11.広い背中

空には大きな白い雲が流れ、蒼い空は何処までも透き抜けるように蒼い。
昼下がり、太陽の位置が一番高いこの時間は少し湿った風と、強く照りつける太陽に、心に休憩を与える。
自然、木陰へ人は集まり、昼食後の満腹感に満たされた脳は休息を求め、微睡み始めていた。
それがまた穏やかで心地良い一時。
斉藤一は午後の時間を、屯所の北側にある丁度日差しの影となる縁側に座り、のんびりと刀の手入れをしていた。
この無心になれる時間がまた心地良い。
そんな事を思いながら、柄と刃の留め金を外し、分解していく。
のんびりと時間を掛けながら手入れをしている途中、ぱたぱたと軽やかな足音が聞えてきた。
この男だけの屯所に軽やかに走れる程体重の軽い者は限られている。
「斉藤先生」
案の定。一は想像したとおりの声の持ち主に、他者には気付かぬだろう微笑を見せる。
「どうした神谷?」
屯所内で恐らく一と言っても過言は無いだろう、美少年の部類に入る神谷清三郎を、彼にも見抜けないだろう小さな笑みを浮かべながら振り返る。
「いえ。用事があった訳じゃないんですけど・・・」
そう言うと清三郎はもじもじと何かを言いた気に目を伏せる。その姿の愛らしさを感じながら一は問いかける。
「あんたの表情はとても何かを言いた気に見えるが?」
一の指摘に清三郎は顔を赤くすると、言い難そうに切り出した。
「・・・あのですね。抱きついても良いですか!?」
「は!?」
清三郎の思わぬ申し出に一は、表情には一切出さず心臓を高鳴らせながら、平常心で彼に問い返した。多少語尾に感嘆符が付いてしまったが。
「だって、斉藤先生の背見てたら広いなーって。そうした無性に抱きつきたくなったんです!兄上の背中を思い出して。私いっつも後ろから抱きつくの大好きだったんです!」
あわあわと慌てて言い訳をする清三郎に一は「また富永か」と思いながらも、役得、とこっそり彼には見えぬところで握り拳を作る。
「別に構わん」
悶々と広がる独り言の中、それだけを告げると、一はまた彼に背を向けた。
「有難う御座います!兄上!」
喜びそのまま、清三郎は背中から抱きついた。
「沖田さんにもすれば良いだろう」
「ええっ!?・・・むっ・・無理です!」
「何故」
「斉藤先生は兄上だから出来るんです!」
思いっきり甘えられるんです。と清三郎は力説した。

暖かな日差し。
昼下がりの少し湿った空気と微かに吹き付ける柔らかい風は日陰の中で穏やかな時間を与える。
昼食の満腹感に合わせて、穏やかな時間は人々に優しい安らぎを与える。
「神谷?」
一は手入れし終えた刀を鞘に戻すと、背中越しに未だある温もりに声を掛ける。
「神谷?神谷清三郎?」
暫く抱きついていた彼は、一が刀の手入れをしている間背中越しに抱きついてみたり、頬を寄せてみたりして、その度に一は表面には決して出さずに動揺し、刀で手を切らぬよう細心の注意を払いながら葛藤を続けていたのだが、やがて彼の背に己の背を預けると静かになってしまった。
まあ、いいか。と黙々と作業を続けていたのだが。
耳を澄ますと微かに規則正しい呼吸が聞える。
寝てしまったのか。
愕然とする反面、己に対して信頼しきって、安心している事に喜んでみたり、悲しんでみたり、この状況をどうすれば良いのかと戸惑ってみたり。
兄だと慕ってくれる事に喜びを感じても良いのだろうが。
こう無防備過ぎると、逆に自分を恋情の相手としては全く意識されていないのだと見せ付けられて、悲しくなってくる。
さて、どうしようか。と困り果てているところに、丁度都合良く、眠る清三郎を呼ぶ声が聞えてくる。
「神谷さーん。・・・あれ?」
それは彼の予想に反しないお神酒徳利の片割れ。己より清三郎に近しい位置にいるその人物に嫉妬を抱きながらも、同じ同志としては気を許す、剣術に対しては尊敬する人物、総司が現れた事に、一は溜息を一つ落とす。
「眠ってしまったようだ」
一の背中に寄りかかり、すやすやと幸せそうに安らかな寝息を立てる清三郎。
そのあどけない表情が微笑ましく、幼い仕草が可愛らしい、彼の寝顔を見るだけで、自然と笑みが浮かび、互いに笑みを浮かべていた一と総司は目を合わせると苦笑する。
「幸せそうに寝てますねぇ」
総司は清三郎の前に屈むと、ふにふにと眠る清三郎の頬をつつくが、「うぅん」と魘されて体を揺すると彼は目覚めずにまた深い眠りに落ちる。
「すみません。刀の手入れの邪魔をしてしまって。連れて行きますから」
「気にするな。疲れているんだろう。このままにしておいてやれ」
「でも・・・」
総司は申し訳無さそうに清三郎の脇に手を入れ、横抱きに抱えて連れて行こうとするが、一はそれを軽く制する。
すると、眠っていた清三郎の体は支えになっていた一の肩から外れ、ぽてんと横になる。
総司の膝の上に。
「・・・これだけされても起きないなんて・・・」
そう言って総司は呆れながらも、ふわふわと風で揺れる前髪を優しく掬うと、柔らかに頭を撫でる。まるで父親か兄のように。
「さっきまで一人で稽古をしていたみたいだしな。その前には洗濯もしていた」
自分もしなければならない事があったので手伝ってやる事は出来なかったが、くるくると走り回っては忙しく動いていた清三郎を一は思い出しながら語る。
「何でも一生懸命ですからね。神谷さんは」
そう言って微笑む総司の表情は何処までも優しい。
清三郎を膝に乗せ、その彼の髪を優しく撫でる総司。
安らかに眠る清三郎と、幸せそうに笑う総司に。
俺の居場所は無いか。
何度感じたか分からない諦めと、呆れに、小さな溜息を落とすと一は立ち上がろうとする。
その袴の裾がくいっと引っ張られる感触がして振り返ると、清三郎は未だ微睡みの中、一を見上げていた。
「あにうえぇ?・・・行っちゃうんですかぁ・・・?」
半分寝ぼけ眼に涙を微かに浮かばせながら拗ねるように問いかける清三郎。
勿論平常心を常としている一だとしても、動揺せずにはいられない。
「神谷さーん。私だけじゃ不満なんですか」
剥れる総司に清三郎はふふっと笑う。
「兄上の背中だーい好きです。兄上の背中暖かくて、広くて、安心するんです・・・・・・」
微睡みからまた夢へと誘われたのか、そのまま再び目を閉じると、清三郎はすうすうと寝息を立て始めた。
幸せそうに眠るセイの頬を総司は不満そうに引っ張ってみる。
「私も兄上目指して頑張ろうかなぁ。神谷さんの馬鹿・・・」
「やめとけ。あんたはあんたのままが清三郎は良いだろう」
清三郎は総司に兄と言う役割は求めていない。
兄でいるという、この幸せで切ない位置は自分だけで良いのだ。
恐らく総司本人は無意識なのだろうが、好きな者の想う全ての対象になりたいと願う細やかな独占欲。
兄であり、弟であり、師であり、父でありたい。
その中の一つくらい一が占めても良いだろう。彼が望む清三郎にとって最も近い位置は全て彼が独占しているのだから。
総司の膝に頭を預け、ぎゅっと一の袴の裾を握り締めながら眠る清三郎。
暖かな陽気が人の心を暖かにし、細やかな幸せを与えてくれる。
「偶にはこんな日があっても良いだろう」
そう呟くと、一は再び腰を下ろし、清三郎の隣で、屋根の向こうに覗く蒼い空を見上げる。
「清三郎を沖田さんと俺の二人占めだな」
清三郎を見下ろして言う一の言葉に、総司は噴き出す。
「神谷さんは私と斉藤さん二人を独り占めですね」
偶にはこんな日も良いだろう。
何にも無い退屈な昼下がり。
清三郎と総司と一の三人で。
のんびりと。
ゆっくり流れる時間を過ごす。

2011.03.27