聞かせて

「おいらはちゃんといつまでだって待つから。あにきの声で聞かせて」

百鬼丸はその鬼神を倒すまで、声を出す事は無かった。
恐らくは声を出すと言う概念自体を知らなかったのだと、どろろは思う。
何故なら、彼には五感というもの全てが鬼神に奪われていたからだ。
どういう経緯があって、そうなったのかは、どろろは知らない。彼自身が語ることも無ければ、語る術も今はまだ無いからだ。
ただ、出会った時、彼に救われ、彼に魅かれ、そして今、彼の隣にいる。それがどろろの全てだった。
元々体の一部を取り戻す度に、それまで表情も変えず淡々としていた様子の彼が戸惑いや感情を徐々に見せるようになっていたが、音を取り戻してからは、より一層その傾向が強くなった。
時折旅の途中で出会う琵琶丸曰く、魂の炎の色を見分けると言う術を持つ事で、視界の無い百鬼丸は人と妖を見分け生きてきたと言うが、それでもそこに外界との関係性は希薄で、ほぼ一人ぼっちの世界であっただろうと、どろろは思う。
そこに音や声や、痛みや熱、様々な己が置かれている世界を形作る情報が一気に流れ込んで、百鬼丸は混乱しているようだった。
それもそうだろう。
自分だったらと思うだけで、自分には耐えられないと、どろろは思う。
百鬼丸の傍にいる。と、決めたけれど、彼の為にどろろが出来る事など数少なかった。
それでも。
「だーかーらっ!暴れるなって!あにきっ!」
二人で旅をしている途中、百鬼丸は時折、何かを思い立ったように突然体を動かす事があった。
突然地面を叩き始めたり、自分の体を叩き始めたり。時にどろろをじっと見つめたかと思うと(見えてはいないが)、ぎゅっと抱き締めてきたり。
不可思議な行動を取る事があった。
最初の頃こそその行動の意味が分からずに、どろろも思わず物陰に隠れて落ち着くまで見守る事をしていたが、ずっと旅をしているうちに気付いたことがあった。
彼は決して刀を抜く事は無い。
そして、人や物には当たらないのだ。
草や花を手折らない。どろろにも決して手を上げない。
ただただ、言葉にならない声を上げて、手や足を動かす。
そうやって見守っている内にある事に思い至った。
今も突然動き、何を思ったのか、百鬼丸はぺしぺしと突然両手で己の頬を叩き始めた。
何処へ向かうという事もない旅の休憩の為に木陰に腰を下ろしていただけだったのだが、何かに気付いたのか、何かを感じたのか、動き始めたのだ。
慌ててどろろがその両手を掴むと、動きが止まった。
「あにき。思ってる事はちゃんと言葉にするんだよ」
「――」
百鬼丸は首を傾げる。
「あにき。おいらの名前はもう呼べるな」
「…どろ…ろ…」
まだ呂律が回らず、たどたどしくあるが、きちんと目の前の相棒の名を呼ぶ。
「物には名前がある。これが花。草。あにきもおいらの話を一杯聞いて覚えたはずだよな」
「なま…え。ひゃっ…き…まる…。ど…ろ…ろ…」
百鬼丸はどろろから離された腕を伸ばすと、己を指差して自分の名を言うと、その後にどろろを指差し同様に名を呼んだ。
「そう。おいらたちにも名前がある」
にっかりと笑うと、どろろは大きく頷く。
「そして、気持ちにも名前があるんだ」
「…き…もち…?」
知らない言葉に、百鬼丸は首を傾げる。
「心っていうのが、おいらたち人にはあるんだよ。嬉しい。楽しい。悲しい」
「――」
「おいらはあにきと一緒にいられて嬉しいよ。毎日が楽しい」
そう言って、どろろは百鬼丸の胸に手を当てて、笑ってみせる。
「…うれ…しい……た…のしい…」
「今日食べたあにきの獲った魚、美味しかった」
「…さかな……お…いし…い…」
百鬼丸はどろろの言葉一つ一つを咀嚼するように反芻し、己の胸に当てられている小さな温もりから伝わる、そして身の内に浮かぶ様々な熱を飲み込んでいく。
「…タケや…みお姉が…死んじまった時は……悲しかったよな…」
嬉しい事楽しい事もある反面、悲しい事もある。
それも大切な感情の一つだ。
百鬼丸は思い出したくはないだろうと思いつつも、どろろは唯一彼が心魅かれていた少女の名前を口にする。
「…み…お……」
小さく身をの名を呼ぶと、百鬼丸は小刻みに震えだした。
「あにき…」
どろろが胸に当てていた掌を外そうとすると、百鬼丸がその手を掴んで握り締める。
「どろ…ろ……かな…しい…」
「そう…だろ。ここがぎゅっとして、喉の奥が詰まった感じがして、吐き出したくなる」
そう言って、どろろは再び百鬼丸の胸に手を当て、そして、ぎゅっとしがみ付いた。
「ど…ろ……ろ…」
握った手をそのままにしがみ付いてきたどろろの背にもう片方の手でしがみ付くように抱き締める。
「あにきの心の臓どくどく言ってる。辛い苦しいって大きく鳴ってる」
「…つ…らい…くる…しい…かな……しい…みお…」
「そうだな…辛いな。苦しいな。みお姉ちゃんにもっと生きて欲しかった…」
言葉にならない想いは、百鬼丸の喉から嗚咽になって吐き出される。
どろろも今も瞼の裏に浮かぶ、みおの最後、友だちになれた気がしたタケ等、子どもたちの最後が浮かぶ。
炎に巻かれた、悲しい記憶。
目の前の百鬼丸まで怒りに飲み込まれて、鬼神に奪われてしまうのではないかと脅えた記憶。
内から溢れ出る想いをぎゅっと唇を噛む事で堪え、どろろは顔を上げる。
「でも、みお姉ちゃんたちと一緒に暮らした毎日はとても楽しかった。そうだろ。だからこそ、――目の前で死んじゃったのが悲しい」
震える口元を無理に上げて、どろろは顔を上げる。
百鬼丸はまだ言葉無く嗚咽していた。
どろろはそっと、百鬼丸の背に回していた方の手を挙げ、彼の頬に当てた。
「あにき。もっと一杯言葉を覚えような」
今まで彼の世界は一人きりの世界だった。
魂の炎が見えようとも、他者の感情が入り込む事は無かった。
一人、一人、出会う魂の炎がこれ程の複雑な心を持って傍にいた事に気づいていただろうか。
きっと生きてきた年月だけ重ねた想いもあるだろう。
それでもそれはこうして五感を取り戻す前よりずっと乏しかったはずだ。
彼は敏い。
どろろが語る事はすぐに吸収していくし、好奇心も強いから何事も知らなかった事はどんどんと自ら危険かどうかの判断もつけずに飛び込んでいく。
人と想いを重ね、人の想いを知り、人と他者を知る。
どろろの見る百鬼丸の行動は、己の想いをどう現したら良いのか、言葉にしたら良いのか分からない上での行動に見えた。
赤ん坊が言葉を持たず、泣く事で意思を伝えるのと同様に。
体だけは大人だから、行動は大きく、異様に見えてしまうが、赤ん坊と何も変わらない事に気が付いた。
それでもきちんと分別は付いているから赤ん坊のように決して人や物に八つ当たりはしない。
時に激情に、鬼神の感情に飲み込まれる事もあるけど。
彼の本質が、優しいのだ。
だからどろろは傍にいる。
「…ど…ろろ…」
どくどくと激しく鳴っていた鼓動が、段々と静かに落ち着いてきたのを感じて、どろろは頬を緩めた。
「もう、ここ、痛くないか?」
そう言って握り締められたままの手を伴って、どろろは百鬼丸の胸を、とんっと軽く叩く。
「…いた…くない…いたい……どろろ…がいたく…なく…した」
「何だそりゃ?」
笑うどろろに、百鬼丸はじっと見つめたまま、首を傾げた。
「…これは…なんだ…?」
再び胸に当てられたどろろの掌をぎゅっと握り締めたまま、より強く己の胸に押し付け、真剣な表情で百鬼丸はどろろを見下ろす。
「痛い?熱い?あったかい?か?何のことだ?」
「どろ…ろがわから…ない…なら、お…れは…わからな…い」
「そうか」
そう頷いて、どろろは百鬼丸から離れると、ちょこんと座り直す。
百鬼丸は僅かに眉間に皺を寄せながらも、目の前のどろろを見下ろした。
「なぁ、あにき」
「――」
「おいらさ。これからも一杯あにきに話をするよ。そりゃおいらだって何でも知ってる訳じゃないけど、一杯色んな見えるもの感じるもの伝えていく。だから、あにきも教えてくれ。あにきが見えるもの、感じるもの。おいらちゃんと聞くからさ。こうやって自分を叩いたりするんじゃなくて、ちゃんと考えている事思ってる事があるなら言ってくれ。言ってくれなきゃ分かんないよ。声に出す事で相手にこうやって分かって貰える事もあるし。辛い事だって二人で感じれば半分になるだろ!」
「――どろ…ろ…がはん…ぶん…?もって…いった…」
そう呟いて、百鬼丸は己の胸を押さえて、こくりと頷く。
「まだ、上手く喋れないだろうけど。あにきならすぐに沢山の言葉覚える」
「…おぼ…える」
「あにきの心はあにきのものだ。おいらにはわかんねぇ。だから一杯覚えて、おいらに話してくれたら、おいらはあにきの気持ちを知る事ができる。それはすっごくおいらは嬉しい!」
いつかのその日を想像して笑うどろろを百鬼丸は眩しそうに目を細めて見つめた。
「きっといつかそのわからない気持ちだって言葉にできるようになるさ!」

「どんなに言葉するのが難しくても、おいらはちゃんといつまでだって待つから。だから、あにきの声で、あにきの気持ちを聞かせて」
笑顔を見せるどろろを見つめ、百鬼丸は己の胸をぎゅっと押さえた。

2021.05.06