はんぶん2

■はんぶん・6■
「遅くにすみません」
自宅前で祐馬は丁寧に礼を述べる。
視線の先には車から顔を覗かせる土方。
「土方さん優しいから全然気にしてませんよ」
後部座席の窓から総司はカラカラと笑ってみせる。
「お前が言うな」
呆れながらもしっかりと土方は総司にツッコミを入れ、祐馬はその二人の姿に苦笑する。
「沖田さんも一緒に妹を送ってくれて有難う」
「いいんですよ。私、祐馬さん大好きですから」
「でもセイは?」
にっこりと返される問いに総司はぷくっと膨れて「嫌いです」と答えた。
「毎日妹にも聞かされているけど、何がそんなに二人してお互いに嫌い合うのかなぁ。俺は沖田さんも好きだし、勿論セイも可愛いと思っているのになぁ」
「それが祐馬さんのいいところです!・・・私とセイさんはきっと相性が悪いんです」
少し悲しそうにそう呟く総司に、祐馬と土方は「おや?」と首を傾げるが、それを問いにして聞く事はなかった。
話題を切り替えるように、土方が、閉じたままの玄関の扉を見て、祐馬に疑問を投げ掛ける。
「で、妹君は『ちょっと待て』と言って家に入ったきり、何時まで待たせるんだ?」
祐馬も土方の視線を追って扉を振り返り、ただ苦笑する。
「いつまででしょうね?」
そう返すと同時に、扉が開き、セイが出てきた。
「御待たせしました!」
セイは車の前まで来ると、自分の手に乗せていたものを車の中の二人に渡す。
「カップケーキです。昨日作ったんです。送ってもらったせいで家に帰る時間遅くなって二人ともお腹空いてるかと思って」
待たされた時間は恐らくラッピングするのに時間がかかってしまったのだろう小さなカップケーキは透明な袋に小さなリボンを付けて可愛くあしらわれていた。
「うわーっ!嬉しいです!私甘いもの大好きなんです!」
総司が歓喜の声を上げる。
「えー。えー。よく存じ上げております。だっていっつも会う時には必ず手にお菓子がありますもん」
セイがジト目で総司を見つめているのを本人は気にする様子なく素直に喜んでいる姿に土方は苦笑する。
「サンキュー。後で腹の足しにさせてもらう」
そう言って、土方はサイド席の上にケーキを置く。
「ちゃんとお兄ちゃんに味見して貰ってますから、味は保障しますよ」
笑うセイに、祐馬は「うん。美味かった」と太鼓判を押した。
「それと」
言ってセイはもう一度総司に向き直る。
「これで今日の貸し借りは無しですからね!」
「何か貸しましたっけ?」
丁寧にラッピングされた袋は果たして鑑賞されることはあったのか既に開封され、カップケーキを美味しそうに頬張る総司はきょとんとセイを見上げる。
「ここまで送ってくれた事と、さっきの・・・その車に乗せてくれたことです!」
「当たり前じゃないですか。だってセイさん可愛いんですから」
にっこりと笑顔で返された言葉に、セイはまさかそんな事を言われるとは思わず、顔を真っ赤にして二の句を告げることができず、言い返せない悔しさを抑えるように隣の祐馬の腕にぎゅっとしがみ付いた。
「セイさんは本当に祐馬さんが大好きなんですね。・・でも私だって祐馬さん大好きなのは負けませんよ!」
「・・・沖田さん何を張り合っているんだ」
祐馬は呆れたように溜息を吐く。
「えへへへ。じゃあ、祐馬さん。セイさん。また明日」
「私は『また明日』じゃなーい!」
セイはカッとなって言い返す。
「そんな事言ったって、どうせまた会いますよ」
まだ言い返そうとするセイを祐馬が宥め、明らかにセイで遊んでいる総司を土方が宥め、喧嘩が大きくならないうちに、車は富永家を去っていった。

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■はんぶん・7■
「土方さんー。折角貰ったのに食べないんですかー。すっごく美味しいですよー。あっ!食べないなら食べてあげますよ!」
そう言って総司は後部座席から前のカップケーキの置いてある座席に手を伸ばす。
それを土方は見逃すはずはなく、ぴしゃりと伸びてきた手を叩き落とした。
「今は運転中だから運転に集中して味も何もしっかり分からねーだろ!家に帰ったらしっかり味わって食うんだよ!」
「ぶー。既に食べ終わった私の前で見せびらかして食べるんですね。ずるいです!」
「・・良く考えろ。言ってるのがおかしいのはどっちだ?」
「あー!分かりました!土方さんセイさんの事好きなんだー!だからそんなに優しいんだ!」
あまりにも突拍子の無い返しに、土方は思わず噴出してしまう。
「どうしてそうなる」
「でもセイさんは止めた方がいいですよー。幾ら土方さんが女性に百戦錬磨とはいえ」
バックミラー越しに総司を見ると、彼は腕を組み、セイの姿を思い出しているのか、一人自分自身の頭の中に浮かぶ感想に同意しているのかうんうん頷いている。
それが妙に土方の興味をそそり、総司の言葉を促してみる。
「ほー。どうしてだ?」
「えー。だって、顔はまぁ可愛いと思いますよ。お菓子作りだって美味しいし。祐馬さん好き好き同盟組んでもいいかなって思うくらい祐馬さん好きですし」
「だって」から始まる台詞じゃないだろうが。とツッコミを入れたいところだが、土方は特に相槌を打たず、そのまま総司の言葉に耳を傾ける。
「でも、気が強いし!いつも私が何か言うとムキになって言い返してくるし!剣道で土方さんに師事する気持ちは分かりますよ。土方さん強いし。でも女の子があんなに痣を一杯作って!しかも男より強くなりたいなんて言って、体力差も考えず向こう見ずだし!世話焼きだか知りませんけど、大学高校問わずいつも色んな所に出没して何か手伝ってるし!今日だってもう外は暗いのに一人で帰るとか意地張って女の子って自覚無いんですよ!それに祐馬さん以外の人に冷たいんですよ!何処までお兄ちゃん好きですか!あんなんじゃお嫁にだって行けませんよ!」
ムキーっとそのまま暴れだすのではないかと思うくらい総司は苛々を吐き出すように土方にぶつける。
一方土方はと言うと、
「・・・随分富永の事見てるんだな」
という感想が出てきた。
「見てませんよ!気が付いたら目に入るんです!仕方が無いでしょ!だって毎日会うんだから!」
笑いを含みながら返ってきた感想にまた総司はかっとなり、言い返す。
「というか、お前の話聞いていると、俺は『お前は富永の彼氏か?』と聞きたくなるんだが」
しかもかなり嫉妬心と執着心の強い。という言葉を付けたくなったがそこは伏せておく。
「そんな訳無いでしょ!有り得ません!今言ったでしょ!私はあの子が嫌いなんです!絶対ありえませんよ!」
「ほー」
「あっ!信じてませんね!私があの子を好きだとかそういう想像だけは絶対に許せません!」
総司は後部座席から身を乗り出して、土方に訴える。
「なぁ。お前、富永と初めて会った日に何があったんだ?」
「あれ?話した事ありませんでしたっけ?分かりました。話しましょう!そしたらきっと土方さんだって富永さんを嫌いになりますよ!」
「そーか。そーか。前置きはいいからとっとと話しやがれ」
お座成りに促される土方の言葉に気にする事無く総司は出会った日の事を語り始めた。

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■はんぶん・8■
「富永さんと初めて会ったのは、高校の桜の木の下だったんですよねー」
その時の事を思い出したのか、総司はうっとりと溜息を吐く。
「ほら、土方さんが新入部員が入る前のミーティングやるとか言っていて、そのまま稽古するとか言っておきながら、肝心の竹刀と防具一式忘れたあの日ですよ!」
言われて、土方は「ああ、そういえばあったな」と思い出す。
その日、土方は忘れた竹刀と防具を忘れて総司に高校まで持ってくるように頼んだのだ。そして稽古の帰り道に総司が興奮気味に確か桜の精に会ったとかなかったとか話していた。
「お前が珍しく女の話をするからかっちゃんと驚いてたんだよな。しかも『桜の精』って何だとか、爆笑してたな」
「酷いですー!」
それまで彼女の『か』の字はおろか、女友達の一人の話も出なかった総司が『桜の精』に出会った話をし始め、しかもそれが女だと知った時には、土方、そして彼らの幼馴染のかっちゃんこと近藤勇も驚いたものだ。
更に奥手な総司がどうも無意識ながらに異性として好意を寄せているらしい事に衝撃を受けた。
成程、あれが富永だったのかと土方は納得する。実際に総司と富永の仲の悪さを聞かされたのは、富永が入部して暫く経ってからだ。
しかしそれが出会いなら、総司は喜んでいた一方で、
「あの時お前喜びながら悄気(しょげ)てたよな?」
と土方は記憶している。
「そうなんです!セイさんを大っ嫌いになった日ですから!」
「何故」
どんなに力説されても何故としか土方には返しようがない。
「私が道場に行く為校庭を歩いていると、丁度桜を眺めているセイさんに出会ったんです。それは綺麗でしたよ。空を舞ってる桜にそのまま溶け込んじゃうんじゃないかと思うくらい」
「んで」
相槌を打ったのは、うっとりとして語る総司を放置していたらそのままトリップして帰ってこないと思ったからだ。
「・・・少しは浸らせてくださいよ。それでですね、見惚れてたら、向こうがこちらに気が付いて笑いかけてくれたんですよ」
「ほう」
「・・・・・・つまらないなー。いいですもん。どんなにどんなにどんなに!・・・っはー・・どんなに綺麗だったか!土方さんなんかには絶対教えませんよーだ」
途中で呼吸を整えるくらい力を入れて総司は訴える。
「で」
が、反応は一言だった。
「・・・本当に興味あるんですか?」
「出来事は気になるが、お前の惚気はいらん」
「惚気じゃないですよ!だって私はあの人の事大っ嫌いなんですから!」
総司は赤くなって否定する。
「あー。そーか。そーか」
土方はまた総司の言葉を適当に流した。

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■はんぶん・9■
四月の初め、その日は風が強かった。
高校の入学式が行われた数日後、新一年生達は高校生活を謳歌する為に、部活選び始め、様々な部の体験入部をする。
それぞれの部の在校生も一人でも多くの部員を入れる為に躍起になって勧誘活動をしていた。ポスターを貼ったり、一年生の教室のある廊下へ赴いて声を掛けてみたり。
勿論、グランドでも同様だ。
その中で総司は一人懐かしさを感じながら歩いていた。
「まったくもう。土方さんったら道具一式忘れるなんて、武士ならぬ先生失格ですよ」
ほんの二年前までは自分も制服を着て、彼らのように過ごしていたと思うとくすぐったい気持ちになりながら、総司は道場へ向かう。
「あ。でも、これで貸しつくって、またお菓子一杯買ってもらいましょう!今度は何がいいですかねぇ」
呟きながら歩く、総司の目の前に桜が降ってきた。
ふと、視線を上げると、そこには満開になった桜が風に揺られ、彼の行く道一直線に桜色の絨毯を敷く。
それまで考えていた思考は霧散し、目の前に広がる光景に、ほぅと自然と溜息が漏れる。
「そうか。春ですもんね・・・」
ぼんやりと見つめる視線の先に一人の少女が立っていた。
その瞬間、どきりと胸が高鳴るのを総司は感じた。
(あれ?あれれ?)
自分でも抑えられない動悸はどんどん高鳴り、自然と頬も熱くなってくる。
少女は桜の木を見上げていた。
日本人特有の漆黒の長い髪に白い肌が映え、零れそうなほど大きな瞳が桜を見つめている。
この学校の制服を纏い、髪をポニーテールに結っている姿は、そのまま風に吹かれ、桜吹雪の中に消えてしまいそうなほど儚い。
綺麗だ。
温かい感情と小さな痛み、そして熱が戸惑っていた総司に心地良さを与える。
可愛いかなと思うくらいで本当に何処にでもいるような少女なのに、その存在が総司の心を捉えて離れない。
「まるで桜の精みたいだ・・・」
思わず零れた言葉に、少女は気が付いて、彼の姿を見止めると、にこりと微笑んだ。
その笑顔に、また総司の心臓がどくんと一つ高鳴る。
「こんにちは。・・・もしかして、道場に行くんですか?」
彼を見上げる少女の瞳を見つめ、総司は『儚い』という表現だった事を撤回する。
大きな瞳の奥に意思の強さを見つけ、芯の強さが彼女の全身から感じられた。
彼女はただ優しい風に吹かれ、それで消えてしまうような存在ではない。
そう気付くと、何故か今度は動悸の他に全身に震えが走る。
訳が分からないまま、その自分でも分からない衝動を押さえつけ、総司はにっこりと笑みを返す。
「はい。この道具一式届けに」
自分は上手く笑えているだろうか。動揺が表情に言葉に表れていないだろうか、不安になりながら答える総司に、少女は嬉しそうに頬を緩めた。
その表情に、総司はまた引き込まれる。
「あ!もしかして!剣道部のOBの方ですか!?私、剣道部に入ろうと思ってたんです!」
「え?貴方が?」
華奢な容姿にそぐわない部活の名前に、総司は思わず驚いてしまう。
その反応が彼女には気に食わなかったらしく、むっと顔を膨らませた。
「これでも私、中学時代は3年間剣道部だったんですよ!男子よりずっと強いって言われてたんですから!」
「そうなんですか!?」
総司はあまりにもそぐわない容姿と経歴の差に声を上げて驚くと、少女は更にむっとして彼を睨む。
「・・・今、手合わせしてください!」
信じてもらえなかった事が悔しかったらしく、少女は脇に置いてあった竹刀袋から竹刀を取り出すと、総司に向かって構えた。
「えええ!?えっと、あの、分かりましたから!強いのは分かりましたから!」
総司は困って慌てて制止するが、少女は納得がいかないらしく、膨れっ面のまま益々機嫌を悪くしていく。
「その顔は絶対信じてない!この学校に女子剣道部が無い事は知ってます!すっごく厳しいから女子がついていけないって!でも、私は剣道が好きなんです!男子にだって負けないんですから!」
この高校に来る前に相当反対でもされたのだろうか、少女は目に涙を浮かべ、一歩も引き下がる様子はなかった。
その姿に総司は溜息を吐き、仕方無しに肩に担いだままだった道具を下ろして、「土方さん、すみません。お借りします」と断りを入れてから、竹刀を取り出す。
何故こんな事になったのだろう。
竹刀を構え、向き合う男女。
傍から見れば、変な光景だろう。
女生徒とどう見ても大学生の男性が、校庭の桜の下で竹刀を向け合い、見合っているのだから。
そんな事を思いつつ、総司は思いつつ、向かってくる剣先を受け流した。

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■はんぶん・10■
----勝負は一瞬でついた。
総司が軽く少女の剣先をあしらい、そのまま『面』に一本。
続いて向かってくるので、『胴』に一本。
「まだまだぁ!」
幾ら負け続けても立ち向かってくる少女に、総司は自然と笑みが浮かんでいた。
最初は嫌々で受けていたけれど、段々と楽しさに変わってくる。
「いい加減にしませんかぁ。貴女転んでばかりいて、パンツ見えますよー」
なんて、口では嫌そうに言ってみるけど、
「っ!?見るなー!助平!まだ私はやれるんです!」
と返ってくるのが分かっているので、ついつい苛めてみたくなってしまう。
その応酬も体力の限界で絶たれてきた頃、先にぱったりと倒れたのは少女だった。
「あれ?もう終わりですか?」
まだまだ体力に余力のある総司は、その場にしゃがみ込んだ少女の前に屈み込む。
総司の言葉にだんまりだった少女は突然ばっと顔を上げると、衆目も気にせず大泣きし始めた。
「くやしいーーー!!やっぱりお兄ちゃんの言った通りだ!」
総司はびっくりして彼女を見つめ、それからはっと周囲を見渡す。
すると彼の予想通り、校庭にいた生徒たちが一斉にこちらを見ている。
その視線に耐えられなくなった総司は慌てて少女の傍に駆け寄り、屈み込む。
しかし、そこでぴたりと固まってしまった。
(ど、どうすればいいんでしょう?)
普段女性と接する機会が全くと言ってもいい程無かった彼には目の前で泣き続ける彼女をどう扱えばいいか分からない。
だからと言って泣かせたままではあまりにも居た堪れない。
考えても考えても答えの浮かばない総司は、えいとばかりに少女の背中を擦った。
少女は背に触れた温もりにぴたりと涙を止める。
総司はといえば、男とは全く違う身体の感触に恥ずかしいような怖いような感覚がむずむず走り、頭の中で悲鳴を上げていた。
少女が顔を上げると必死の形相で自分の背中を擦り続ける総司の顔が目に入る。
「・・・あ、あの・・・」
小さな声が総司を悲鳴の世界から現実へ呼び戻す。
飛んでいた意識を取り戻すと、目の前に申し訳無さそうに自分を見つめる瞳と目が合った。
「わわっ!」
少女と自分との顔の距離の近さに、総司は慌てて後退った。そしてほっと息を撫で下ろす。
「よ、良かったー。泣き止んでくれて。どうやったら泣き止んでくれるか分からなかったんですもん」
その言葉に少女は申し訳無さそう彼を見上げたが、
「子どもならああすれば泣き止むからと思ってやったんですけど、効果があってよかった」
と総司が言葉を続けた次の瞬間、また表情が怒りに変わる。
「私は子どもじゃありません!」
「へ?」
総司には彼女が何故また怒り出すのか分からず首を傾げる。
「もう高校一年生です!十五歳です!子どもじゃありません!」
その言葉に総司は彼女が何を言いたいのか納得した。
「・・・ああ。そうじゃないですよ。残念ながら私それ程女の子と一緒にいた事が無いんで、どうしたら泣き止んでくれるか分からなかったんで、姪っ子をあやす時にしてた方法を取ってみたってだけですよ」
「姪っ子って・・・やっぱり私の子どもだって言ってるじゃないですか!」
「そうじゃなくて・・・ってどう言えば分かるのかな」
正直説明するのが面倒くさいなと思い始めてしまう。
「いいです!どうせ先輩から見たら私なんて子どもですよ!」
ぷくっと膨れる少女の言葉に総司は引っ掛かりを覚える。
「沖田です」
「え?」
「沖田総司です。私の名前」
どうせなら名前を読んで欲しいと思った。
初めて会ったのに、お互いまだ名乗ってもいなかったのに、何故か、彼女の口から『先輩』と敬称だけで呼ばれる事に不快感を感じた。
そんな風に思っているとは知らない少女は、突然名乗る先輩に驚いてしまう。そして、そう言えば自分も名乗っていない事を思い出した。
良く考えればとても失礼な事をした。名も名乗らず、勝手に手合わせを願い、怒ったり、泣いたりしているのだから。
反省した少女は顔を上げ、沖田と名乗る目の前の青年を見据えた。
「私は富永セイです。失礼しました」
「セイさんですか」
総司は落ち着いた気配に戻ったセイの様子にほっとしながら、にっこりと微笑む。
突然ぼっと顔を赤くしたセイは俯き、「すみませんでした」と謝り始めた。
「兄に、この学校の剣道部はすっごく厳しくて、女子はまずついていけなくて、男子でも逃げ出すって聞きました。それでもその分確実に成長できるって。今まで男子に交ざって練習してきたらから頑張れるって言ったら、そんなものじゃないって言われて、悔しくって・・・。でもやっぱり剣道部凄いです!沖田先輩とても強かったです!私、剣道部に入ってもっと強くなって沖田先輩に追いつきたいです!沖田先輩は付属大学の方ですか?よく指導に来てくださるんですか!?」
最初は申し訳無さそうに事情を話していたが、段々嬉しそうに言葉を弾ませ、そして嬉しそうに顔を上げ、総司を期待の眼差しで見つめた。
その表情の変化に吃驚しながらも、総司は慌てて手を振る。
彼女は明らかに誤解している事が一つある。
「あの!すみません!セイさん!ご期待に添えないで申し訳ないんですけど、私、剣道部じゃありません」
「へ?」
「今日は知り合いの先生に頼まれて道具を持ってきただけで、私は剣道部じゃないんです!」
セイはぴしりと表情を強張らせ、どうにか言葉を発する。
「・・・だ、だって、あんなに強いじゃないですか」
「でも私、今までに一度だって剣道した事無いんです」
「一度も?」
「一度も」
セイの呻くように尋ねる問いに、総司はこっくりと頷いた。
瞬間、セイの表情は一気に怒りに豹変する。
「どういうことですか!?私は素人に負けたんですか!何なんですか!だったら何で手合わせしてくれるんですか!?どうしてそんなに強いんですか!」
「そんなに一辺に聞かれたって答えられないですよ」
「だったら沖田先輩今すぐ剣道部入ってください!それだけ強いのに勿体無いです!」
「剣道部入る気はありませんよ。だって部活とか拘束されるの嫌いですもん」
「何処のもやしっ子ですか!」
「帰宅部ばんざいです」
捲くし立てるセイに総司は笑って答える。
セイには申し訳無いが、総司は楽しかった。
こうやって話している内に段々楽しくなってきた。
彼女はとても表情豊かだ。
考えている事、思っている事がすぐに顔に出る。
いきなり泣き始めたのは困ったけれど、笑ったり怒ったり泣いたり喜んだり、このほんの一時でこんなにも多彩な感情や表情を見せてくれる人は今まで出会った事が無い。
彼女の一挙一動がこんなにも彼を魅了する。
何故こんなにも自分が惹かれるのか分からないまま、彼はどんどんと彼女に惹かれていく。
それがまた心地良かった。
しかし、彼の一時の幸せはそう長くは続かなかった。
笑う総司に、セイは苛立ちを見せていた。
「ずるいです!沖田先輩はずるい!何もしないのに強いなんて!しかもそんなに強いのに生かそうともしないなんて!」
「そんな事言われても、才能と興味は別物だから仕方が無いと思うんですけど」
「・・・・大っ嫌い!沖田先輩なんて大っ嫌い!」
呟く総司に、セイは顔を歪め、言い放つ。
「なっ」
総司は言葉が出なかった。
胸の奥でほこほことしていたものが一気に砕けたような気がした。
何かを言って止めようとするが、何と声を掛けていいのか分からない。
彼女の心が離れていくのを感じ、焦るが、その焦燥をどう伝えてよいか分からない。
「色々突然すみませんでした!」
セイは頭を下げ、立ち上がると、地面に置いたままだった鞄と道具を抱える。
「ちょっ・・・私だってセイさんの事大っ嫌いです!」
総司も慌てて立ち上がり、思いのままに掛けた言葉に、内心自分で自分に吃驚していた。
セイもまさかそんな事を言われると思わなかったらしく、顔をくしゃくしゃにして今にも泣き出しそうになる。
「いきなり手合わせを頼んできたと思ったら、泣き出すし、しかもやる事人に押し付けるし!私は私なんですから!迷惑です!」
そんな事を言いたい訳じゃない。
でも、喋っていたら、自分の主張は当然のもので、自分の中で納得できるものだった。
だから。
実は自分がセイを嫌いな事が分かった。
総司は彼女を批判する事でちくちくと棘が刺さる感覚を味わいながら、それは自分が彼女を嫌いである故である事に気がついた。
セイはもう総司を見る事は無かった。
「沖田先輩なんて大っ嫌い!」
そう言い放つと、一目散にその場を離れていった。

桜の木の下。
華奢な少女の姿が、風で舞う花弁にかき消されていく。