4
オレは昔から何でも器用にこなす人間だった。
大抵の事は一度教えられれば出来た。
一生懸命になったって、あっという間にトップを取れてしまうから、一生懸命になる事を止めた。
そこそこ努力して、そこそこ人並みに出来るなら、その方が楽だからだ。
人並みに生きていけるし、余計なやっかみや妬みも無い。
時々つまらないと思ったりもするが、それがいい人生ってもんだ。
平凡な人生ってものはそういうもんだと思っていた。
それはオレが作り上げた、オレだけの世界観での話だった。
それは自分がこの先も生きていける事を前提とした話だった。
明日死ぬことになるかもしれない事を微塵も想定しないまま。
オレの今まで生きてきた世界はそれが当たり前だったから。
明日死ぬかも知れない命。
突然起こる事故。
ニュースで流れる事件や事故は何処か別世界での出来事にしか思ってなかった。
なんて馬鹿で短絡的な世界観の持ち主なんだろう。オレは。
そして時間が恒久的にあると勘違いしているバカは、タイミングを計ることもヘタで。
オレはどれだけバカなんだと後悔させられる。
一生ものの後悔を。
「え」
オレはナースステーションでそう聞き返す事しか出来なかった。
目の前の看護師は労わるような瞳でオレを見つめる。
昨日会った看護師だ。
「野田美音さんは昨夜無くなりました」
呆然とするオレに、看護師はゆっくりともう一度言葉を紡ぐ。
「優士?オイ」
後ろで待っていた友也が、看護師の言葉を受けて呆然とするオレの肩を揺らす。
オレは言葉が出なかった。
「…だって昨日まで…」
「…今朝、検温に行った時にはもう…。眠るように冷たくなってたんです。とても幸せそうに」
とても幸せそうに?
それは--目的を達成したから?
オレを傷つける事が出来たから?
あの子は『もうすぐ死ぬ』と言っていた。
だから、まだ時間はあると思っていた。
もうあの子が死んでしまう、その事にオレは傷付く。それは間違いない。
それでも、残りどのくらいか分からないけど、その少しの時間で自分が少しでも彼女に出来る事があるんじゃないかと思った。
文通をしてきたオレだからこそ、少しでも彼女に楽しい思い出を作ってやれるんじゃないかと思い込んでいた。
そんな隙さえ与えてくれなかった。
あの子が死を迎えるその時、傷付くだろうオレがオレ自身を納得させられる、自己満足さえ見抜いていたのかもしれない。
唯一今のあの子と意思疎通が出来たオレが何もしてやれなかった上に。
あの子の死の覚悟もしていなかったオレが。
どれだけ傷付くかを、あの子は全て見抜いていたんだろうか。
胃からせり上がってくるものを感じ、オレはその場にしゃがみ込むと大きく咽た。
「おい!優士!」
友也は慌ててその場に崩れるように屈み込むオレを支える。
気持ちが悪い。
気持ちが悪い。
気持ちが悪い。
何て勝手なんだ。
これだけの衝撃を与えて。
深く傷つける程の記憶を与えて。
そこまでして自分を誰かの記憶の中に刻み込みたかったのか?
いっそ彼女との思い出を切り取りたい。
たかだか数ヶ月文通しただけの相手じゃないか。
こんなに傷付く必要は無い。
忘れてしまえ。
あんな女の事なんか忘れてしまえ。
そうしたら、ざまぁみろだ。
お前の思い通りにはいかないぞ。
そう笑ってやる。
--笑ってやりたい。
無気力に、無難に毎日を何となく生きていきたいのに。
--オレはもう、戻れない。
悔しいが、忘れる事は出来ない。
オレと文通する事は、動く事さえ出来なかった彼女が一生の内でたった一度だけの我侭だったんだ。きっと。
オレが忘れたら。
十五歳の美音さんがどんな美音さんだったか誰も知らない。誰の記憶にも残らない事になる。
親だって、きっと彼女は眠っているだけの彼女しか知らない。
どんな事を思い、どう生きたか。
あんなに未来に夢を見て、女の子らしく浴衣に憧れ、海に行ける事を想像して。
怒って、笑って、感情をむき出しに人と向き合ってくれるか知らない。
それは可哀想という同情よりも。
オレが嫌だった。
5
「先生!塚田先生!」
道を歩いている途中、後ろから声がかかり、オレは振り返った。
見ると、そこにはオレより後輩が嬉しそうに手を振っていた。
「相変わらずクールですね。塚田先生!」
「別に」
後輩がオレに追いつく前に、オレは歩き出し、後輩は慌ててオレの横に走りよって隣を歩く。
「聞きましたよ、先生。また製薬会社からオファーがあったそうですね」
「…ああ」
そう言えばそんな事もあったとオレは思い出す。
「研究職専門付かず、未だ病院の医師として活躍しながら新薬の研究も続けてる医師なんて数少ないですからね!先生って本当に器用って言うか、有能ですよね。普通どっちかに絞る人が殆どなのに」
「大学病院の医師なら普通だろ」
「普通新薬開発したいなら研究室に籠もりますし、医師としての腕を磨きたいならもっと高度医療扱ってる病院に転職してますって!」
「オレはどちらかを選ぶ事が出来なかっただけだよ」
「けどどちらも疎かにしていない。この間の論文だって学会での評価高かったし、相変わらず退院した患者さんから感謝の手紙も多く頂くじゃないですか!」
「それでも救えなかった命だってある」
「それは医師として仕方ないでしょう?医師だって万能じゃないんだから」
「そうだな。…それでも患者一人たった一つの命なんだ」
「ストイックですね」
後輩は無表情のまま答えるオレに頬を紅潮させて羨望の眼差しを向けていた。
オレはそんな眼差しを向けられるほど出来た人間じゃない。
たった一人の少女の命を救えず、毎日つまらないと無為に時間を過ごしてきた最低の人間だ。
幾ら多くの命を救っても。
新しい技術を生み出しても。
彼女はこの世に戻ってくる事は無い。
「塚田先生。この間とうとう完成した新薬、効果上がってるそうですよ」
嬉しそうに語る後輩。
例え彼女を救える新薬を作り出しても、彼女は還ってこない。
あの日。
彼女と出会い、別れてからオレの運命は全て変わってしまった。
無難に選んでいた進路を全て覆し、それまで適当に点を取っていた成績を見て先生に無理だと言われていた大学に進路を変更し、大学で医師免許を取って留学し、臨床医としての腕を磨きながら新薬の開発を続けていた。
ただオレは我武者羅に生きた。
彼女の言葉に対して埋め合わせをするように。
彼女を忘れない為に。
彼女の分まで懸命に、いつだって全力を出した。
限界にぶつかって、全力以上に努力した。
彼女があの日望んでいた、人を救える薬を開発しても、彼女自身を救える薬を開発したとしても、それでも、まだ、足りない。
「よぉ!優士!」
公園を横切る途中、懐かしい顔に出会った。
「友也…?」
オレは呆けて、目の前の人物の名を呼ぶ。
「え?あれ、クレーブスのトモヤ!?」
横を歩いていた後輩が、友也の姿を確認すると、歓喜の声を上げる。
「久し振りだな。優士」
「どうしたんだ?二ヶ月くらいレコーディングだって言ってたじゃないか」
「もうその二ヶ月とっくに過ぎてるぞ。相変わらずだな、お前」
オレの言葉に友也は苦笑する。
その横から後輩が目を輝かせながら友也に声を掛けた。
「あの!オレ、いつも聞いてます!クレーブス!大ファンなんです!トモヤさんがメンバーの中で一番カッコイイっす!!」
物凄い勢いで捲くし立てるように喋る後輩に、友也は目を丸くする。そしてオレを見ると、オレは「病院の後輩」と短く答えた。
「ありがとう。いつも聞いてくれてて」
友也は苦笑すると、後輩の手を握る。それだけで舞い上がった後輩はまた顔を真っ赤にして震えた。
「優士の後輩なんて大変だろ。昔から愛想悪い奴だったけど、大学言ってからは更にだからな」
「全然っす!塚田先生はオレの憧れっす!オレももっと勉強して助手にして欲しいんです!」
その言葉に、友也はオレを見て笑う。
後輩はそんなオレと友也のやり取りを気にする事無く、言葉を続けた。
「あの…この間の新曲も良かったっす!泣けてきて!オレ発売日即買いしました!あの歌詞に出てくる女の子ってモデルでもいるんすか!?」
その問いに友也は笑顔を張り付かせると、オレを見て、そして後輩に向き直ると頷いた。
「優士が忘れられない女の子だよ」
「え!?」
後輩は驚いてオレを見る。オレはその視線を適当に流すと、
「もういいだろ。先行ってろ」
と、その場から離れる事を促した。
後輩は何処か怪訝そうにオレを伺いながら、それでも頷くと、「すいませんでした。では、塚田先生、また後で!トモヤさん頑張ってください!会えて嬉しかったです!」と言ってその場を離れた。
後輩の姿が完全に消えるのを見送ってから、オレは小さく舌打ちした。
「余計な事ベラベラと」
「いいだろ。本当の事だし」
優士はオレの舌打ちに嫌な顔する事無く、しれっとして答える。オレはそれ以上何も言えなかった。
「憧れの先輩か。お前もそっちの世界じゃ随分活躍してるよな。ついに出来たんだろ?例の薬」
「まだ第一歩にしか過ぎない。完治させる薬じゃない。第一発症してからじゃ遅い。予防薬でしかないんだ」
そう。出会っていた時、既に病気を発症していた彼女を救う薬じゃない。
だから、まだ、これからなんだ。
そう思うオレの瞳を見て、友也は小さく溜息を吐く。
「…何度も言うが、忘れろとは言わない。けど少しは自分の為に生きる時間を作ったらどうだ?」
「それはムダだと悟ったからな。諦めた。それに彼女の為に生きるには時間が足りなすぎる」
オレだって、彼女が死んだと知った当初は足掻いた。
何度も。何度も。
壁が立ちはだかる度に、限界を感じる度に。
何もかも嫌になって暴れた事だってあった。
それでも無理だった。
だから彼女の為に、彼女が生きたかった時間を使おうと決めた。
彼女はこんなオレを知っていて、オレを選ばせたんだろうか。
オレがこんな風になると知っていて、麒麟はオレを選んだのだろうか。
忘れたくて、足掻く様に、何度も今も家路に使うこの公園で麒麟の姿を探したが、彼女が死んだ後、結局一度も出会える事は無かった。
そうやっているうちに、苦しさも辛さももう感じなくなっていた。
それが今のオレだ、。
そう思いながら、答えるオレに、友也はまた溜息を吐く。
友也はいい奴だ。
あの日病室で狂うように暴れたオレを宥め、全てを打ち明けたオレの傍にいてくれた。
オレが暴走しそうになる度にいつだって支えてくれた。
オレが何度も辛くて、全てを投げ出したくなって、失踪した時だって、必死になって探してくれた。
そしていつも、そして今日も友也は言う。
「あの子の望みは本当にお前をそんな風にする事だったのか?」
「さぁ。死んじまったからな」
その台詞を返すと、オレたちはその後必ず無言になった。
そして何も言わずに歩いた。
いつもはそのまま、後は他愛も無い話をしながら帰っていたが、この日は違った。
歩いていると、ふと一人の人物が立っているのが目に入る。
黒いジャケットに黒いパンツ。そしてオレとは絶対別世界で生きていそうな人物。
彼はオレの姿を認めると、片手を上げる。
「よう」
そして親しげに声を掛けてきた。
「…麒麟…」
オレは名を呼ぶ。
麒麟はあの日から何も変わっていなかった。
少しも年を取った様子は無く、あの日のまま。
オレの呟きに友也は目を見開き、そして麒麟を振り返る。
驚いた様子のオレと友也に気にする様子無く、麒麟はオレの元に来ると、一枚の手紙を渡した。
「久し振り?でいいんだよな。多分。あんまり時間の感覚ねーから分かんねーけど」
麒麟の言葉の意味が分からず、眉を潜めながら、オレは渡された手紙を受け取る。
そして、オレは息を飲んだ。
よく見たことのある封筒だった。
その封筒には丁寧に少し丸くなった文字で『塚田 優士様』と書かれていた。
見慣れた筆跡。
オレはばっと顔を上げ、訳も分からず麒麟を見る。
「美音から。美音が死んで十年たたら渡してくれって言われたんだ。多分十年経ってるよな?それ以上か?十年ってあっという間だから冷や冷やしたぜ。気が付いたら関わった生き物が死んでるなんてザラだからな。美音が面白いもの見れるって言うから、ずっとお前の事見てたんだ。楽しませてもらったぞ」
「何言ってんだ!お前!優士がどんな気持ちでこの十年過ごしたと思ってんだ!」
麒麟は昔と変わらず嫌味な笑顔でニヤリと笑い、それに友也は食って掛かった。
しかし麒麟は気にする事無く、掴まれた襟からあっさりと友也の手を払うと、また笑った。
「これで手紙は最後だ。まあせいぜい一生懸命生きろや。オレお前の生き方嫌いじゃなかったからな」
あまりにも冷酷な言葉を言い放つ麒麟に最早友也は動けず、オレは呆然と麒麟を見つめていた。
麒麟はそんなオレたちを見て、また笑うと踵を返し、「じゃあな」と言ってひらひらと手を振り去っていった。
「…何だあいつ!」
友也はオレの隣で腹を立てている。
オレはと言えば思考停止したままだ。
面白いものが見れる?
そう美音さんが言った?
美音さんはオレの狂う様を予測して、狂うオレを麒麟に面白いものが見れるといって手紙を渡したのか?
オレは美音さんにまた騙されていたのか?
全て最初から、あの手紙の内容でさえオレが信頼出来るように作り上げた美音さんで。
こうなるように仕組まれていたのか?
手の中にある手紙が、それその物は薄く軽いものなのに、酷く重く感じた。
「優士!そんな手紙捨てろよ!もういいだろ!その女に囚われるの止めろよ!お前はお前の人生生きていいんだ!全力も出さず、やりがいのある者を見出せなかったあの頃みたいにのらりくらりと生きろよ!それでもいいんだ!お前がお前の為に生きられるならそれだっていい!」
友也はオレの手の中の手紙を奪おうとするが、オレは渡す事は出来ず、固く握り締めた。
「優士!」
きっと違う。
手紙を交わしてオレは知っている。
あれだけ生きることを大切にしていた人が人の人生を面白いなんて言う筈が無い。
美音さんは麒麟にこの手紙を確実に渡させる為に『面白い』なんて言ったんだ。
どんな人生だってオレは自分で選んで、今、この人生を生きてるんだ。
オレは封を切ると、中に入っていた便箋を開いた。
懐かしい、少女の文字。
あの日、あの時と変わらないまま。
手紙の中の彼女の時間がそこに留められていた。
『忘れてください』