「あ…あの…」
室内を入ったときの思い空気に、母親はおずおずとマルクを見る。
「お。どうした。ボウズ」
最初に声をかけたのは真澄だった。
診察椅子を少年の前に差し出すと、座らせる。
「先生。見てやってくれ」
真澄は少年の支える腕を代わりにさせてやると、丸くに振り向き、声をかける。
「痛い!痛い!痛い!」
少年は抱えられるだけで痛みを感じるらしく、激しく泣き叫んだ。
「我慢しろ。叫んだって痛みは引かねーんだから」
声をかける真澄を見て、マルクは一度カラシャを見るが、諦めた様子で少年の元へ寄る。
「どれ。見せてごらん」
腕の可動域や傷を確認し、マルクは処置をしていく。
真澄は痛がる少年を宥めながら彼の補助をする。
カラシャはただ見つめていた。
本来いつもなら自分がマルクの隣にいて、彼を手助けしていた。
いつもジレンマを抱えながら。
カラシャは自分の手の平を見つめ、拳を握り込む。
その時、外からドォンと激しい爆音が聞こえた。
反射的に室内の全員が顔を上げる。
「近いな」
真澄が呟く。
「最近は戦闘が止んでいたのに」
マルクは唇を噛む。
そして少年の処置を手早く終えると、母親を見上げた。
「お母さん。息子さんの腕は折れています。取り敢えず固定しておいたので安静にさせてください。二、三日は炎症を起こして痛がると思いますから、その時はこの薬を飲ませてください」
そう言って棚にある数種類の錠剤の入った瓶を取り出し、袋に入れると、少年の母親に差し出した。
ドォン!!
更に先程よりも近い距離で爆音が響く。
爆発の衝撃が地響きとなってこの部屋まで伝わり、グラグラと足場が揺れた。
「きゃっ!」
「わっ!」
母親は咄嗟に息子を庇い、抱き込む。マルクはバランスを取れず、その場に引っくり返った。
「先生!」
カラシャは慌ててマルクに駆け寄り、抱き起こす。
「今のはでかかったな」
真澄は窓を開け、爆音のした方向を見る。
しかしそこからは今将に建物が崩れ灰燼が舞い上がり、煙で何も見えなくなっていた。
「もしかしたら援助に来てくれた人たちも巻き込んでるかも!」
マルクは勢いよく立ち上がると、往診用の鞄を取り出して、薬と処置道具を次々と鞄の中に詰め込んでいく。
「援助の人たちを巻き込んでまで戦うなんて…全く無関係な他の国から来てくれた人たちだっているのに」
「それだけ本格的に戦いを始めたんじゃないのか」
「そんな…」
カラシャは真澄の答えに言葉を返せなかった。
「国のお偉いさんがそう決めちまったら、オレたちには手を出せねーよ」
「今までと同じだよ。僕はただ負傷した人たちを治すだけだ」
準備の整ったマルクは重くなった鞄を肩から提げ、診療所を出ようとする。その時まだ震えて抱き合う親子を振り返り、彼らに声をかけた。
「もしよければ、まだここにいてください。ここはまだ被害にあってないから。今すぐ外に出るのも危険でしょうし」
にっこりと微笑んで、マルクは急ぎ足で外へ出て行った。
「先生!」
カラシャは慌てて後を追う。
外に出ると、爆発と建物の崩壊から逃げてくる人で道は溢れていた。
普段路地で座り込んだり、寝転んでいた人たちも爆発場所が近かった事もあり、危険を感じたのか何処にもおらず、障害物となり得る物が無い道路を人は足早に行過ぎていく。
「先生!」
左右見ても、マルクの姿は既に無い。
必死に人混みの中から探し続ける。すると、唐突に左肩を叩かれ振り返ると、真澄が立っていた。
「行くぞ!」
それだけを言うと彼女は逃げ惑う人混みの中を、流れとは逆に走っていく。
元々格闘の腕が立ち、動きが早い事を知っていたが、カラシャの目の前で真澄はまるで障害物は何も無いかのようにすいすいと先に進んでいく姿に驚いた。
「待って!」
人にぶつかりながらカラシャは懸命に真澄の後を追う。
ドォン!
空気を震わせ、大地を揺らす程の爆音が一瞬にしてカラシャの全感覚を襲う。
「!!」
許容量を超えた衝撃に、カラシャは咄嗟に全ての回路を一瞬遮断する。
すぐ再起動すると、目の前に建物が振ってきていた。
五階建ての建物の三階から上の部分が爆発で吹き飛ばされ、そっくりそのまま人が逃げ惑う道路に覆い被さるように落ちてきた。
「!?」
人間の者とは思えない、カラシャが今まで認識したことの無い悲鳴が響き渡る。
カラシャは動けなかった。
判断する情報も材料も無かった。
このまま自分の身を守る為、落下範囲から逃げるべきか。
今目の前にいる人間を一人でも救うべきか。
一瞬の内に出来なかった判断は、一瞬の内にカラシャに結果の現実を突きつけた。
建物はまさにカラシャの目の前に降り、すぐ目の前にいた人を無残に押し潰した。
潰される瞬間に聞こえた、「ぎゃっ」と肺を押し潰した様な悲鳴。
粉塵が視界を曇らせる。
数度瞬きをすると、さっきまで無かった巨大な建物の残骸がカラシャの目の前の道を塞いでいた。
周囲からは呻き声や、「助けてくれ」という力無い叫びが聞こえてくる。
カラシャはその光景をただ目に焼き付けていた。
そしてはっと我に返る。
「先生!?コールセル先生!?」
叫ぶが目の前の壁のように立ちはだかる岩が声を遮る。
「マスミさん!」
何処からも返事は返ってこない。
カラシャは人間が言う、血の気が引くとはこういうことだろうかと思いながら、宛も無くその場をうろうろ歩き始めた。
「先生!先生!先生!」
マルクは姿を見つけられなかったが、カラシャのずっと先を行っていたはずだ。
マスミは最初に出会った時、今日みたいな崩落した建物から傷一つ無く出てきたのだ。
きっと二人は大丈夫なはずだ。
そう思うのに、不安は消えない。
建物の下から呻き声が聞こえてくる。
もしかしたらまだ助けられるかもしれない。
しかしそれよりも先にまずマルクの安全を確認したい。
二つの想いがせめぎ合う。
「私は機械人形なのにどうしてこんなにも迷うの?」
そうしている間にも聞こえてる悲鳴は力を無くしていく。
カラシャは暫しその場に立ち尽くす。
そして徐に歩き出すと、声のする場所へ向かった。
建物の瓦礫の間、丁度隙間に挟まり難を逃れたのだろう青年が、カラシャの姿を認めると、「助けてくれ!」と叫ぶ。
青年は難を逃れていたが、彼の隣にいた瓦礫に足を挟まれた少女がいた。
懸命にその瓦礫を取り除こうと青年が試みるが、上に乗っている建物の破片は大きく、ぐらつくだけで足をそこから抜く事は出来ない。少女は既にぐったりとして動いていなかった。
カラシャは青年の傍まで降りると、瓦礫を持ち上げ、少し出来た隙間で青年は少女の足を抜き始める。
途端、ぐったりしていた少女が悲鳴を上げた。
「痛い!痛い!痛い!痛い!」
気が狂ったのかと思えるくらい金切り声を上げて、少女は青年にしがみ付く。
「もう少しだから!」
寧ろ青年の方が泣いてしまいそうだ。
「頑張って!」
カラシャは瓦礫を力の限り持ち上げる。
工業用や土木作業用の仕様ではないカラシャの力は人間の女性と然程変わらない。
それでも能力の限界まで力を入れる。
「ぎゃ--!」
既に悲鳴は発狂寸前だ。
青年は渾身の力を込めて抜く。
「抜けた!」
彼が叫んだと同時に、カラシャは力を抜く。すると出来た小さな隙間分を埋めるように瓦礫ががしゃんを音を鳴らし積み重なった。
少女に駆け寄ると、顔は青白くなっていたが、意識は保っていた。
「取り敢えず、上がりましょう」
カラシャが声をかけると、青年は頷き、少女を抱えて瓦礫の上に出る。
途中振り返ると、瓦礫に挟まれ既に動かない人、そして軍事用機械人形がカラシャの目に入った。
瓦礫の隙間から出ると、同じように軽傷で済んだ人間が座り込んで呆然としていたり、他の人の救助をしていたり、家族や友人が見つからないのか名を呼ぶ人たちがいた。
「おい…大丈夫か?」
青年は少女に縋りつくが、少女は動かない。
カラシャは彼の横に座り込み、少女の足元を見る。瓦礫に挟まれていた箇所が、引き抜く際に無理に力を加えた事によって皮膚が捲れ上がり、肉が抉れてしまっていた。
どう処置したらいいものか考え、近くに傷を保護するような布でもないかと見渡すが、見つかるはずも無く、自分の着ているシャツの袖を破くと、手早く少女の足首に巻きつける。
「こんなんで本当に大丈夫か!?」
「取り敢えず、痛みに耐えられなくて気絶されているんです。折れてはいないようなので傷を保護して、後はこのまま病院で消毒してください」
「誰か!こいつを手当てしてやってくれ!」
また別の場所から声が上がる。
カラシャは青年に労いの気持ちを込めて肩を叩くと立ち上がり、声の掛かる方に向かって走る。
「先生はきっと大丈夫!マスミさんも大丈夫!」
それを小さく繰り返し何度も呟きながら。
カラシャは幸い被害を受けていなかった診療所の中に戻り、まだ処置室に残っていた親子を横目に、薬や包帯を抱えると再び外に出て、処置を始める。
医師の様にとまではいかないが、応急手当だけでも出来る人がいると気付いた人間は次々と彼女の元へ怪我人を運び始めた。
「おい!こいつも見てやってくれ!…ってお前機械人形かよ!」
怪我人を運ぶ人間の中にカラシャを知っていた人間が交ざっていたらしく、彼女に気が付いた人間はそう言葉を吐き捨てる。
その言葉に他に処置を求めて集まってきた人間は一斉に彼女を見るが、しかし誰一人そこから動く事は無かった。
機械人形を恨む気持ちよりも、今まさに命の危険を感じている彼らは救って欲しいという気持ちの方が勝っていたからだ。
そうやって救いを求める一方で罵る人間も少なからずいる。
「何でお前ら機械人形なんかに助けてもらってるんだよ!こいつらがいるせいで俺たちがこんな被害にあってんだぞ!」
そう言って、徒党を組んで歩いていた数人の男たちがカラシャを見つけると、殴りかかる。
それを自分たちの、もしくは知人、家族の処置を待っていた人間たちが体を張って止めた。
「止めろ!この人形がいなかったら助けてくれる人がいなくなる!」
「そうだ!お前が助けてくれるのか!?」
その剣幕に圧された男たちは「ケッ。人形なんかに任せて、殺されても知らねーぞ!」と悪態を吐いて去っていった。
カラシャはその中で黙々と応急処置を続ける。
人間はいつも様々な感情に憤る。
それはいつもの光景。
それでも痛みを感じるはずの無い体にじくじくとした痛みがカラシャを苛む。
「コールセル先生はいないの?」
その問い掛けに、腕にガラスの刺さった少女の患部を診ていたカラシャは顔を上げると、近所の顔馴染みの女性がこちらを覗き込んでいた。
「コールセル先生は…私より先に、この先の一番最初に爆発のあった現場に向かって…見失ってしまいました」
「まさかこの道を!?」
カラシャの返答に女性は驚いて、未だ瓦礫で塞がれている道を見上げた。
「…機械人形って何よりもまず主人を守るものだと、それが出来なくても安否確認をするものだと思ってたけど」
信じられないものを見る眼差しでカラシャを見つめる女性の視線をカラシャは受け止める事が出来ず、下を見る。
確かに機械人形の初期設定の中にはそういう機能が含まれている。
例え、それが元々付いていなかったとしても、今にでもマルクの向かった先へ追いつきたい、彼が生きている事を確認したい気持ちで一杯だ。
それでも。
「もし先生がいたら、生きてるか死んでるか分からない自分を探すよりも目の前の生きている人間を助け出しなさい。と言うと思うから。先生ならきっとそうすると思ったから」
そう言って、カラシャは女性を見上げる。
「まず生きている人を助けます。もし先生が生きていらっしゃるのなら全てが終われば必ず会えるはずだから」
カラシャはそう答えると、処置を再会した。
すると、女性から声がかかる。
「ありがとう」
と。
女性を仰ぐが、その場所にはもう彼女の姿は無く、見ると他の人間を助けに歩き出していた。
ドォン!
ゴォッ!
その間にも、今、彼女のいる場所だけでなく、他方から爆音と地響きが響く。
「…何で今日はこんなにあちこちで激しく爆音がするんだ?」
一人の男性が不安げに爆音のする方を振り返る。
カラシャも今この場所がまた危険になるのではと心配になり、振り返る。
すると人が逃げていった道の向こうから、その逃げた人たちがバラバラとこちらに向かって逆送し始めていた。
「何だ?」
建物に寄りかかり、座り込んでいた男が警戒し、立ち上がる。
「逃げろ!!」
こちらまで走ってきた初老の男が声を上げる。
「奴ら無差別に発砲し始めやがった!」
「どういうことだ!?」
別の男が声を荒げる。
「相手の国の人間と、とうとう派手にドンパチ始めやがった。俺たち民間人も関係ねぇ!こっちの機械人形と向こうの国の人形が戦闘始めてやがる!すぐにここまで戦闘は広がるぞ!」
そこまで言うと、初老の男はまた逃げ出した。
それを聞いていた他の人間もそぞろに動き出す。
しかし息も浅く横たわる者、体の何処かしら負傷し動けない者は己の体を引き摺るように逃げ出そうとするが、動けず、悲鳴を上げる。
「助けてくれ!」
「まだここで死にたくない!」
「誰か!手を貸して!」
そう叫ぶ間にも、銃声音が段々と聞こえ始め、着実にこちらに向かい始めていた。
「そうだ!あんた機械人形なんだろ!あんたが止めてくれよ!」
一人の声が上がると、他の人間もその事に初めて気付いた様子で、次々と捲くし立てる。
「そうだ!そうだ!機械人形なら意思疎通もできるだろ!」
「あいつらを止めてくれ!処置なんか後でもいい!殺されたくない!」
絶叫がカラシャを攻め立てる。
彼女は己の体が震えているのに気が付いた。
「…どうして。機械人形の私がどうして震えているの?」
埋め込まれている回路の処理速度では追いつかない情報が彼女の中を駆け巡る。
「私は…」
そこから先の言葉が紡ぎ出せない。
「機械人形は死ぬ事も痛みもないだろ!」
「お前たちがいなければこんな戦いに巻き込まれずに済んだのに!」
さっきまで彼女を擁護してくれていた人たちが手の平を返す。
「機械人形は何の為にあると思ってんだ!」
何の為?
カラシャは顔を上げた。
「何の為に私はいるのでしょう?」
あまりにも静かに、そして真剣な眼差しで問い返すカラシャに罵り続けていた人たちは一様に口を閉ざした。
誰からも答えは返ってこない。
「…先生…どうして私を再起動させたのですか…」
この街の人たちはもう機械人形を必要としていない。
そんな感情を受け止めさせる為に彼は彼女を再起動させたのだろうか。
瓦礫の向こう、マルクが向かった先を見つめるが、答えは無い。
カラシャは立ち上がると、のろのろと銃声のする方へ歩き出す。
未だ動けずにいた負傷者たちは彼女の行動を黙って見ていた。
数体の機械人形が彼女の視界に入り始める。
全身黒の衣装を纏った、白兵戦対応の機械人形。それに対し、濃い緑の衣装を纏った機械人形が応戦している。
黒がこの国の人形で、緑が相手国だ。
激しい銃撃戦に互いの国の人形が一体、また一体と何処かしらを破損され、倒れていく。
建物の中から脅えた表情でその戦いを見守る人間が見えた。
その中には第三国の腕章をつけた者もいる。恐らく援助の為にこの国に入った者だろう。
命を懸ける覚悟はしていても、それでも本当に戦場に巻き込まれてしまえば、恐怖は彼らを容赦なく襲うだろう。
他国介入を望めば、もしかしたら上手く調停をしてくれるかも知れない。
そう想定して、真澄と協力し情報をネットワークから流していたのだが。
「失敗だったのでしょうか」
カラシャは呟いて、首を振る。
「私は先生がこの街に残ると言うから。――一人でもこの街の人を救いたい。そう仰るから。その望みを叶える為起動し続けている」
例え人間にどんな事をされても。どんな事を言われても。
何処に問題があるか分からない痛みを抱えても。
「私は欠陥品です。正確に情報処理も確率も計算出来ないなんて」
それでも。
コールセルはカラシャを起動した。
嬉しそうな表情をカラシャは記録している。
彼はカラシャを必要としてくれていた。
いつだって人を救うのに一生懸命で。
戦争がいつ始まるか分からないのに、この街から医者がいなくなっては困るからと残ると言い続けた。
カラシャに沢山の事を教えてくれた。
人には痛みがあること。
機械人形には無い自己治癒能力があること。
心一つで強くなること。
命を教えてくれた。
そして彼は人を愛していた。
身を粉にして自分を省みず、いつだって命と向き合っていた。
目の前でただ黙々と戦い続ける機械人形を見つめる。
戦うだけの人形には表情は必要ないから、皆無表情だ。
泣く事も、笑う事もしない。
それがカラシャと同等の存在だ。
腕がもげようが、足が吹き飛ぼうが痛みは無い。
ただ回路さえ正常に動けば、彼らは全機能停止になるまで戦い続ける。
それが彼らが作り出された目的。
指揮を取る人間は機械人形に指示を与え、彼ら一体一体に埋め込まれているカメラを通して戦況を分析する。
それが今の時代の戦いだ。
「彼らは私と同じ情報を抱えて戦っているんでしょうか」
0と1の世界。
機械人形は全ての与えられた情報は0と1に変換して、個々に与えられた学習機能に反映させていく。
「私の情報を、共有ネットワークに流しても、――彼らは戦い続けるのでしょうか」
ふとした疑問が言葉を付いて出て、そしてカラシャは目を見開いた。
同時に突然戦闘が止んだ。
「?」
建物に隠れてみていた人たちも、不思議そうに兵士たちの行動を伺う。
カラシャも兵士たちを注視する。
すると、最初に黒い装束の兵士が動き出した。
そして追うように、緑の装束の兵士が動き出す。
―――カラシャに向かって。
カラシャには彼らの行動が理解出来なかった。
どう行動する事も出来ずに、静止していたカラシャの前に黒い影が横切る。
「!」
突然の人影に、カラシャは動揺するが、人物を確認すると、安堵の息を漏らした。
「マスミさん…」
「取り敢えず逃げるぞ!」
声をかける隙も与えずに、真澄は叫ぶと、カラシャの手を取り走り出す。
人気の無い路地へと。
負傷した人たちがいる場所へ戻らずにいたことに安堵し、カラシャは真澄の後を付いていく。
最初は黙々と後を追ってきた兵士たちが、次第に発砲し始め、彼女たちを荒々しい方法で追い始めた。
「だ~れが捕まるかよ。っと」
真澄がこの街に来たのはつい最近の事のはずなのに、スイスイと時に路地から大通りを抜け家屋に堂々と入り、道無き道を通り道にして、兵士たちを引き離していく。
そしてかなりの距離を走っているはずなのに、機械人形のカラシャはともかく、息一つ切れず真澄は彼女の前を走る。
「マスミさん、いつの間にこんな道を?」
「カン」
カラシャの問いに二言で返す真澄の回答に、人間というのは凄い能力を持っているのだなと感心する。
「あ。そうだ。カラシャ、ネットワーク繋ぎっぱなしだろ。切れよ!」
「え?」
言われて初めて、カラシャは自分がネットワーク接続中のまま行動していた事に気が付いた。
「あ。――忘れていました」
そう言って彼女はネットワークを切断する。
「機械人形でも忘れることあるのな」
真澄は彼女が回線を切った事を確認してから笑った。
「接続は認識していたのですけど、行動に支障がなかったので継続していました」
「そう言うのを忘れてたって言っていいんだよ。突然バタバタと色々あったから忘れたんだろ。そのお陰で色々変化もあったけど」
「――そうなんですか。忘れてたと言っていいんですか」
人間同様の行動である事に、カラシャは何故か高揚した。
そして大事な事を一つ確認する。
「コールセル先生は無事ですか?」
すると真澄は少し曖昧な表情を見せ、答えた。
「取り敢えず無事だよ。ちょっとケガしちまったけど」
「怪我!?」
「まぁ――見てやってくれ」
真澄は申し訳なさそうに答えた。
4
通されたのは人気の無い建物の一室だった。
診療所とはそれ程離れた場所にある訳でなく、真澄と二人で走ったルートを再確認すると、兵士たちを撒く為に態と遠回りをしたのだとカラシャは気付いた。
ただ既に激しい戦闘が起こった後らしく、建物のあちこちには銃弾の跡が残り、窓は割れ、あちこちの壁は崩れ落ちており、人の気配は全く無かった。
道には壊れた兵士だった人形の成れの果てが転がっていた。
マルクはそんな場所にある無人の建物の中の一室にいた。
ベッドの上で上半身だけを起こし、真澄がドアを開けると入ってきた人物を認識するまで強張らせていた表情が笑顔に緩んだ。
そしてカラシャの姿を確認すると、ほっと安心したように眉が下がる。
「カラシャ…!良かった!無事で!」
「先生!」
カラシャは悲鳴染みた声を上げて、マルクを見る。彼は気拙そうに俯いた。
「処置をしている途中、銃撃戦をしていた兵士の流れ弾に当たってしまってね…」
「すまない。最初二人で負傷人集めて手当てしてたんだけど、ちょっと目を離した隙に撃たれて…。弾は貫通してて、処置は済んでるから安心してくれ。ただ暫く歩けないのと、直っても障害が残るかもしれない」
真澄が申し訳なさそうにマルクの言葉の後に続ける。
マルクは目を伏せると、それから視線を上げ、カラシャを見る。
「カラシャは何処も怪我をしなかった?…嫌な思いはしなかったかい?」
機械人形の兵士たちが民間人を巻き込んで堂々と交戦し始めた。それはカラシャにとっての今までより更に辛い立場に置かれるという事をマルクは知っていた。
だからこそ、心配する彼の姿に、カラシャは言葉が詰まる。
その彼女の表情で悟ったマルクは「すまない」と謝罪する。
「全ては人間が自分で起こした事で、君たちは人間の思いで作れれ、言う通りに動いてるだけなのに」
カラシャにとってはその言葉だけで十分だった。
「いつだって先生だけは私の心配をしてくれる。人間のように心配をしてくれる。ありがとうございます」
そう言うと、彼女は満面の笑みを浮かべる。
「…先生。私、もうずっと前から時々回路が誤動作するようなんです。人が私たちを作ったのにその人たちに罵られたり、人を助けられなかったりすると、あるはずが無いのに人間のような痛みの信号が流れたり、先生がそうやって笑ってくださるだけで人間の高揚感と同じような信号が流れるんです」
「…カラシャ…」
「これを辛いと言ったり、嬉しいと言ったりするのでしょうか」
戸惑いがちに見つめてくるマルクの視線を受け止め、カラシャはマルクの両手を取り、己に引きつけると抱き込むように握り締める。
「0と1の情報で出来ている私の学習機能は許容量を超える情報量にエラーを起こし始めてるんです。けど、だからこそ、この情報を得る事が出来た」
その言葉にマルクは顔を上げる。
「私、先生に再起動して頂いて良かった。先生で良かった」
笑顔でカラシャは言葉を続ける。
「先生の傍にいられたから、私は自分が、機械人形が生まれた意味を見つける事が出来た」
マルクは何も言わない。
「人間一人一人が生きやすくなる為に、私たちは存在しているんですね」
死を与えるのではなく。
他者を犠牲にして得る人間の欲望を満たすのではなく。
元々は人が生き易くなる為。
今は沢山の事が歪んでしまっているけど。
「人間の道具である私たちは、指示された通りにしか動けません。けれど初期設定に私の得た情報を追記すれば、きっと人間を殺すなんて出来なくなる。機械人形は人間が生き易くなる為の道具になれる」
「カラシャ?」
マルクは眉間に皺を寄せ、表情を曇らせる。
「…んで、どうする?この場所がバレるのもすぐだろ。長時間同じ中継ポイントから映像流しっぱなしだったせいで情報流してる大本が逆探知されちまって多分カラシャの情報からハッキングしたんだろ、カラシャが犯人だって事も、先生が関わってるって事もバレちまったみたいだしな」
「まさか先生も兵士に狙われたんですか!?」
真澄の言葉にカラシャは目を見開いた。
「凄かったぞ。銃撃戦やってた機械人形が自国他国問わず襲い掛かってくんだから」
「…カラシャの言っていた事がよく分かったよ。マスミさん、片っ端から仮にも戦闘用機械人形を倒していくんだから」
明るく笑う真澄に、マルクは何処か疲れたように苦笑する。
しかし、カラシャは動揺を隠せなかった。
「…と。早かったな。そろそろ見つかるぞ」
突然、真澄は真顔になると、窓から顔を出す。カラシャも続いて外を覗くと、自国の機械人形の兵士二、三人が近くの建物に入っていった。
同じ方法で他に幾つか出来ているチームも次々に傍にある建物に入っていっているので、まだこの建物にいるという所までは気付いていないようだ。
カラシャはじっと彼らを見つめ、そして真澄を仰ぐ。
「マスミさん。どうか先生を守ってください。よろしくお願いします」
「カラシャ?」
真澄は真剣な眼差しで見つめるカラシャを見返し、マルクは彼女に声をかけた。
カラシャはマルクを見ると、彼に近付き、そのまま抱きついた。
その体に温もりは無い。それでも柔らかい感触、彼を労わる様な包み込むような感触は彼女が経験で培ってきた力加減。
「コールセル先生。先生に会えて良かった。――私は幸せでした」
そう言うと手を放し、もう一度マルクをじっと見つめる。
「どうか生きてください」
そう言うと、カラシャは綺麗に笑った。
とても幸せそうに笑った。
まるで人間の女性のように柔らかく、慈愛に満ちた表情で。
マルクは思わずどきりと胸を鳴らし、頬を染めた。
彼女は離れると、「さよなら」と呟いて、部屋を飛び出した。
まだ兵士たちが彼女を見つけるのには時間がかかる。マルクは足を負傷しているが、見つかってもきっと真澄がマルクを守ってくれるだろう。
その確信はあった。
けれど、それだけでは彼を守る根本的な解決にはならない。
彼女は建物内を駆け周り、そして最上階に出る。
同じ背丈の建物が並ぶこの街では最上階に出ると、何も遮るものが無くなり、強い風が吹き付けた。
青い空が広がっている。
この空の下で、今も怪我をし、苦しんでいる人や、今にも殺されそうな人が沢山いる。
マルクたちは戦場と化したこの街で常に危険に曝されながら生き抜いていかなくてはならない。
ほんの数日前。
ほんの数ヶ月前までは。
街は人で溢れ、笑いあい、のびのびと生きていたのに。
機械人形も人間と共存し、人の生きる助けとして稼動していたのに。
「私には、人間の社会をどうする事も出来ない」
人間に作られたものだから。
「けど――機械人形になら私にも出来る事があるかもしれない」
また、あの日を取り戻す為に。
「コールセル先生は優しい。私が出来ることを知っていて、それでも私にはさせなかった。いつでも一人の人間のように私を心配してくれた」
人間の為に利用するのではなく。
彼女自身をまず大切にしてくれた。
だから彼女も自分が出来るかもしれない事を知っていて、言い出す事が出来なかった。
人間の為よりも、彼の想いを大切にしたかったから。
「それでもマスミさんが来てくれて良かった。――決心がついた」
マルクの安全を守る為にはそれだけじゃ守れない。
彼の生き易い環境を守り続けるには、今ある状況を根本から変えるしかない。
彼に幸せな一生を送ってもらう為には。
「良かった。私が機械人形で。私にも出来る事がある」
きっと人間だったら出来なかった。
マルクに話しても、否定されるのは分かっていた。
己の考えを初めて肯定してくれたのは真澄だった。
「コールセル先生をどうぞ守ってください」
カラシャは空を見上げ、呟いた。
そして物陰で、すぐには見つからなさそうな場所を見つけ出し、腰を下ろすと、もう一度空を仰ぐ。
「ここなら、もしまた逆探知されても見つかるまで時間稼ぎ出来るかしら」
人間の営みは変われど、いつも変わる事無くあり続ける空。
「――私はまた、この空を見上げる事があるのかな」
自嘲するように笑うと、彼女はそれきり人間的な表情を失った。
体の内側から機械部品が高速動作する音が響き始める。
「ネットワーク再接続始めます。中継ポイント六箇所ランダムアクセスし、接続継続。アクセスポイントからネットワークにダイブ。ホストコンピュータ検索開始。一、二…三……。ブロック解除。ハッキング開始…」
それ以降、彼女が動く事は無かった。