憧憬

「沖田先生!今日もお手合わせお願いします!」
笑顔でこちらを見上げるセイに、総司も笑顔を返し、頷いた。
手に握るのは、刀――ではなく、竹刀。

総司がセイと初めて出会ったのはとある剣道の大会でだ。
学生から社会人まで参加する大きな大会。そこで、セイから初めて声を掛けられた。
「初めまして!富永セイと言います!沖田さんを追いかけてました!来月からやっと沖田さんと同じ道場で稽古できるようになりました!どうぞ宜しくお願いします!」
礼儀正しく腰を折り、深々と頭を下げるセイに、総司は言葉を返す事が出来なかった。
もしかしたら呼吸自体が止まっていたかも知れない。
あの頃と変わらないまま。
長い髪を後頭部で一括りにし、頭を下げる事で肩から流れる。
顔を上げれば、芯の通った人間性そのまま真っ直ぐ人を見据える瞳が総司を捕らえる。
凛とした響きを持つ声は、はっきりと総司の姓を呼ぶ。
この姿を見て、誰が、セイである事を間違えるというのだろうか。
「…あの?」
無言のままの総司に、居た堪れなくなったのだろう不思議そうに覗き込んでくるセイに、彼は慌てて手を振った。
「あ。ごめんなさい。突然…そう、突然可愛い女の子から声を掛けられてびっくりしちゃって」
「可愛い…とか…ありがとうございます!けど!道場では女だからって手加減無しで手合わせをお願いします!」
返される言葉にむっと頬を膨らまし、眉間に皺を寄せ、それでも頬を少し赤らめて、はっと思い出したように反論する姿に、総司はいつか見た彼女の姿を重ねる。
纏っているのは白い道着はあの頃のままだけれど、肩まで長く伸びた黒髪に月代はない。
「…くっ…あはははっ!」
「笑わないで下さいっ!私は真剣なんです!沖田さんの試合を大会で見てからずっとこの人から学びたいって思ってたんです!沖田さんの所属してる道場を探して、親を説得して、高校を道場の近くに選んで、一人暮らし始めて、やっと今日、会えたら、ご挨拶しようと思ってて!」
鼻息荒くここまで来た経緯を語るセイに、総司はきょとりとする。
「そんなに私を追いかけてくれてたんですか?私なんてただの一学生でしかないですよ?」
「何言ってるんですか!沖田さんは小学生の頃から有名だったじゃないですか!こんなに強い人いないって!いつも大会では優勝しかした事無いしっ!自分より上位有段者にも勝っちゃうし!」
「けど、私の型は独特ですからねぇ。綺麗ではないですよ」
今も昔も指導者たちはに、「お前の型は剣道ではない」、「誰も真似できない」、「同じ事がすぐに他人にも出来ると思うな指導者として未熟だ」等と散々言われている。
しかし、それは目の前の少女にとっては引っ掛かる事ではないらしい。
「実践向きだからこそです!私は沖田さんの試合で絶対に負けないあの強さに憧れてるんです!」
そんな事を言われたのはいつ振りだろうか。
新選組の剣術は決して敵を圧する為に鍛錬をしていなかった。
生死の場面で、生き残る為の術を稽古する。
己の刀は全てそこに帰結している事を総司は自覚している。
決して今の世には不向きな型であるはずなのに。
「――そうですか」
真っ直ぐに総司への憧れを伝えてくるセイの言葉と、眼差しに、ふと、彼は小さく呟く。
「男としてはどう思ってくれてるんでしょう」
「え?」
小声過ぎて聞き取れなかったらしく、憧れの人からの言葉を聞き取れなかった自分に焦れたセイはも『もう一度』言ってくれと言わんばかりに、ずいっと顔を寄せてきた。
――以前であれば、彼女がよく頬を染めてくれた距離。
瞳の中に映り込む自身の姿を見つめ、総司は勝手に抱いていた期待に失望する。
「…何でもないですよ。いつからうちの道場に通い始めるんですか?」
「来週からです!」
本人がそう言うのならそうなのだろう。と、従順に総司の逸らした話に答えるセイ。
自分に興味を持ってくれた事が嬉しいのだろう。頬を紅潮させ、総司の話を促す言葉にセイは次々と答えていってくれた。
その瞳に、恋情はない――まだ。

「お疲れ様」
「お疲れ様ですー」
道場での稽古が終わり、一人また一人と、道着を着替え、家路に着く。
「富永さん。帰りましょう」
「はいっ!」
女子更衣室から出て来るセイを待つのは、既に着替え終わった総司。
当たり前のように声をかけ、そして二人で帰る。
最初に声をかけてきたのはセイからだった。もう少しだけ稽古を付き合って欲しいと言われ始めた、二人だけの稽古。
自然、帰宅時間も遅くなり、セイは今の高校に入る為に両親を説得して一人暮らしをしていると言うが、それでも暗くなった夜道を女の子一人で歩かせる訳にはいかない。
自分から言い出したのだし、大通りを通って帰るからと始めの頃こそセイも恐縮して断っていたが、最近は残って稽古をしなくとも、どちらとも無く声をかけ、一緒に帰るようになった。
総司の家の方角とは少し遠回りになるが、そんな事は少しも気にならない。
道場の稽古があるのは週三回。
その三回が多いのか少ないのかは分からない。
けれど、総司にとっては大切な時間に変わりは無かった。
何気ない事を話すだけの時間。
高校生と大学生、二人とも通った学校も違えば、故郷も違う。
共にいる時間も週三回の、しかも稽古のほんの数時間。
共通の話題はと言えば、剣道の事くらいで、とても少ない。
それでも、総司にとってセイの隣を歩くこの時間は、とても大切なものだった。
何故か自然と話題は尽きる事無く、そして、例え無言になったとしても、取り繕う必要も感じなく、ただ二人で歩く。
それだけ。とても心地よい。
今も振り返れば、セイは総司の視線を受けて、彼を見上げ、そして、頬を染めて笑みを浮かべる。
それは憧れだけだろうか。
そんな事を思い、総司は小さく溜息を吐く。

かつては、妻であった人――。
ほんの僅かな一時だったとしても。
二人にとってかけがえのない時を過ごしたと思っている。
決して、嫌われている訳ではないと思うのだが。

セイは何も覚えていない。
それは、日々彼女と過ごしていて突きつけられていた。
それが総司にとって嬉しいのか、悲しいのかは、分からない。
会えると思っていなかった。
再び出会ったセイにどうして欲しいのか。
自分はどうしたいのか。
「沖田先生っ」
心地よい声が耳に入り込む。
道場に彼女が通うようになってから、師範である総司を彼女は『先生』と呼ぶようになった。
初めて呼ばれた時、彼女の真意を確かめようとしたが、やはりその瞳に、憧憬はなかった。
「どうしました?」
にっこりと笑みを浮かべ、返す総司に、セイは、俯いた。
毎日共に帰るようになってから、彼女がこんな様子を見せたのは初めてだ。
「……沖田先生は…」
そこまで呟いて、そして口を噤む。
何かを訴えようとして唇が小さく動くが、総司には聞き取れない。
「ん?」
いつだって彼女は天真爛漫で、全力で感情を総司にぶつけてくる。
お節介で何にでも自分から巻き込まれていき、気が付けば総司も巻き込まれている。
その度に泣いたり、怒ったり、喜んだり。
自分から乗り込んでいかなければ、そんなに感情が揺らぐ事もないだろうに。
その度に彼女を慰めたり、諌めたりするのだって、総司だ。
けれど、決してそれが嫌な訳じゃない。――それがまた彼女に自分も振り回されていて悔しい気持ちもあるが。
そんな彼女の長所でもあり短所であるところは、相変わらずだ。
己の立ち居地も変わらない。――相変わらずだ。自分も。
総司は心の中で失笑する。
だから、今日も何か出来事があったのだろうか。と総司は話を促したが、セイはそこで言葉を止めて、続ける事は無かった。
いや、はっきりと総司の耳に届く事を躊躇っている様子だった。
セイががこんなにも口篭る事が珍しくて、総司は足を止め、真っ直ぐ彼女の瞳を覗き込める様に身を屈めた。
視線が合う事で揺らいでいた瞳が定まり、総司の視線を真っ直ぐに受け止める。
やはり、綺麗な人だ。
そんな事を総司は思う。
漆黒の艶やか髪は後頭部で一つに括られ、夜風に揺れる。
白磁のような頬に、赤く染まる唇が蠱惑的で、それでいて大きな瞳が、まだ少女としての幼さを残す。
瞳の奥に宿る小さな光は、揺れていたが、それは涙で潤んでいるからなのか。
それでも確かに灯る小さな光は総司の瞳に入り込み、そこにある揺らがない意思を焼き付ける。
「私は、ずっと、沖田先生のお傍にいますから」
凛とした声が、総司の心臓を射抜く。

どくり。

今の心臓の痛みは、どちらのものだろうか。

あの日のあの人を愛しいと思う感傷か。
今、目の前にいる美しい人を愛しいと思う慕情か。

2022.04.09