させる。原田はがはははと笑い、永倉は唖然としていた。
土方は憮然とした面持ちで、開け放たれた障子の向うに見やる。
「…ご苦労だった…」
労いの言葉にその向うの人影の緊張感が一気に緩む。
「一番隊?」
永倉が土方の視線を追うと、そこには相田や山口を始め一番隊隊士たちがへたり込んでいた。手には紙を持って。
「…それで神谷を誘導してたの?」
藤堂は目を見開いて覗き込む相田の握り締めていた紙には、先程セイが総司に懸命に囁いた台詞がずらりと書かれていた。
「そうか。総司の奴、神谷が自分に我慢のできない行動起すと稽古の時に当り散らしてるって話だからな」
笑う原田に、「笑い事じゃないです」と相田が力無く答える。
「総司も凄いよね。もう全然身を引く気も無いくせにあんな事言っちゃって。本当に神谷がその隊士を選んだら嫉妬で狂うくせに。大変だね。君も」
労う藤堂の言葉に、一番隊士の中に紛れていた今回の事件の発端の人物は首を横に振る。
「神谷も大変だ…今日…あれは、寝れるのか?」
「今まで妾宅や法眼の仮寓にいたんだよな?総司が用意した休息所へは初めて二人で帰るのか?」
「寝れなさそー」
土方は三人の呟きに、また溜息を吐く。
「神谷には総司に惚れられた責任を取ってもらう事に決めたんだ。どうなろうが諦めてもらう」
総司がセイと交わしたという約束を覚えているのなら、きっと明日もあの娘は屯所に現れるだろう。そうでなければ…。
とそこまで考えて、土方はそれ以上考えるの止めた。
どうせ何があったところで二人は相愛なのだ。
もう巻き込まれるのは真っ平ごめんだ。
次にセイが屯所に潜り込んで来るまで、三日程経っていた。
しかし、総司の機嫌は今までの事が嘘のように良く、あれ程酷かった嫉妬心むき出しの行動も言動もすっかり鳴りを潜めた。