はんぶん7

■はんぶん・31■
*史実バレっぽくなってます(汗)…すみません。
苦手な方は、飛ばしてください。

若葉が風で揺れる、新緑の季節。
解放された障子の向こうから初夏の風が吹き込んでくる。
それさえも、今、目の前にいる人の命の灯火を消してしまいそうで、私は懸命に彼を守るように遮った。
痩せ細った体、力無く開く瞼。
それでもまだ先生はこの世に留まってくれている。
「沖田先生っ!」
私の呼ぶ声が、彼にまだ届いているだろうか。
沢山の痛みを負ってきた。
別れ、裏切り、反発、戦。
その度に泣いてきた泣き虫の私も流石に涙は枯れたと思っていたのに、それでもやはり涙は止まらない。
私が泣く事でまだ先生がこの世に留まってくれるなら、私は幾らでも泣こう。
私の呼ぶ声がまだ先生とこの世を繋ぐ糸になるのなら、私は幾らでも呼ぼう。
私の触れる手が、先生の温度をまだ保てるのなら、私は強く強く握り締めよう。
誰よりも武士らしく、誰よりも己の誠を貫いた人。
それなのに、病に臥せる最後なんて余りにも酷いじゃないですか。
大切な人を守りきる事も出来ず、傍にいる事さえも出来ない。
そんな最後を先生は望んでいなかったはずだ。

私が傍にいたから。
私が傍にいなければ、もっと先生は己の誠を貫けた。
もしかしたら病に臥せる最後だったとしても、先生は満足していけたのだろうか。
今更、生まれてくる後悔の渦。
それは私を容赦無く絶望へと引きずり込む。
私が女子だと知っても、先生は私の我儘を許してくれて新選組に残してくれた。
私の事を男だと扱うと言いながらも、何時だって私の事を心配して真っ先に駆けつけてきてくれた。
女子の心は喜んでいたけど、武士としての私は自分を叱咤していた。それでも、いつだって私を気にかけてくれる先生に感謝の気持ちで一杯だった。
けれど、それだって私がいなければ余計な心労を掛けずに済んだ。
もしかしたら、私がいなければ先生が労咳になることさえなかった?
愕然とした。
私がいなければ先生は今も健康で、近藤局長や土方副長のお傍で戦っていた?
私がいなければ。
私が先生を好きにならなければ。
私が先生を武士としてお守りしたいとなんて思わなければ。
武士としてでもいいから、お傍にいたいと願わなければ。

「沖田先生っ!沖田先生っ!沖田先生っ!」

先生は今何を思っていますか?
私を傍に置いた事を後悔されていますか?
ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!
私は先生が先生の誠を貫けるようにお傍でお役に立ちたかっただけなんです。
貴方が好きだから。
貴方を愛しいと思ってしまったから。
私がお邪魔だと分かっていながら、それでも、我欲を貫いてしまったんです。
許してくれる先生に甘えていたんです。
そして今も、最後まで私に微笑んでくれようとする先生を、愛しいと思ってしまうんです。
まだ私を映してくれる、最後のその時まで私に全てを委ねてくれる先生に嬉しいとさえ思ってしまうんです。
私は沖田先生の傍にいれて幸せでした。
女子として、武士として、最後まで沖田先生のお傍にいられて幸せでした。

「……先生。私、先生を嫌いになっていればいいんです。お傍にいてはいけないんです」
呟いた言葉は、目を覚ましたと同時に、夢の中に溶けた。
セイは起き上がり、そして、嗚咽する。
何故、こんなにも苦しいのか、こんなにも胸が痛いのか、涙が溢れるのか、セイには分からなかった。
四月から幾度となく繰り返し見る夢。けれどその内容は僅かの余韻も残さない。
感情だけが置き忘れられて、セイを苛む。

ただ。
桜の下で一人の青年が、微笑む。

とくり。と心音が飛び跳ねた。
そして、とくりとくりと心音はどんどん大きくなる。
それは、今までに無いほど、甘く、そして苦しい。けれど、セイの感覚はそれをいつか何処かで経験したような錯覚を覚えた。
以前友人に聞いた言葉で例えるのなら、恋をした時の感覚。
夢の中の人物に恋をしたというのか?
一瞬の夢の人物は、総司と重なり、セイに微笑む。
またとくりと大きく心臓が跳ねた。
けれど。
「……だから私は、先輩の傍にいちゃいけないんだ」
私はあの人の傍にいることで、不幸にするだけなのだから。
どうしてなのかは分からない。それでもそれは、いつからかずっとセイの中に染みこんでいる決意だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■はんぶん・32■

初夏の少し冷たかった空気も太陽が天頂に昇る昼頃には温められ、夏の陽気が少しずつ姿を現し始める。
「もうすぐ夏だねぇ…」
セイは日に日に青さの鮮やかさが増す空を見上げながら呟いた。
「そうやねぇ」
彼女の隣座る里乃も同意しながら、膝に置いている弁当箱からおかずを摘み、ぱくりと食べる。
「今年の夏はどうしようねぇ」
「去年はセイちゃん受験生やったしねぇ」
「そう!だから今年は遊ぶの!」
セイは空を見上げていた視線を里乃に向けると、きらきらと瞳を輝かす。
「けど、今年は何処へ行っても沖田はんがいそうな気がするなぁ」
そう里乃が呟くと同時に、セイの纏う空気は一気にどんより重くなる。
「…そうだね。記録更新中だし」
しかし、重くなったのは一瞬で、次の瞬間にはすっきりした顔で再び里乃を見た。
「ま、でもいいの。別にどうでも。私には関係無いし」
そう言って、セイは御飯をぱくりと口に入れた。
その様子に里乃は不思議そうに首を傾げる。
「セイちゃん。最近沖田はんの事何も言わへんねぇ?」
「ん?そうかな」
「そうえ。あんなに毎日沖田はんに会って、あれ言われた、これ言われたって怒っていはったのに」
セイは里乃の言葉に「うーん」と唸ると、笑って答えた。
「だって、嫌いなものは嫌いだけど、嫌いとか思ってるそれだけでその人に関心あるみたいで気持ち悪いじゃない。だから好きでも嫌いでもない、関心持たなければいいって事に気がついたの!そしたらもうすっごく楽!それに先輩も何かあったのか、前みたいに絡んでこなくなってきたし!やっと年齢相応になったって事かな!」
「…セイちゃん…」
里乃は思わず顔を引き攣らせてしまう。
「…どうしてそこまでして」
「ふぇ?そこまでして?」
セイには何故『そこまでして』という言葉になるのか分からず、首を傾げる。
里乃はそんな彼女に溜息を吐く。
「セイちゃん…それで今でも沖田はんには毎日会うんよね」
「うん。最近はそれでも目は合っちゃうけどお互い何も言わず通り過ぎるだけ」
「剣道道場も通い始めたんよね?そこでも沖田はんに会うんよね?」
「うん。でも、沖田先輩強いとは言え、今まで全くやった事無かったから基礎からだし、一緒の道場にいても練習で一緒になる事無いんだよね」
「終わった後も話さへんの?」
「何で?」
しかめっ面するでも無く、眉間に皺を寄せるでも無く、何処までも無邪気にセイは里乃に問い返す。
二人の関わり方が変わり始めた事よりも、そんなセイの反応の方に、里乃は驚いた。
セイの言うとおり、好きか嫌いかを言っているうちはまだその人に対して関心を持っているからだと思う。しかし、今のセイはあれだけ激しく批判していた総司に対して何処までも無関心だった。
里乃は総司に会った事は無い。それでもセイは実はそんなに総司の事を嫌いではないのではないかと思っている。出会い方が悪かったのだ。だからセイはその事ばかりに固執する。寧ろ何かのきっかけさえあればきっとセイは総司に恋心を抱くのではないかと思っている。いや、実は既に持っているのではないかと思っていた。
そして、それはきっと総司も同じではないのだろうか。それで無ければ、どんな偶然で毎日会うのかは分からないが、それでも本当に相手に少しでも気持ちが傾いていなければきっと声だって掛けない。
それは今セイが話した関係のように。
本来は今聞かされた関係の方がまともなのに、そうではない今までのやり取りを聞かされていただけに、二人は反発しあっているように見せて、惹かれあっているのではないかとずっと思っていた。
ただどうしてそうするのかは分からないが、お互いに理由をつけて無理矢理反発し合っているようにさえ感じていたのだ。
それが、無関心に変わった。
里乃は何故だかそれが無性に心がざわめいて不快だった。
「ねぇ。セイちゃん。ほんまにセイちゃんはそれでええの?」
問われるセイは首を傾げる。
「どうして?」
「だって…セイちゃん……」
里乃が言葉を続けようとしたところで、音楽が鳴った。
それは里乃の座るすぐ横に置かれた携帯からだった。
「里さん、携帯鳴ってる」
「ええの!それよりも!」
セイが取るように促すが、里乃は今言わなくてはと言葉を続けようとする。が、音楽は何時まで経っても鳴り止まない。
「山南先生じゃないの?いいの?」
「ああんっ。もう!」
里乃はやや苛立ちながらも携帯を取り、電話に出た。
セイは二人の会話を聞かないように空を見上げていた。
遠くを見ながらも、時折覗き見る里乃表情はとても柔らかい。セイと話していてもそんなに柔らかくそして同性であるセイでさえ魅せるような綺麗な表情を見せない。
本当に山南の事が好きなのだろうなと思う。
大学部の教授をしている山南と里乃は付き合っている。勿論学生と教授なので校舎は違うとは言え公には出来ない事ではあるが。
セイも一、二度山南に会った事があるが、不思議と一緒にいると居心地がよく包み込む温かさを持っている人だった。
二人には幸せになって欲しいと思う。
山南と里乃のカップルはとても穏やかでそれでいていつも幸せそうだ。何となくきっとこのまま結婚するんだろうなという予感もする。
セイにとって二人は憧れだった。
自分にもいつかそんな彼氏が出来る時が来るんだろうか。…何となく考えて、想像が付かない。きっとその前にお兄ちゃんっ子からまず抜け出さなくては無理だ。
セイは自分で下した結論に苦笑した。
「セイちゃん。…あのね」
ぼんやりと考え事をしている間に山南との電話は終わったのか、携帯電話を置いて、里乃は自分の弁当を片付けながら言い辛そうにセイに声を掛ける。
何となく彼女の言い出しそうな事を予測できたセイは笑ってしまう。
「山南先生時間できたの?会っておいでよ」
今、山南は自身の専門分野の論文を書いているらしく最近里乃と会う機会が減っていた事は彼女から聞いていた。
公私の区別ははっきりとする山南がまだ学校にいる里乃に電話を掛けてきたのだ、やっと出来た時間の隙に会いたいと声を掛けてきたのだろう。里乃は恥ずかしそうに「…うん」と頷いた。
「ほな。私先に行くね。ごめんねセイちゃん!」
「いってらっしゃい!」
嬉しそうな里乃に自分も嬉しくなって笑って見送る。
何度も振り返り、頭を下げる里乃の姿が完全に見えなくなるまでセイは手を振った。
里乃がいなくなった後の屋上は独りぼっちで、何処か寂しくて、風通しがよい。
夏に向けて蒼が濃さを増す空をセイは見上げる。
自分に今彼氏はいないし、いる状態がどんなものか想像も付かないけれど。
それでも、自分じゃない誰かを好きになるっていうのは。自分が好きで、その人も自分を想ってくれるそんな相手がいるのは。
「いいなぁ」
と、思ってしまう。

--ふと、風が優しくセイの頬を撫でる。

それが、自分を想って吹いてくれるようで、嬉しくて、
泣きたくなった。

キィ。
ガシャン。
重い扉が開いて、そして閉まる音がする。
高校の校舎側の屋上の扉が開いた音でないのはすぐに分った。
そうでなければ、もう一方、対面するように見える大学校舎側の屋上の扉。
独りぼっちだった世界に人が一人加わる。
何気無く見遣ると、そこには総司が立っていた。
こんな所でまで。
と、思う一方で、誰かと待ち合わせをしている様子で、彼は屋上内を見渡していた。
見つかるか。
セイは何となく気まずい気持ちになりながら、けれど本来隠れる理由も無いのだと、そのまま座っていた。
彼は彼女に気付く前に、目的の人物に会えたようで、そちらを見るとにっこりと笑った。

--そこにはサエがいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■はんぶん・33■

「最近セイちゃんと一緒にならないねぇ、総司」
「そうだな。時折会っても会釈するだけだしな。沖田さん」
「何なんですかー二人とも!」
いつもと同じ昼休み。三人は食堂でいつも通り低価格でボリュームのある定食を頼み、いつも通り三人で席に着き、雑談交えつつ食事を取る。
セイがすっかりその中に交ざる事が無くなってから数ヶ月が経っていた。
「そう言えば最近サエさんも来なくなったねー」
いつも元気で総司と嫌味無く他愛も無い事で言い合いをする少女が交ざらなくなる事に代わってサエが交ざるようになって、一時は毎日のように一緒に食事を取っていたが、最近は疎らになっていた。
「サエさんなら最近授業終わった後話しかけられたり、帰りが一緒になる事が多いんですよね」
「えっ?そうなの!」
初めて聞かされた事実に、藤堂は驚いて総司を見る。
「聞いたら帰り時間が結構重なるのと、帰り道が途中まで一緒なんですよ。びっくりですよね。そう言えば、二人と一緒の時はあんまり話しかけてこなくなりましたね。何ででしょう?」
答えた総司は不思議そうに首を傾げた。
その様子に、藤堂と斎藤は目を合わす。
「…それってさ…」
「沖田さんが俺たちが前にセイと一緒の方がいいと言っていた事を本人に言ったとは思えんから、そうだとすれば完全に二人きりの時間を作るのを優先しているんだろうな」
斎藤は冷静に分析する。
「…女って…こわっ…」
「どうしたんですか?二人とも」
小声で話す二人の会話は総司には聞こえておらず、総司はひそひそ話す二人にまた不思議そうに首を傾げた。
「でもさー。最近のセイちゃんを見てると、本当に顔見知りくらいな感じでしか声を掛けてくれないから寂しいよね。何かあったのかな?」
藤堂は自分たちの話を誤魔化すように、セイの事に話題を戻した。
相変わらず総司と一緒にいると、セイと出くわす事が多々ある。総司に聞けば未だに何らかの形で毎日会うと言う。
会えばきちんとこちらを見て笑顔を見せ、挨拶をしてくれるが、前のように気軽に雑談をする事も無く、尚且つ総司と些細な事で衝突しては言い合うという事が全く無くなっていた。
まるで、今までの事が全て夢か幻だったかのように。
「いいんじゃないんですか。元々大学生と高校生が一緒にご飯食べてるのが変だったんですから」
「…総司。それサエさんの受け売り?」
「いいえ?…そう言えばサエさんもそんなこと言ってましたよねー。でもその通りだなーと思いますよ」
むっとして問う藤堂に、総司はしれっと答える。
藤堂はそんな彼に眉間に皺を寄せる。
そう。
総司のセイに対する反応が変わった。
今までは名を聞いただけでも、会っただけでも、すぐに何かにつけて不満を言っていた。別の人間が同じ事をしても全く気にならないはずの些細な事さえもセイの事となれば見つけ出しては嫌いだと言っていた。逆に言えばそれだけセイを意識していた。
実際にそれ程までにセイの事が嫌いなのかと言えば、セイと言い合う時の総司はとても嬉しそうだ。突っかかってくるセイが可愛くて仕方が無いと言う表情を見せる。
セイも満更総司を嫌っていないのでは無いかと思う。そうでなければ嫌いな人間に毎日吹っかけられる嫌味を毎回きちんと怒って返す事なんてしない。
どんなに嫌でも毎日会ってしまうというのなら、端から無視をすればいい話なのだ。そんなセイも総司に対して「嫌いだ」と口には出すが、その表情に嫌悪は見られず、何処か楽しそうだった。
総司が何かとセイに突っかかるのは心の奥底ではセイに男として認識されていない事に対する苛立ちが不満と言う形で表立っているようにも見えた。恋愛の対象として自身が見られていない事に対する己へとセイへの苛立ち。この間のセイと総司の試合を見て、藤堂ははっきりとそれを感じた。
だから試合の後、セイに告げられた言葉に涙を零し、そして彼女を抱き締めた総司はその時初めて自覚したんじゃないのかと思った。
ずっと彼女が好きだった事を。
元々恋愛事は苦手で、底無しに鈍い。だから心配していた時期もあったけれど、それでもセイに対しては初めて会った時の事から話を聞いて総司が初めて女の子に興味を持った事に驚いたし、惹かれているのだろう事は言葉尻から感じた。
出会い方が悪かっただけなのだ。
それだけが原因だと思った。だから何かのきっかけがあれば、総司はきっとセイの事を好きなのだと自覚すると思っていた。
そしてそのきっかけが起きた日に藤堂は斎藤には悪いが「やった!」と思った。
自分にも相談されていなかった総司が持つしがらみを気付けなかったのは悔しいと思ったが、セイならいいと思った。
サエが総司をどう思っていても、斎藤がセイをどう思っていても、セイには総司の傍にいて欲しいと思った。
総司がサエを望むのなら仕方が無いけれど、総司の隣にはセイがいて欲しいと思っていた。
だから、そのきっかけが起きた事が無性に嬉しかった。
確かに次の日から総司の行動や表情は一変した。
けれど藤堂の思惑とは逆にセイに対して全くの無関心になった。
何があったのか分からない。
けれど、総司だけじゃなく、セイさえも態度を変えた。
二人は一緒にいる方が自然なのに。
理由は分らないけど藤堂にはそれがとてもしっくりきていた。
だから今の二人の態度に無性に悲しくなっていたのだ。
「沖田さん。そんなにセイが嫌いか?友人の妹が嫌われていると思うと不快なんだがな。今までは大目に見てきたが、最近の態度は目に余る」
じっと藤堂と総司の会話を聞いていた斎藤が口を開いた。
「すみません。斎藤さん。…でも今は好きか嫌いかよりも、どうでもいい?」
「おい!」
普段冷静な斎藤もその台詞に苛立ちの声を上げる。
「…疎遠でいたいんですよ…。あの子に関しては無関心でありたいんです」
そう言いながらも総司の表情は辛く悲しそうで、それ以上責めれば総司自身が潰れてしまいそうなほど弱弱しく見え、斎藤は口を噤んだ。
何がそこまで。
二人は総司を見つめ、問おうとするが、それは言葉に出来なかった。
総司はふと時計を見ると、手早く食器の片付けを始め、席を立つ。
「すみません。この後用事あるんで先に戻ってます」
「え?誰かと待ち合わせ?」
藤堂が問うと、総司が苦笑する。
「ええ。サエさんが話があるって。屋上で待ち合わせなんです。あんな所で何の話でしょうね?」
そう言うと、総司は食器を載せたトレイを持って席を離れた。

「何の話って・・・総司…」
「告白以外の何ものでもないだろうな」
「何てベタな……」
「今時そんな場所を使う人間いたんだな」
藤堂は唖然とし、斎藤は溜息を零す。
「だって…総司……」
「セイに惚れているくせに、相変わらず鈍い男だ」
「!?」
冷静に言う斎藤に、藤堂は驚いて彼を見る。
「沖田さんがセイに惚れているのと、セイが誰に惚れているかは別物だからな。俺にとってはこのままサエとくっついてくれるのなら都合がいいんだがな……?…」
そう言いながらも、斎藤の語尾は言い澱んでいた。
「……何かしっくりこないんだよね」
斎藤の気持ちも汲みながらも、彼が何が言いたいのか分ってしまった藤堂はへらっと笑う。
その通りだっただけに、複雑な心境の斎藤は眉間に皺を寄せ、難しい表情を見せた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■はんぶん・34■

キィ。
屋上の重い扉を開けると、一気に空気が風となって屋内へと流れ込む。
蛍光灯の明かりがあるとはいえ、格段に違う強い太陽の光が一気に総司の視界に入り込み、吹き付ける突風と光に総司は目を瞑った。
風や光に混じって微かに、夏の匂いが薫る。
夏独特の太陽の匂い。

---。
無性に懐かしくて、胸を締め付けられる。

太陽の光に目が慣れ始めると、総司は瞼を開いて、最初に見える蒼い空に溜息を付いた。
いつぶりだろうか、こんなに広い空を見上げるのは。
そう思いながらも、総司は視界に入る高校校舎に苦笑した。
ここでまたあの子に会ったら面白いのに。
流石にこんな所では会わないだろうと思いつつ、フェンス越しに少女の姿が無いか思わず目で探してしまった。
そうして先程二人に言われた台詞を思い出し、また苦笑する。
どんな所でも一日一回セイと出会う自分といつも一緒にいた藤堂と斎藤がセイをとても気に入っている事は勿論分っている。
今の自分はとても酷い態度を取っていると言う事も分かっている。祐馬に対しても申し訳ない気持ちで一杯だ。
それでも、総司にはこれ以上セイに近付く理由が浮かばなかった。
道場は一緒でも会話はしない。出会っても挨拶だけ。
それだけでいいし。それでいいのだ。
元々共通点が彼女の兄が自分の友人であると言う位の、会って数ヶ月の高校生と大学生なのだ。
それが普通なのだ。
そう思っているのに、周りの人間は皆してセイと自分の仲を取り持とうとする。
しかも恋愛関係の仲に。
流石の総司でもそれくらい気付いていた。
何処をどう見たらそう思うのか総司には分らない。
確かに二人の関係は不思議な縁だが、だからと言ってすぐに恋愛に繋がるのが分らない。運命の出会いだ、運命の赤い糸だとかいうのは男女共通に憧れるものなのだろうか。
確かに彼女には感謝している。しきれないくらいだ。
自分が散々逃げていた感情に向き合わせてくれた。
こうして剣道道場に通うことになった自分はとても幸せで、彼女はそのきっかけをくれた恩人だ。
それでも。
それと恋愛感情は違うのだ。
昔からその手の欲は無いのか。恋愛感情は沸かないのかと聞かれる。
この年になっても未だに彼女の一人もいない総司を心配する友人や家族同然の兄貴分たち。
自分だってそれなりに興味はあるし、自分が大切にしたいと思える人が出来たら好きな人が出来たらどんなものなのだろうと想像する事だってある。
けれど、---熱はない。
自分はきっと欠陥があるのだ。

だから、誰に、どう想われても---心が揺れる事は無い。

「サエさん」
屋上で一人立つサエを見つけ、笑みを零す。
サエも総司の姿を見止めると、嬉しそうに笑顔を返した。しかしその表情は何処か固く、眼差しは真剣で、いつもと違うサエに総司は首を傾げた。
「どうしたんですか?サエさん」
「あ…あの……あのね。沖田さん」
「はい?」
緊張した面持ちのサエに対し、総司はただ不思議そうに首を傾げる。
「…っ…あのっ…」
ただサエの次の言葉を待ち続ける総司に対し、サエ自身はどんどんと顔を紅潮させていった。
その間に最初は総司を見上げていたサエの視線も下がり、総司は逆に段々と意識がサエから離れていく。
温かい日の光は段々と強くなり始めて、もうすぐ夏が始まる事を告げている。
時折吹いてくる風が総司の頬を擽り、日の光の温かさと少し冷たい風が眠気を誘い始める。
(まだかなー)
屋上でと言う理由は思い浮かばなかったが、サエから誘われるといつもお菓子を貰えたので、てっきり今日も貰えるのかと思っていたのに、どうも違う事に総司は内心がっかりしていた。
それでもサエが自分に対して懸命に何かを伝えようとしているのは分ったので、自分も真剣に受け止めなくてはと構えていたのだが、穏やかな陽気に流され段々と思考が緩み始めていた。
早く話を終えて、二人で再度売店にでも行ってお菓子を買うのもいいだろう。
最近サエはよく帰り道に喫茶店やケーキ屋に寄り道してくれるのを付き合ってくれる。今日も帰りが一緒だったらまた寄るのでもいい。
そんな事を考え、のんびりと待っていた。
「………っ!」
やっとのことで視線を地面に下げていたサエは顔を上げ、決意したように、総司を見つめた。
「好きです!私と付き合ってください!」
--総司は唖然とした。
そして、同時に、己の思慮の浅さに後悔した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■はんぶん・35■

目の前では想いを告げ切ったサエがじっと総司の返事を待ち、見つめる。
総司は、暫しその瞳を見つめ、そして、静かに閉じ。
---。
やはり少しも動かない己の心を確かめ。
「すみません。私はサエさんの事をそういう風には見ていません」
もう一度、目を開き、サエを見ると、はっきりと答えた。
「すぐにじゃなくていいの!ただ私は沖田さんの事が好きで傍にいるんだって言う事を知って欲しくて…」
答えたら諦めてくれると思っていた総司の予測に反して、サエは必死に言葉を続けた。
「…そういう気持ちで今までケーキ屋巡りを付き合ってくれていたんですか?」
「そんな事無い!沖田さんが好きだから一緒にいたくて沖田さんの好きなものを知りたくて私が勝手に付いて行ってたの!」
「……そういう気持ちでなら迷惑です」
顔を真っ赤にして懸命に自分の想いを総司に伝えようとするサエに対して、総司の心は急激に冷めていくのを感じた。
総司はサエが毎日のように喫茶店やケーキ屋を一緒に行ってくれるのはサエも純粋にお菓子が好きだからだと思っていた。
元々そんなに周囲に頓着するような人間でもないが男一人でお洒落なカフェに入るのは憚れる時もあったので、一緒に入ってくれるサエの存在は本当に有難かった。
今まで目を付けていても中々入れなかった店にも入れるようになったし、サエもお菓子が好きなんだろうなと思っていたから新しい店を二人で開拓するのも楽しかった。
それが全てただ総司への想いの為だけだったのだと思ったら、今までサエに対して持っていた好意でさえも全て冷めきり、後には虚しさしか残らなかった。
そんな彼の感情の変化の全てに気付いたのかは分らないが、自分の告白により逆に落胆する表情を見せる総司にサエは焦りを感じ、更に訴える。
「違うの!沖田さんと一緒にカフェを回るのが好きだったの!今すぐ私を好きになって欲しいとは思ってないの!これからもまた一緒に色んな所行こう?今まで通りでいいの!ただいつか私の事彼女として見てくれるように頑張るから!沖田さんの気持ちが私に向いてくれるまでずっと待っているから!」
総司はもう一度目の前で自分を異性として好きだと言ってくれる女性に目を向ける。
逸らされ続けた彼の視線が自分に向けられるのを感じたサエも顔を上げ、彼を見つめると、頬を紅潮させた。
自分に対して想いを向けられ、必死になっている女性に、綺麗だとか可愛いか普通の男なら思うのだろう。
普段見せない一面を見せられる事で魅了される事もある。そんな風に軟派な自分の兄貴分が言っていたのを思い出す。
けれど、心の奥の熱を探るが、そこには少しも無い。
総司には彼女を喜ばせる言葉は浮かばない。
「私がサエさんを好きになる事はありません。待ち続けなくて結構です。その方が私にとっては迷惑です」
何処までも冷静に告げられる言葉に、サエは凍りついた。
その表情に痛みを感じない訳では無かったが、総司にはそれ以上の言葉は浮かばなかった。
サエはやがてくしゃりと顔を歪め、今にも泣き出しそうになりながら堪えた。
「…セイちゃんだったらOKしてた!?」
俯きながらサエは問う。
「どうしてそこでセイさんが出てくるんです?」
「沖田さん、セイちゃんと会う時いつも嬉しそうだった。私の事を少しも見てくれないのはセイちゃんの事が好きだから?でもセイちゃんは無理よ。お兄ちゃんっ子だから沖田さんの事少しも見てないじゃない。それにもてるって言うし、これから同じ高校生の彼氏を作るわよ。自分のお兄ちゃんと同い年の人なんか凄く大人に見えて彼氏としての対象なんかに見ないわよ」
総司はちくりと小さく胸に痛みを感じる。しかしそれはすぐに消えてしまった。
「私は沖田さんが好きだもの!今はセイちゃんが好きならそれでもいい!それでも沖田さんが好きだから!何だったらお試しでもいい!付き合ってくれたら絶対私に振り向かせるから!」
もう一度とばかりに叫ぶように訴えるサエに対して、総司にはもはや何の感傷も残っていなかった。
彼女の為の言葉は浮かぶ事無く、言葉を発することすら億劫で、ただ首を横に振ると、彼は背を向けて、扉へと向かった。

ガシャン!

総司が背を向けたと同時に金属音がする。
それが屋上を囲うフェンスの音だと気がついたと同時に振り返ると、
小さな影が総司の視界を遮った。