時空の守者-第三章- 命の花-真澄の章2


夜の闇に溶け、鬱蒼としていた森が広がっていた。
木々は夜風独特の冷たい風に吹かれ、ざわざわと音を立てる。
昼間の明るさと、太陽の暖かさが無いせいか、陽の光を浴び、爽快さを与える葉の擦れ合う音は、闇に落ちただけで、不気味さを与えるものに変化した。
少年はそんな森の中、一人座り込み、眼前に広がる湖を見つめていた。
夜が世界を覆う中で唯一の光である月が空に浮かび、湖面に湖を囲む森や座り込んだままの少年を映し込む。
小刻みに繰り返す漣が、きらきらと月光を反射し、それらの姿を揺らしていた。
まだ親の養護を必要とするであろう年頃の少年は、白い衣に身を包み、袴を履き、長い黒髪は後頭部高く元結で括って、肩まで流れていた。
一瞬少女のように見える緩やかな流線を描く頬から顎の輪郭はまるで上質の人形を思わせる様に綺麗な顔立ちだった。
彼は黒曜石を思わせる澄んだ深い色をした瞳からぽろぽろと涙を零す。
彼の零した大きな水滴が、湖面を跳ねた。
湖面に映る悲しみに歪んだ自身の表情を彼は見下ろすと、全てを掻き消す様に、湖の中に手を入れ、水面を揺らした。
彼がそうして冷たい水の中から手を引き抜くと、背後からかさりと音が聞こえてきた。
自分しかいないと思っていたはずの空間に他の生き物の存在を感じ、振り返ると、そこには彼と同世代くらいの少女が立っていた。
何処の娘だろう。
そう思うより前に、少年は彼女の身なりに驚いた。
肩を晒した上半身を覆う薄手の布で出来た衣装、下は太腿まで素足を露にし、極端に袴を短くしたような履物を履き、髪はぼさぼさに伸ばしたまま、素足で立っていたから。一見したらまるで物乞いのように卑しい身分としか思えない衣を纏っていた。
しかし、一概にそう思わせないのは、身に纏う衣装の生地は薄く、必要最低限ではあったが、少しも汚れが付いておらず、彼女の白くきめ細かな綺麗な肌が、月の光に照らされ、浮き立っていたから。
大きな瞳が愛らしさを印象付ける少女は、少年の姿を見止めると、不思議そうに首を傾げる。
「泣いてるの?」
少女が聞くと、少年ははっとして、彼女から顔を逸らし、頻りに涙を拭う。
すると少女は必死で泣き顔を隠そうとする少年の前に膝を突き、彼の顔を覗き込むと、拭う為に頬を擦る彼の手を静止させた。
「自然に溢れてくるものを止めちゃ駄目だよ。体がそうしたいと望んでいるんだから」
「でも恥ずかしい」
「どうして?」
「男が女の前で泣くのは恥だと父上が仰っていた」
「自分を偽る方が私は恥だと思う」
少女の言葉に少年は目を丸くし、彼女を見上げる。驚いた表情を見せる少年に少女は微笑みかけると、涙を拭う為に上げていた彼の手を下ろさせ、彼の両頬に己の掌を当てる。
頬から伝わる温もりに少年は安堵したように、涙を抑える為強張っていた表情を緩め、また涙を零し始める。
「母上はご病気なんだ。今も臥せっておられてて……間も無く死んでしまうと……」
切々と己の思いを語り始める少年を、少女は穏やかな眼差しで見つめた。
「母上が身罷られたら、私はどうすればいい………もう会えなくなってしまうなんて。もう二度と母上が笑いかけてくれなくなるなんて……私を抱き締めてくれなくなるなんて……」
声が段々と弱弱しくなり、嗚咽に変わっていく。
「母上は今どうしているの?」
嗚咽を漏らす少年の言葉に対し、少女の声は凛とし、澄んでいた。
それがまるで涙を零している少年を咎めている様にも聞こえ、少年はびくりと身体を震わすと、首をもたげる。
「……今、父上が見守っている……」
命引き取るその瞬間を迎える母の姿を見るのが辛くて、苦しくて、少年は逃げ出した。
母の息が弱くなる度に心の中で大きくなっていく不安。
それがいつか破裂してしまうのではないだろうかと考えると、その後の自分が想像出来なくなり、怖くなって彼は逃げ出した。
まるでその事を、目の前の少女は見透かしているような気がして、少年は少女の言葉に身を竦めた。
「ねぇ。母上様は今、何を願うかな?」
優しい眼差しのまま問いかけられる少女の言葉に、少年は顔を上げ、彼女を見つめる。
「もし、もう、今にもこの世界での命が絶たれようとした時に、あなたなら何を望んだかな?」
「もし私が……」
「大好きな人と結婚して、子どもが生まれて、幸せに暮らしていたその中で、明日にもその幸せな時間と別れを告げなければならない時」
「大好きな……」
「大好きな母上が今、望んでいる事は何だと思う?」
少年は息を飲んだ。
自分は母親の死が怖くて、その命が終え、自分を二度と触れることも無くなるその瞬間を見るのが怖くて、逃げ出した。
もし母親が死んでも、自分は生きたまま。悲しみは容赦なく襲い掛かるけど、明日が又来る。
では、今まで生きてきた母が望むのは。
今まで培ってきたもの、築き上げてきたもの、全てとの別れ。新しい世界へ旅立つ。その瞬間名残惜しくなるものは。
自分にもし伴侶ができ、子どもができ、その全てと別れる時、望むのは。
少年は目を見開くと立ち上がった。
父親は今、母親の最後を見守っている。別れを惜しんでいる。
自分の思いだけを見て、彼は母の気持ちを汲むことをしなかった。
母は何時だって優しかった。
優しく抱き締めてくれたし、微笑んでくれた。
沢山の温もりをくれた。
少年は少女を振り返らずに走り出そうとすると、少女は彼の手首をしっかりと握り締めた。
自分の心の為に費やした時間が惜しい。別れの時が刻一刻と迫り、憤りを感じていた少年は引き止める少女を勢いよく振り返る。
先程まで顔を歪めて、涙を零していたはずが、険しい表情を見せた少年の変化に、全てを心得ているかのように、少女は優しく微笑んだ。
「送るよ」
その言葉と共に、一瞬眩暈のようなくらりとした感覚が少年を襲うと、次の瞬間には彼の屋敷の庭にいた。
「!?」
突然の事に、動揺と驚きが少年を襲い、呆然と、瞬時に変わった風景と、記憶の中の彼の屋敷の庭を整合させるように何度も見渡す。
そこは間違いなく、彼の屋敷の庭だった。
疑問は浮かぶが、しかし今自分の身に起こった事象を質問に変えるだけの余裕は彼には無かった。
少年は今度こそ少女を振り返る事無く、彼の目的の場所へ一目散に走っていった。
母屋から北に位置する離れ。そこに向かって、部屋と部屋を繋ぐ橋、渡殿の下を潜り抜け、庭を駆ける。
部屋から庭に降りられるように備え付けられた階を一気に上る。
突然の物音に室内にいた彼の父親は険しい顔で振り返るが、少年の姿を見止めると、力無く笑みを浮かべる。
「兼行か」
父親は息子の名だけ呼ぶと、視線を外し、元々見ていたのであろう方へ移す。
少年も彼に倣うように、そちらへ視線を向けた。
布団の中で眠る女性。
病の為か頬の肉は削げ、目の下にはうっすら隈も見えた。それでも健康な時は美しかったのであろう、ふっくらとした唇、形のよい骨の輪郭が名残を残す。
閉じられていた両目がゆっくりと開かれ、目の前に立つ少年の顔を見上げると、彼女は微笑んだ。
「母上!」
その姿があまりにも痛々しくて、少年は悲鳴にも似た声を上げると、母親の前に座り込む。
その分距離の少し近くなった少年の頬に母親が手を伸ばすと、それに応えるように彼は彼女の手を握り締め、己の頬に摺り寄せた。
「……最後にこうやって兼行に触れられて良かった……」
決して苦痛を見せず、幸せそうに笑う母親を見つめ、少年は涙を零す。
何かを言葉にしなければ。
そう思うのだが、掛ける言葉の浮かばない焦れったさと、目の前で今まさに消えようとする命の儚さに切なくなるばかりで、彼は悔しくなって唇を噛んだ。
「………あら……雪……?」
母親が零す言葉に、彼は母の視線の先を追うと、涙を零す少年の背後に注がれており、彼も後ろを振り返った。
「桜だ」
父親が驚いたように声を上げた。
葉も枯れ、全て地に落ち、裸になっていた木々が、急速に芽を出し、蕾を膨らませ、花を咲かせる。そして、風に吹かれ、一斉に花弁が空に舞い散っているのだ。
まるで雪のように。
本来咲くはずの無い季節に花が咲き、早巻きで一年の木の成長過程でも見るような、幻想的で、不思議な光景に目を奪われた。
夜で明かりの無い庭は真っ暗なはずなのに、桜はまるで自身が輝きを放っているのか、闇の中でぼんやりと鮮やかに浮かび上がっていた。
「素敵ね……」
呟く母の言葉に、少年は振り返る。
母親はまるで少女の頃に戻ったかのようにあどけなく、嬉しそうに、ふふっと笑うと、庭で舞う桜の花弁を見つめる。
「……私、ずっと願っていたわ。貴方が生まれて間もない頃、父様と三人でこの庭でお花見をしたの。あの時も桜が満開で、それまで穏やかだった風に突風が吹きつけてきて、目を開いたら、花弁がまるで雪のように降っていて、その瞬間まるで別世界にいるようだった。時が止まったように感じたの。幸せな時間が永遠に続くかのように。……私はあれ以来、体調を崩してしまって、もう二度とお花見をする事も無かったけど。…………私の中で一番大切な思い出……」
母親は再び視線を室内に戻し、仰向けに体勢を戻すと、大きな息を一つ吐き、呟く。
「もう一度……もう一度だけと願っていた……。願いが叶って嬉しかった…………」
母親は本当に嬉しそうに笑みを浮かべると、静かに息を吐き、そして、今生と離別した。

庭では、彼女を悼むように、桜の花弁が舞い散っていた。


光があった。
不思議な光だった。
今まで見た、どの光とも違う。
色んな彩を持っていて、それは僅かな変化で彩を変える。
魅せられた。
触れてみたいと思った。

少女は湖面に立つ。
水面が小刻みに漣を作り続けていて、彼女の足先に触れる。
朝の陽の光が湖面にきらきらと反射する。
まだ明け切っていない空が、地上にもあるかのように、空を映す湖の底は暗く、見透かす事は出来なかった。
足元から触れる水の感触が心地良かった。
私はどうしてここにいるのだろう。
少女は思う。
私はどうしたいのだろう。
一人の少年に出会った。
彼は泣いていた。
それは少女をとても悲しくさせた。彼の頬から涙が伝う程、彼女はいてもたってもいられなくなり、彼の前に姿を現した。容姿を少年に合わせて。
少女は特定の姿を持たない。どんな姿にも変われるし、姿自体を持たないでいることも出来る。
それでも姿を持つのは、自分を相手に認識させる為に必要だったから。
個が個を認めさせるのに、一番分かりやすい方法だったから。
今回だけでは無く必要に応じて姿を持つ時には、個性が容姿に表れてくるものらしい。
何時から姿を持とうと思ったか本人も思えていないが、姿を持とうと思ったときにはこの姿だった。
肩くらいまでのボサボサに跳ねた柔らかい癖のある髪。白い肌に愛らしさを際立たせる大きな瞳。痩せているせいか、やや骨ばって見える細い身体。
一見すると、少女にも少年にも見られるが、性別を言うのなら女性だった。
平均からすると、可愛いらしいが、本人はそれに何の感慨も持った事は無い。
年齢で言うのなら、まだ成長期と言われる時期であり、子どもとも言えず、大人とも言えない位の姿をいつもしていた。
いつもなら。
ただ、今の少女の姿は幼かった。本来ならまだ満足に会話も成り立たない位の年頃であろう。
どうしてそんな中途半端な姿をとっているのだろう。
少女は自問自答し続ける。
泣いていた少年に声を掛けた。けれどそれは別にいつもと同じ姿をとっていてもいいはずだ。
しかし、それは望まなかった。
少年と同年代の姿で語りかけ、同年代と思われたかった。
どうして。
少女はまだ藍色の夜の闇を残す空を見上げた。
湖面から白い球の形をした光が浮かび上がってくる。
一つ。二つ。
そして無数に浮かび上がる。
それは朝日に溶けそうなほど仄かで、まだ完全に陽の光の進入を赦さない森の中で輝いていた。
こんな光を彼女は無数に見てきて、触れてきた。
どうして。
あんなに気になったのだろう。
少女は浮かび上がる光の球体の一つを掌に乗せ、息を吐いた。
ふと。湖畔に生き物の気配を感じて振り返る。
一瞬どきりと少女の心臓が高鳴った。
そこには、今、この時まで思っていた少年が立っていた。
走ってきたのだろう。息を切らし、肩を揺らしながら、目を丸くしてこちらを見つめている。
それもそのはず。少女はこの世界の人間には立てるはずの無い湖面に立ち、周囲には無数の光の球体が浮かんでいるのだから。それは魂のようにも見え、幻想的な灯りにも見え、この世のものとは思えない光景に少年は怯えてしまった。
しかし、それもほんの僅かばかりの時間。
少年は笑みを浮かべると、一歩、また一歩と湖面に立つ少女に近付き、水際まで歩み寄った。
「まだいてくれて良かった……」
彼は小さく呟くと、深く息を吸う。
「ありがとう」
少年は少女に己の言葉が届くように、少し声を大きくして言う。
「私は母上に会えて、もう一度笑ってもらった。――――そして、母上を幸せにしてくれた」
涙が瞳から溢れ出し、笑みを浮かべる口元が次第に緩んで、震えてくる。
相当の我慢をしていたのだろう。そして今も我慢しているのだろう。ガタガタと体が震え始めていた。
少女はその姿を見つめ、笑みを浮かべる。
少年は恐らく今の不思議な光景を目の当たりにして確信したのだろう。
桜を咲かせたのが目の前の少女であることを。
最初は予測だったに違いない。咲くはずの無い季節に、しかも異常な速さで花が咲く。そんな事が、奇跡だとしても起こるはずが無い。
そんな奇跡でも起こり得ない様なことを起こせるとしたら、少年を一瞬にして湖から彼の屋敷へ運んだ少女の力。もしかしたら彼女になら出来るかもしれない。と。
「ん」
少年の精一杯の言葉に、少女は小さく返事を返すと、湖面を歩いて、彼の前に立ち、ふわりと抱き締めた。
母親の死の間際という現実を受け止められず、一人泣いていた少年が、今は母親の為に奇跡のような事象を起こしてくれた少女に、己の悲しみを堪え、感謝を伝える。
ただ感謝を述べる為だけに、少女がいなくなってしまう前にと急いで駆けてきてくれたのだろう。
そんな彼の気丈さに少女の胸は温かくなり、そして切なくなるのを抑えて、彼を包み込んだ。
今までに無い感情。
少女は戸惑いながら、泣く事を必死で抑える少年を抱き締めた。
それをきっかけに少年は嗚咽交じりに泣き始め、少女は彼が泣き止むまで、ただずっと抱き締めていた。
そうしてじっとしていると、触れる温もりが己の中に浸透してくるようで、少女は彼を経て与えられる様々な感情を昇華しきれずにいた。
少年は一頻り泣き終えると、少女に抱きつきながら泣き続けていた自分を省みて恥ずかしくなったのか、おずおずと体を引き離し、頬をうっすら赤く染めながら笑った。
「ありがとう」
少女も照れた様にふるふると首を横に振る。
「さっきから泣いているところばかり見られて恥ずかしいけど、でもお陰ですっきりした」
「私、何もしてない。ここにいるだけ」
「ううん。それだけで十分。母上が目を閉じるまでは絶対泣かないぞと頑張っていたんだけど、一度泣いているところを見られてしまったからかな、君に逢えたら、また泣いてしまった」
「我慢するのは良くないよ?」
「うん。でも、父上だって、他の女房たちだって辛いんだ。それなのに皆我慢してる。今だって母上を黄泉の国へ送り出す為に、一生懸命堪えて支度をしている。子どもで何も出来ない私が一人、母上にもう会えない悲しさを表に出して泣いてはいけないんだ」
先程の泣き顔とは打って変わって、笑みを浮かべる少年の心情が少女には理解しきれず、首を傾げた。
「気にしないで。私がそう思って行動しているだけだから。それよりも聞いていいかな?」
首を捻り、眉間に皺を寄せたままの少女に苦笑すると、少年は改まった様子で彼女に問い掛けた。
「あの桜を咲かせたのは君だよね?」
「うん」
やや緊張気味に問いかけた少年に、少女はあっさりと応えた。
「どうして?どうやって?何故母上の大切な想い出が分かったの?」
矢継ぎ早に投げ掛けられる問いに、少女は驚いて、やや身を引いた。
その様子に、少年は自身の感情が高揚している事に気が付いて、落ち着かせるように、少女の方へ傾け過ぎだった体を起こす。それでも視線は少女から離れず、答えを求めていた。
その視線に気付いた少女は困ったように首を傾げ、そして答えを口にした。
「よく分からない」
それが率直な答えだった。
あまりにもあっさりした答えに少年は唖然とする。
「よく分からないの?」
「うん。何て言うんだろう。木が騒いでいたから。貴方の母様から何かを感じて、それに合わせたように木が騒いでいたから。私は力を貸しただけ」
少女の言葉に今度は少年が首を傾げる番だった。
「今までもよくあるから」
「よくあるの?君の力って何?どんな事でも……」
少女の言葉を噛み砕いて、己の中に浸透させるように、何度も言葉を反芻しながら問いに変える。
そして僅かな期待を言葉にしようとして、それを口にする前に止めた。
少女を見つめる少年の瞳に、ある期待が浮かぶ。
「私には死んだ人を蘇らす事は出来ないよ。私も私の力がどんなもので、どんな事が出来るのかよく分からない。こう、手を動かすという動作を何気無く人はするでしょ?それと一緒で、私は何となく感覚的にしてしまうから」
そう言って、少女は己の掌を閉じたり開いたりしながら、少年の願いが決して叶わない事を諭す。
「だから私には、命を蘇らせる事も、時を戻す事も出来ないよ。流れ過ぎ去ったものを取り戻す事は出来ない」
少女は言って、笑みを零す。
淡々と微笑を浮かべながら諭される言葉に、少年は自分がとても愚かしい人間になったようで、胸に痛みを覚えた。
流れた時は、二度と戻る事は無いのに。
母親に再び会えるかもしれないと期待した。
本来、自分や他の誰にもそれは為し得ない事。
けれど、母親の最後に奇跡を起こしてくれた彼女なら出来るかもしれないと思ってしまった。
彼女なら何でも出来ると思ってしまった。
彼女にだって出来る事、出来ない事くらいあるだろうに。
落ち込む少年の顔を見つめ、少女は問いかける。
「母様は幸せそうだった?」
その問いに、少年は顔を上げ、少女を見つめると、こくりと深く頷いた。
「なら良かった」
少女は安堵したように息を零した。
少年は、その時、彼の中で何か混沌としていたものが一つの形を成し、彼女の起こした行動について、最早批判する事も、能力について言及する事も無く、すっと納得のいく答えが出たような気がした。
そして同時に、目の前にいる、この不思議な少女に興味と好奇心、そして信頼感が生まれてきていた。
彼女は自分と異なる大きな力を持っている。けれど彼女自身は自分と何ら変わらない。
それが答えで、少年はそれが全てだと感じた。
「君は何時までここにいるの?君の家は何処?家族はいないの?」
もっと彼女と話をしたい。一緒にいたい。そう思った故の問い掛けに、少女は困ったような笑みを浮かべた。
「家は無い。私はいつも独りだから。何時までここにいるかは分からないよ。ある日何となく、私は何処かに行くから」
「一人で生きているの?」
「もう一人、私みたいなのはいるけど、滅多に会わないから、私はいつも一人。でも私は独りで生きてるんじゃなくて、独りで存在している」
「生きてるんじゃなくて、存在している?」
「うん」
少年には少女の言葉は上手く飲み込めない。しかし少女にとってはそれが当たり前のように答えていて、彼に謎掛けをしている訳ではないようだった。
上手く噛み砕けないまま、少年は問いを続けた。
「ねぇ。じゃあ君の名前は?」
「名前は無いよ」
今度こそ少年は唖然とした。
「名前……無いの?」
「うん。だって必要無いから」
「必要ないもの?」
「よく分からない。だって今まで必要無かったし、それでよかったから」
少なくとも少年の周りに、今まで名前の無い人間はいなかった。必ず名前を持っていて、その人の事をその名で呼んでいたから。
「でも名前が無いと、君の名前も呼べない」
そこに対する感慨を持たないのか、少女は何故そこまで名を持つことにこだわるのとでも言いたげにキョトンとして少年を見上げる。
少年は少し考え込みながら、やがて名案を思いついたように顔を上げた。
「だったら、私が名前をつける!」
そう言うと、目の前の少女の名に相応しい言葉の手掛かりを捜して、少年は周囲をきょろきょろと見渡した。
少女はそんな彼の様子をただ見つめる。
子どもながらに真剣に唸りながら眉間に皺を寄せて考え込む少年。
少女はその少年の行動が不思議でならなかった。
そして不思議に思いながらも、彼が次の言葉を発する事に期待する自分に彼女自身が驚いた。
どきどきと高鳴る鼓動。
待っている時間が不快で、それでいて己の名を紡ぐかもしれない彼の次の言葉に期待して、そして目の前の少年に親近感を覚え始めていた。
こんな複雑に絡まりあった己の心の中の変化に驚きを覚えた。
これは何だろう。
少女はそう自分に問いかける。一方で少年は眉間に皺を寄せていた顔を上げ、ふと、何気無く湖を見た。
瞬間、彼の心に澄んだ空気が流れ込んできたような気がした。
先程まで木々に遮られていた太陽の光が、木々の障害に負けじとその光を強め、一気に森の中に差込み、光が湖を鏡にして乱反射する。
差し込んだ光と熱に、夜の空気で冷え切っていた空気は一気にその温度を上昇させ、霧へと変化し始める。
朝靄の中で、湖は澄み切ったまま青い空を地上に映し出していた。
少年が呼吸をすると、清浄な空気が一瞬にして体内を巡り、全身を真新にし、癒してくれるような気がした。
空を映し、彼自身を映し出す湖に手を入れると、鏡のようにありのまま世界を映し出していた水面に波紋が生まれる。水を救い上げると、透明な水が指の間から流れて、還る場所へ戻っていった。
「真澄」
少年はその小さな唇からはっきりと言葉を紡いだ。そして顔を上げ、少女を見ると
もう一度、言葉に魂を込めるように告げる。
「君の名前は真澄」
「マスミ」
少女は告げられた己の名という言葉を鸚鵡返しするだけ。
「真に澄むと書いて、真澄。君そのままだ」
「真澄」
少年が少女の手を取り、そこに指で漢字をなぞる。少女は己に与えられた名を掌に受け止め、もう一度自身に浸透させるように呟いた。
「真澄」
そうする事で、先程まで複雑に絡まり重く感じていたものが一気に軽くなり、今度は彼女の心を躍らせる。
それは表にも自然と表れ、彼女は笑みを浮かべていた。