3
「兼行様。本日はどちらへ?」
背後から掛けられる声に、少年はびくりと肩を震わせる。しかし、声を掛けた者からは分からぬよう冷静さを保ちながら、悠然と振り返った。
「湖まで」
その言葉に、声を掛けた人物は溜息を落とす。
足元まで優にあるであろう黒髪に、床に着く程延びる色鮮やかな衣を幾重にも重ねた装束を身に纏った中年の女性、兼行の屋敷で上位にいる家人だった。彼女は兼行にとって特別な存在で、赤ん坊の頃は母親の代わりに乳を与えてもらった乳母と呼ばれる、彼にとって母親代わりの存在だった。
「兼行様。私は兼行様を信頼しておりますが、あまりあの者と会うのはどうかと・・・」
苦虫を潰したような表情を浮かべる乳母に兼行は笑って答えた。
「心配は無い。聡里。それにあの人を悪く思わないで欲しい。身分など、己と他人を差別する為に人間が勝手に作り出したもの。大した問題では無いのだから」
「しかし、もうすぐ元服も控えられているのです。もし悪い噂でも立ったら、兼行様自身の将来に影響してしまいます。私だってあの子を悪く言いたくありません。とても良い子だと思います。けれどももっと現実をお見つめ下さい」
「分かっている。だからこそ、今、この時だけでも何ものにも捕らわれないで、私の思うが侭生きてみたい。やがて目の前にある現実に捕らわれるのなら」
聡里と呼ばれた乳母は兼行にそう言われると、それ以上何も言うことが出来ず、話しを終えたと踵を返し、その場を去っていく少年をただ見つめることしか出来なかった。
聡明な子どもだ。
仮にも己の主の子息に使う言葉では分かっていながらも聡里は思った。
背はまだ女性である彼女の腰の位程しかなく、まだまだ赤子の頃を思い出させる顔立ちをしている。腰まである長い髪を一つに束ねて結い、水干と呼ばれる貴族の子どもの装束を身に纏った、まだまだ親の庇護を要する子どもでしかない。
しかし彼の利発さは飛び抜けていた。
聡里や他の女性の家人たち、女房と呼ばれる身分の者たちが抱える同年代の子どもたちを見ても、比べ物にならない位、思考も言動も精錬されていた。逆に大人と対等に会話が成立するだけでなく、その思慮深さは大人を勝る。
今のように言い返され、舌を巻く事も多々あるほどだ。
将来どのような大人になるのだろうか。
そう思って、聡里は嬉しいとも、展望に期待してしまうとも断言出来ない溜息を吐く。
兼行の一族は貴族として、然程高い位ではない。下手をすれば、この地を収める豪族より劣るくらいだ。
元々暮らしていた都を離れたのは、兼行の母の療養の為。しかし彼女が亡くなって数年が経った今でもこの地を離れないのは兼行の父である政行が都での官位制度を疎ましく思っているからだと言う噂も否めない。
実際、官位の低い政行はそれだけ手酷い扱いを受けていたらしく、都にいた頃はよく見目見られないような表情で帰宅した事も多々あった。
現在は通う形で、数日、数ヶ月置きに屋敷を離れ、都で職に務めている。
政行自身は朗らかで、気持ちの良い人間であり、噂の審議は定かではないが、いつもにこやかに笑顔で出仕していた。
この世では身分が全て。
どれ程聡明に生まれてきた子どもでも、成人の儀式である元服の際には、父の官位と同等もしくはそれ以下の身分を与えられる事が常である。
出世する方法は、身分の高い娘と婚姻し、己の位を相手の家と同じくらいにまで上げて貰う事くらいだ。
そう思うと、聡里は憂いずにはいられなかった。
そして、兼行の行動が、いつか彼自身の身を貶める事に為るのではないかと、乳母として、彼を育ててきた聡里は心配せずにはいられなかった。
それでも兼行の母が亡くなり、喪も明けた頃、彼と共にひょっこりと現れた娘には感謝している。
それまで母親にべったりで、甘えっ子だった兼行は、母親が亡くなった後どうなってしまうんだろうと心配していたが、取り乱す事無く、冷静に死を受け止め、憔悴する父親を支える素振りさえ見せた。
それからの成長は目覚しく、自立していった。
それは恐らく、間違いなくあの娘の影響。
素性も一切分からない娘の。
それを思うと、兼行に会うなとは強く言えないのだった。
少年はいつもと同じ時間、いつも通う場所へ向かっていた。
今よりまだ幼かった頃、深く、大きく、そのまま何処か別の世界へ連れて行かれるのではと思っていた程、世界が広く見えた頃に迷い込んだ森。
今思えば、人の足跡により踏み固められた草も生えない土の道が真っ直ぐ延びていて、近隣に暮らす人間は日常的に行き交い、迷うことなどまず滅多に無い森だった。
その森を抜けると、人々が水源を求め日常的に通う湖が目の前に広がる。
夏の日差しが湖面に反射し、初夏独特の爽やかで眩しい日差しが少年の目を焼き尽くさんとばかりに瞳の中に入り込んだ。
反射的に閉じた瞼をゆっくりと開く。
光で真っ白になった視界が段々と慣れてきて、彼の見る世界に色を取り戻させる。
ゆっくりと広がる世界に、彼がいつも通う理由が目に入った。
一人の少女。
髪は無造作に伸ばしているが、その髪質は柔らかく艶やかで、強い光を柔らかい光に変え、彼女の白い肌の輪郭をくっきりとさせる。幼さのまだまだ残るやや丸顔の顔立ち。そこにある深い色を湛える大きな瞳が彼女の愛らしさを際立たせていた。
「ゆき」
小さな薄紅色の唇が彼の名を呼ぶ。
『兼行』という彼の名を四文字も発音するのは少女にとってはしっくりこないらしく、初めは『かねゆき』と呼んでいたが、今ではすっかり『ゆき』の二音で呼ばれるようになってしまっていた。
「真澄」
それは彼が、名を持たないという彼女の為につけた名前。澄んだ瞳を持つ彼女に相応しいと、名付け親になった彼自身、これ以上似合う名は無いと自負している。
少女は嬉しそうに笑うと、彼の元へ駆け寄った。
彼女が何処から来たのか兼行は知らない。
ただ、この国の人間ではないのだろう事はその容姿から分かる。
彼女の格好は少なくとも、彼が今まで生きてきた中で見た事が無い。
薄い布を一枚身に付け、短い袴にも似つかない履物を履き、腕も方も足も大胆に露出している。足は靴も履くこともなく裸足。
それが彼女の平常の格好。
彼が知っている貴族の姫は勿論、この近隣に住む女性だってそんな格好をしない。最低でも小袖と呼ばれる腕を隠し、膝位までの長さのある一枚の着物を纏うか、そうでなければ、単という着物に袴を履くくらいはする。
最初は自分が知らない土地から来たのだから、彼女が暮らした土地ではそれが普段着なのだろうと思っていた。
それが年を重ね、世を学ぶにつれ、そうではないのだという事を知り、そう知ると改めて逆に彼が羞恥心を感じるくらいであった。けれど、彼女にとってはその格好は何事でもない事らしく何度着物を着る事を勧めてみても、彼女は断り続けていた。
「今日は川に行くって言ってたよ!」
「皆はまだ?」
兼行はぐるりと周りを見渡すが、まだ真澄の他に人の気配は無かった。
「また皆で集まってからくるんじゃない?」
「そっか」
言って、兼行は、ふとある事を思い出して、己の装束の裾を漁る。
「?」
きょとんと首を傾げる真澄の前に、一本の白い紐を垂らした。
「元結?」
「うん。後ろを向いて」
真澄が素直に後ろを向くと、兼行は彼女の髪を一房に纏め、後頭部の高い位置に元結で括る。
「できた。髪を下ろしているのも可愛いけど、真澄の髪は癖毛が多いから、くしゃくしゃに見えて、折角の綺麗な髪なのに勿体無いなと思ってたんだ。一つに括ってしまえば、髪も落ち着いて、顔の輪郭がしっかり出るからより瞳の大きさが際立つ。そちらの方がいいよ」
兼行の褒め言葉に、褒められることに慣れていないのか、真澄は頬を紅潮させると、一つ括られた己の髪に触れてみる。
「ありがとう。いっつもこの癖毛が邪魔だったんだよね。すっきりした。………かっ……可愛いかどうかは分かんないケドっ」
照れる真澄に兼行は苦笑する。
「真澄!ゆき!」
森の奥から声が掛けられる。
二人が振り返ると、七、八人の子どもたちが湖に向かって歩いてくるのが見えた。
声を掛けたのは彼らの中で一番年上の猟師の格好をした背の高い少年で、こちらに手を振っていた。
「梛木!」
真澄と兼行は彼の名を呼び、応えて手を振る。
集まってくる彼らの格好も背もバラバラ。着物一枚の者もいれば、兼行と同等とまでは行かないが上等な着物で身を包んだ者がいたり、年齢も元服前らしき年齢のものから、言葉を思えた手の最近やっと会話が成立するようになった者など、年も身分も関係なく、男女交ざった子どもたちが集っていた。
主に集まるのはこの湖の近くに住む子どもたち。彼らは気が付いたら、いつの間にか遊び仲間になっていたのだ。
「じゃあ行くよ。今日は南から風が吹いているから暖かいと思うけど、その分動物たちも活動しているから、気配を感じたらすぐ呼んでね」
中心となるのは真澄だ。
彼女はいつも自然体で、それが逆にとても子どもたちにとっては魅力的であり、憧れらしく、自然と環の中心になる。
「ゆき!この間聞いた物語の続きを教えてくれ!」
「あっ!私も知りたい!」
「真澄と一緒に歩くの!」
「だめー!私が一緒に歩くの!手を繋ぐー!」
梛木が兼行に声を掛け、それに反応して、兼行より頭一つ分背の低い少女が声を上げる。
一方で真澄は少年少女と呼ぶよりも幼い幼い子どもたちに囲まれ、わらわらと我先にと手を握られ、困惑している。
他の仲間たちも昨日の夕飯だの、畑の様子だの、小煩い親や家人の話をしている。
兼行はいつもの事ではあるのだか、その光景に思わず笑ってしまう。
「どうした?」
声を掛けてきた少年は不思議そうに首を傾げる。
「いや。本当に色んな人間が集まってるなと思って」
「ああ。まあ、確かにそうだよな。お前みたいな大貴族から、地方に暮らす貴族やら、農民やら、商人やらの娘や息子やらがごちゃごちゃいるもんな。俺に至っては猟師の息子だもんなぁ。最初なんて大貴族の兼行様なんかに何て声掛けていいか分かんなかったもんなぁ。同じ言葉通じるんかくらいに思ってたし」
「酷い偏見だよ」
「そうは言うけどお前、俺たちみたいに土の上で寝ている奴と、布団で寝て、白い飯食っている奴と話できるかっつーの。熊の一頭まともに倒せないで、偉そうな事言ってる奴と 話す口なんか持たねっつーの」
溜息を吐きながら言う梛木に兼行は苦笑する。
彼自身も本気で嫌味を言っている訳では無い。ただ口が悪く、気を許しているが故に吐く悪態だという事をお互いによく分かっていた。
「でも真澄は凄いよね。『くだらない』の一言で終わっちゃうんだもん」
少女は笑って言う。
「……かえで。そうだね。最初真澄と二人で遊んでいたはずが、一人増え、二人増えして、人数が増えれば起きてくる身分格差の反発を、たった一言で一蹴してしまうんだから」
「お前、そういう難しい言葉使うなって言ってんだろ」
「でも、ゆきの話す物語は好きよね」
「うっせぇ」
兼行は二人のやりとりに笑った。
真澄は凄い。
きっと彼女がいなければ、兼行自身も今こうして、身分も年齢も関係無く遊ぶことなんて出来なかっただろう。
彼らは真澄が兼行を『ゆき』と呼ぶから、彼らも同じ呼び名で呼ぶ。そこには確かに親愛の情を感じる。
真澄がいなければ、きっと今のような何の隔たりも無く付き合える関係を持つことなんて出来なかっただろう。
兼行の両隣で一緒に歩く友人。
小さな屋敷の中だけで暮らしていたら、きっと彼らの存在を、知識としては分かっていても、本当に一人の人として知ることは無かっただろう。
真澄は沢山の事を兼行に与えてくれる。
「本当に真澄がいてくれて良かった」
一緒に歩く二人は、兼行を挟み、互いに顔を見合わせ、笑った。
「着いたぞ」
当の話の中心人物は、そんな話をしているとは露知らず、三人を振り返ると笑う。
それが可笑しくて、三人は噴出してしまった。
「何だよ。何笑ってんだよ」
「何でもないよ。行こっ!」
かえでは真澄に駆け寄り、手を引く。
湖のある森から少し歩くと、大きな川にぶつかる。
大小の岩がごろごろ転がっている岸の間を流れる大きな川。
上流から緩やかな傾斜になっており、流れは然程勢いも無く、浅瀬が続いている。
川沿いには砂利の多い場所もあり、大きい岩に座って寛ぐ事もできる。
大人たちにとっては、湖の他にもう一つの水源と憩いの場であり、子どもたちにとっては格好の遊び場だった。
川に着いた途端、真澄たちは一斉に走り出し、川に飛び込む。
初夏を迎えたばかりとはいえ、日に日に強くなっていく日差しと、温められる生温い風に辟易していた彼らは水を得た魚のように、川の中を泳ぎ回っていた。
「真澄!あれ見たい!」
一人の少年が声を上げる。
その言葉に呼応して、他の子どもたちも一斉に「見たい!」と声を上げる。
催促された真澄を兼行が覗うと、彼女は苦笑して、視線を彼に返す。そして小さな掌を空に掲げた。
途端。
一方方向で流れていた水流が少年たちを中心にして弧を描き、元の流れと一部変化した流れの抵抗で生まれた水飛沫が飛ぶ。
そして、螺旋状に一気に空に上った水流は上空で円を描くと、瞬間、ザッと心地良い波音と共に飛散した。
太陽の光を受け、きらきらと水滴が輝き、光彩を放つ。
一斉にわぁっという歓声が上がった。
少年たちは嬉しそうにその光景を眺め、そして降ってくる擬似的な雨粒の冷たさに身を竦める。
兼行は彼らの喜ぶ姿を岸から見ていた。
真澄の異能力は彼らの中で既に当たり前の事となっており、真澄もせがまれれば惜しまず見せてやる。
彼女は自身の力を隠す事はしない。
そもそも特殊な力と思っていない。
だから自慢するように大っぴらに見せる訳でもなく、ひた隠しにもしない。
彼女に出来る事があるからする。ただそれだけの感覚で彼女は己の力を使っていた。
最初に少年たちの前で真澄が力を使って見せた時こそ、今、喜びに声を上げる彼らも戸惑いを見せていたが、彼女は「出来るんだから仕方無い」と言い放ち、彼女が他の人は持っていない能力を持っているのは当たり前の事なのだと浸透させてしまった。
どんな時もありのままの自分でいて、ありのまま受け入れられた彼女を兼行は凄いと思っていた。
「ゆきは入らないの?」
川から上がってくる真澄に、兼行は笑って首を横に振る。
「私はいいよ。ここで足を浸けるくらいが丁度いい」
そう言って、袴を捲り上げ、川の中にゆっくりと足を入れと、近くの手ごろな石に腰を下ろす。
「じじむさいなぁ」
一方の真澄は仲間たちにとってお礼なのか、礼を言う口実の元、水を頭から浴びせかけられ、全身びしょ濡れになっていた。
彼女は申し訳程度に上着の裾を絞ると、そのまま兼行の座る石の隣の石に座る。
「そう言えば、今日も聡里に小言を言われたよ」
びしょ濡れのまま放置し、自然乾燥をする事に決め込んだ真澄を見て、兼行は今朝の聡里とのやり取りを思い出す。
真澄も兼行の屋敷に行くと毎度の事彼女から小言を言われるので、すっかり慣れた様子でにやりと笑う。
「こんな淫らな格好をする娘とは会うなって?」
実際のところ、彼女がこの格好のまま彼の屋敷に訪れ、家人に紹介する時まで兼行もはっきりと気付いていなかったのだが、その時はっきりと、彼女の服装は世間にとって羞恥に値するものなのだと知ったのだ。
「そんな事言うなら、私たちと同じ装束着ればいいのに。可愛いと思うよ」
言われて少女は少し考え込むと、パチンと指を鳴らす。すると一瞬にして、彼女の衣装は衵と呼ばれる大人の女性の着物よりも丈を短くした貴族の童女が纏う装束に代わる。
春の桜を思わせる薄紅色の重ねに、紅の袴。白い真澄の肌によく似合い、愛らしさを際立たせた。
と、思ったのも一瞬の事、少女は己の姿をじっと眺めると、再度指を鳴らして、元の姿に戻った。
「駄目だ。やっぱり私には似合わないよ」
「そうかなぁ」
再確認する真澄に、兼行は勿体無いとばかりに頬を膨らます。
「だって動きにくい」
彼女らしい理由に、兼行は笑ってしまった。
「そんなに笑うかな」
「だってあまりにも真澄らしくて。確かにその通りだ。私も女性ほどではないにしろ、この姿がとても動きにくく感じるもの」
そう言って、兼行は己の衣の端を摘む。
「でも、聡里は容姿の事は何も言ってないよ。むしろいい娘だって褒めてたし。ただ私の身分もあるし、もうすぐ元服だからね。周囲の目もあるから心配してくれているんだよ」
「私はもう会わない方がいいって事?」
彼の言葉からその意図を感じ取った真澄は、あっさりとそれを問いに変える。
その彼女の率直な問い掛けに兼行は驚き、そして慌てて否定した。
「そうじゃないよ。それは出来ないよ。まだまだ真澄と一緒にいたいから」
「でも私は別にこの世界で生きて暮らしている訳じゃないし、ゆきはこの世界で生きてる。私は生きる邪魔にはなりたくない。だったら……」
「だからそうじゃないよ!」
少女が平然としたまま続ける言葉を、兼行はそれ以上聞いていられなく、やや荒々しく言葉の波を塞き止めた。
自分自身の言ったことに対して何の感情がわかないのだろうか、少女はきょとんとして少年を見上げた。
彼女には兼行と別れるかも知れないということに何の感慨も無いのだろうか。そう思うと兼行の胸に悲しみが染み出してきたが、決してそうではないはずだと思い直し、問いかける。
「人に言われたとか、この世界で生きてるからとか関係無いよ。真澄はどう思う?それは自分の中にある感情を言葉出した結果?」
「またゆきは分からない事を言う。私は自分で考えてちゃんと言ってるよ。私が今決めて、そう思ったから言ったんだもの」
「考えたんじゃなく、感じた?」
むっとして言い返した真澄は、その問い掛けに黙ってしまう。そんな彼女に、兼行は言葉を荒げ、厳しい一言を突きつけた事に気が付き、一度思考を落ち着かせると、口を開いた。
「君はとても感受性が高いと思う。人の思う事、願う事を察してしまう。そして君はある程度何でも為せる力を持っているから、その人が心から願う事を叶えてしまう」
「それはいけない事?」
「いけない事ではないよ。だって。その人の望みを、本来叶えられないはずの望みでさえ、叶えてしまうんだから。君は人の想いを察する。けれどそれは真澄自身が良しとしていること?」
「私が?良しとする?」
兼行が何を伝えたいのか分からなくなり、真澄の眉間には段単と皺が寄せられていく。その様子に気が付いた兼行は、ほうっと一つ溜息を吐くと、問い掛けの仕方を変えてみた。
「真澄は私といるとどう思う?」
「ゆきがいる。だからいる」
求めていた答えとは的外れな回答に、兼行は沈黙すると、負けじと切り出した。
「楽しい?幸せ?私と離れると悲しい?」
「兼行といるとわくわくする。どきどきって心臓が早くなる。きっと兼行がここにいなかったら私のここの辺りがぽっかり穴が空く」
真澄はそう言って、自分の胸に手を押し当てた。
そんな彼女の様子に兼行は嬉しそうに笑う。
「それが楽しい、幸せ、寂しい。感情って名前の真澄自身の想い」
真澄はきょとんとすると再度自分の胸元を見下ろし、まだ自分の胸の中にあるものが感情であることを理解出来ないのか擦ってみせた。
「私は真澄がいなくなると寂しい。悲しい。真澄がいると楽しい。だから真澄に傍にいて欲しい。それは嫌?」
兼行が自分の想いを語ると、真澄は頬を紅潮させて、ふるふると首を横に振った。
「よかった」
兼行は笑う。
「人が言ったから、人が思ったから、表情を見せたから、そのまま受け止めてどうすればよいか考えるんじゃなくて、受け止めて、その人と同じ想いにはなれないだろうけど、感じてみるといい」
兼行は胸元を押さえたままの真澄の手に己の掌を重ねて、微笑んだ。
「自分の中にも、もっと沢山の感情が溢れてくる。そうして、その人の事をもっと想ってみるといい。きっとその人の事をもっと幸せに出来る事が浮かぶ」
「望みを叶える事が幸せではないの?」
「想うことで、その人が言葉にしている事を本当にその人は望んでいるのか、心の奥にある本当の望みを理解する事が出来る。そして感情を理解出来る事で真澄自身がその人にどうしてあげたいか決めることが出来るよ。それはきっとその人にとって良い方向へ向かっていく手助けにもなれるし、よりよい素晴らしい道へ促すことも出来る」
兼行は真澄の瞳を見据え微笑むと、彼女も笑顔を返した。
「何時まで二人で話してんだよ!」
梛木が川の中から声を掛ける。
途端、つい今まで川遊びに夢中になっていたほかの仲間たちから一斉に「ずるい」と声が上がる。
「私もゆきと話をする!」「真澄と遊ぶのー!」
と、真澄と兼行両者それぞれを求める声に、二人は互いに目を見合わせ、笑ってしまう。
「分かった、今行く!」
そう言って、兼行が立ち上がろうとした瞬間、彼の手は勢いよく後ろ引かれ、座っていた岩の上に引き戻された。
強かに尻を打ちつけた、次の瞬間。
ゴォッ!
さらさらと流れていた川が、先程の真澄の見せた力とは比べ物にならないくらいの水流が竜巻のように天に上昇しながら渦を巻き、一気に川の中にいた少年たちを飲み込んだ。
声を上げる暇は無かった。
兼行は目を見張り、突然の出来事に真っ白になった思考を取り戻す前に、その突然暴れだした水流は一瞬にして霧散した。
何が起こり何が終わったのか、把握出来ず、隣を見ると、兼行の手を引いたままの真澄が、厳しい表情をして川を見つめていた。
彼女が手を引いてくれていなければ、彼も川に飲み込まれていただろう。そう思うだけで、兼行は身震いした。
そして、はっとして彼も真澄の視線を追い、川を見ると、友人たちは川に飲み込まれる前と同じ場所に、皆、呆然として立ち尽くしていた。兼行と同様、何が起こったのか分からないようだった。ただ、はたと我を取り戻し始めると、自分の身に起こった出来事に恐怖が襲ってきたのだろう、今度は次々に泣き始めた。
彼らの中で年長にあたる梛木やかえでが、慌てて泣いている年下の子たちに駆け寄り、宥め、落ち着かせる。怪我をしている様子も無い彼らの姿に、兼行はほっと胸を撫で下ろす。
何故突然川が暴れだしたのかは分からない。それでも真澄が力を使ったのだろう。兼行は真澄の咄嗟の行動にそう感じていた。
今は分析よりも先に、自分も宥め落ち着かせる梛木たちに加わろうと立ち上がり、真澄を振り返ると、彼女は未だ緊張した様子で何かを呟いていた。
「……六、七……一人足りない」
その言葉に、兼行はもう一度川を見ると、人数を数える。
その間に、真澄は躊躇無く川の中に入ると、下流に向かって走り出す。
「千代がいない!」
それと同時に周囲でも声が上がり始める。
兼行も真澄に続こうとするが、「ゆきはそこにいて!」と静止されてしまう。
彼女がそう言うのなら、自分は足手まといになるだけだと判断した兼行は梛木の元に駆け寄った。
「何なんだ。今の竜巻みたいなのは。ありえねーぞ」
「分かってる。取り敢えず、まず川から上がろう」
言って、兼行はすっかり脅えてしまった年下の子を抱き上げ、先導する。
「突然ね、水が空に上がったかと思ったら、自分の前に水の壁が出来たの……」
かえでに手を引かれたまだ幼い女の子は震えながら、懸命に自分の見た光景を彼女に訴える。
その姿を見ながら、兼行は考える。
真澄のような力が働かないと起こるはずの無い現象。自然現象ではまずありえない。水の壁を飛散させたのは真澄が咄嗟に起こした現象だ。
通常自然現象で起こらない現象という事は、人為的に起こされた可能性がある。
もし自分たちを狙って起こしたのだとしたら、もう一度起こるかもしれない。
そう判断した兼行は、足早に川から岩場へ上がろうと速度を速める。
そして、兼行の予測は当たっていた。
もうあと一歩で岩場に辿り着くというところで、再び彼らを囲むように数本の水柱が競り上がった。
すっかり脅えきった年下の仲間たちは悲鳴を上げ、泣き出す。
「何なんだ一体!」
「誰かが私たちを狙ってやっているかもしれない」
「一体誰が!?」
梛木や兼行たちと年の変わらない少年たちも立て続けに起こる異常事態に、声に苛立ちと恐怖が交ざり始める。
だが兼行にはどうすることも出来ない。
真澄のように力を持っていないのだから。
兼行は唇を噛む。
真澄はいないのだから、自分たちで何とかするしかない。
「誰ですか!?誰がこんな事しているんですか!?用件があるのなら言ってください!」
しかし、何処からも返事が返ってくる様子が無い。
「きゃあ!」
兼行の背後に隠れるようにしていた少女が、彼の腕に縋り付く様に、間を詰める。
振り返ると、彼らを囲むように天に昇る水流がじりじりと幅を詰めてきていた。
「このままだと巻き込まれるぞ!」
梛木は丸く固まる仲間たちを円の中心に入れ、自分は外側で彼らを護る壁になるように囲う。兼行も彼の行動に続き、思考を懸命に働かせた。
彼らを囲む水柱の間には、まだ小さな子くらいなら通れる透き間がある。
兼行たちはもう無理でも、この水柱の間を通れる子だけでも今ならまだ逃がしてあげる事が出来る。
しかしもし、これが誰かの力によって故意に起こされたものだったら、逃がそうとした瞬間、水柱の間が一気に狭まって、飲み込まれるかもしれない。
迷いは兼行に決断を遅らせた。
あっという間に水柱の透き間は無くなってしまった。
真澄のような力を持つ人間は普通存在しない。
けれど、どうしても目の前の事象が自然現象とは思えない。
「どうする!?このままだったら飲み込まれるぞ!」
梛木も苛立ちが限界を超え、叫びが悲鳴に変わる。
水柱が更に間を詰め、流水音が大きくなり、互いの悲鳴さえ飲み込まれる。触れれば触れた場所が切断されてしまうのでは思わせるほど激しい流れの水柱は、死の恐怖を煽る。
間は詰められ、既に逃げ場は失った。
悲鳴の中に交ざる助けを請う声。
誰もが、流水に飲み込まれる瞬間、呼んだ名前。
“真澄”