「わぁっ!」
「ソルエ様!」
空想の世界に浸っていたのだろうソルエは突然腕に来る重さに反射的に悲鳴を上げる。
そうして驚きで高鳴った心臓を押さえる、己の腕にしがみ付く子どもを見下ろした。
彼女と視線が重なると、子どもは嬉しそうににっこり笑い、声を上げる。
「また絵を描いてください!」
「え?」
「ソルエ様がまた描いてくれるのを楽しみにしているんです!皆楽しみにしていたんだから!」
子どもは掴んだ腕をぐいぐいと引っ張ると、自分が今来た道に彼女を連れて行こうとする。
「でも、今日は……」
そう言って、ソルエは真澄を見上げる。
「いいじゃん。行ってやれば」
連れがいるのに、その人を置いて子ども達と絵を描きには行けない。そう思っていたソルエの心情を理解してかどうかは表情からは読み取る事は出来ないが、真澄は笑って、子どもの意見をあっさり後押しする。
逆に子どもの方がソルエの心を理解したのか、彼女の腕を取ったまま、真澄の手を握ると、「一緒に行こうよ」と誘う。
その子の行動に、ソルエと真澄は小さく笑うと、為されるがままに手を引かれていった。
大きな通りを一本は入った所に、表通りの華やかな道とは逆に、裏道と呼ばれる質素な通りが占める・その一角が、この近辺の子どもたちの遊び場なのだろう、七、八人の子どもたちが環になって、気儘に遊んでいた。
「ソルエ様が来て下さったよ!」
ソルエの手を引いた子どもが手を上げ、存在を示すように声を上げると、その声に反応して顔を上げた子どもたちは、自分たちの所まで歩いてくるその人物を確認すると、一斉に表情を輝かせ、走り寄ってくる。
「ソルエ様だ!」
「また絵を描いて下さい!」
「私も見たい!」
あっという間に、子どもたちに囲まれたソルエは、口々に掛けられる言葉に、わたわたしながら、どうにか笑みを返す。
「でも、私、今日、絵の道具持ってきてないよ」
「はい!」
戸惑うソルエの隣で、集まってきた子どもの一人が、手に持つ絵の具を広げて見せる。
「え?どうして?」
「ソルエ様が来ない時も、ここの皆で絵を描いたりして遊んでるんだ!」
「……そうなんだ」
いつも時間を見つけては、町を当ても無くふらつく。その時仲良くなったのが目の前にいる子どもたちで、最初は一人、二人と遊んでいたはずが、いつの間にか、一つの輪が出来てしまう程、大きなグループになっていた。
きっかけは路地に咲いている花の話をしていた時だ。子どもが二人どんな花が何処に咲いていたかと言う話で、自分の見た花がどれほど綺麗だったか、どんな形をしていたか、自分と相手の見た花が実は同じものではないかと言う話に発展していき、終いには、自分の見た花の方が相手の見た花より綺麗だったと揉め始めた。それを聞いていたソルエが、何気無しに二人が見たと言う花を、話を元に地面に描いた。二人が表現する花そのものが、白い地面に咲き誇り、それを見た子どもたちは二人が見た花がそれぞれ別のものだと分かったと同時に、ソルエのその画力に引き込まれた。
子どもたちはソルエを中心に環になって座ると、興奮気味に一人の子どもが彼女にキャンパスと絵の具を渡し、彼女の手に視線が一斉に集まる。
ソルエは筆で、さらさらとまずは紙全体に大きなものを描いていく。
その様子を少し離れた所で見ていた真澄に気が付いた子どもの一人が、ソルエに尋ねる。
「ソルエ様。あの人は誰ですか?」
素朴な疑問に、絵に没頭していたソルエは、そう言えば紹介していないと、顔を上げ、真澄を見る。他の子どもたちも彼女の視線を追った。
真澄は手に持っていた紙袋の中から豆菓子を取り出すと、ぽいっと口の中に放り込んでいた。ソルエたちの視線に気が付いた彼女は、軽く笑う。
「気にしないでくれ。オレは真澄。ただの旅行者」
そう言ってまた一つ豆菓子を口に入れる。
しかし、子どもたちの視線は、彼女から離れる事は無かった。正確には、紙袋から。
それに気が付いた真澄は、己の手元の紙袋の中を確認すると、子どもたちに差し出す。
「食うか?」
真澄の問いに、ソルエが口を開き、何かを言い掛けるのと同時に、「そこの店で『買った』豆だけど」と言って、にやりとソルエを見る。
彼女が何を指摘するか分かっていて、彼女をからかうように、問いになるはずの言葉の答えを先に言ったのだ。
そんな事をされて面白いはずも無く、むっと頬を膨らますと、ソルエは周囲の視線に気が付いた。
「ソルエ様。食べてもいいのかな?」
子どもたちは一様に目を輝かせ、真澄の持つ紙袋に視線が集中する。
その視線を見て、「駄目」と言えるはずも無く、ソルエはこくりと頷いた。それを合図に、一斉に子どもたちの手が紙袋に伸びる。我先にと取ろうとする姿はさながら親鳥に餌を求める鳥の雛のよう。
「おお、すげっ。餌で動物手懐けてる気分だ」
豆菓子はあっという間に無くなり、子どもたちも満足そうに笑顔を見せると、真澄を見上げる。
「マスミは旅行でここに来たの?」
「そうだな。明日の祭りを見に来たんだ」
「じゃあ、ソルエ様の儀式を見に来たの!?」
子どもの問いにどきりとしたソルエは顔を上げると、真澄を見る。彼女にはまだ『儀式』の事を伝えていない。
「そ。ソルエ様の巫女姿を見に来たの」
『儀式』の事について掘り下げて尋ねる事無く答える真澄に、ソルエはほっとする。
「ソルエ様、絵の続きが見たいです」
いつの間にかまたソルエの隣に戻ってきた子どもは、豆菓子を口に含みながら、満面の笑みを浮かべてソルエを見上げる。
「え……あ……うん」
ソルエは一瞬の不安から引き戻されて、戸惑うと、曖昧な返事を返すが、すぐに手元にある紙に色を塗り始める。
「空は雲があって、鳥が飛んでるの。そして空は一日でどんどんその色を変える。意地悪したい時は折角の太陽を隠しちゃうし、寂しい時は涙が雨になる。でも雨は喉をからからにして待っていた草や木に水をくれる」
さらさらと紙に風景を描くと、丸い太陽を赤と紫で彩色し、緑と藍と黄色を使って太陽を覆う雲を表現する。
童話のように語られる話を聞きながら、子どもたちは実際の空を見上げ、そして紙の中の空を見下ろす。
見上げる空とも、恐らく子どもたちが想像する青い空とも、灰色の存在する空とも違う、ソルエの世界の空。
それは彼らにとっては真新しくて、新鮮なものとして映り込むのだろう。興味津々に皆が彼女の絵に見入っていた。
そうやって時間をかけて出来た絵を子どもたちは食い入るように見る。
「きれー」
「きれー!」
「ソルエ様の絵の空好きー!」
「でも本当の空の色なんてもっと青いだろ」
「こっちの方が温かそうでいいよ」
「雨がきらきら光ってる」
素直で率直に語られる感想に、ソルエは目を細める。
彼女はその姿を瞳に焼き付けるようにじっと見つめると、立ち上がり、壁に寄りかかって彼女たちを見ていた真澄の元へ歩み寄る。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
絵を見入っていた子どもたちはばっと顔を上げると、声を揃えて感謝の言葉を口にする。
「ありがとう!ソルエ様!また描いて下さいね!」
その言葉に、ソルエは驚いたように目を大きく見開き、今にも泣き出しそうなくらいに顔を歪めると、笑みに戻して、手を振った。
歩き始め、子どもたちの元を離れるソルエの後を真澄は追いかける。
後ろを付いてくる彼女にソルエは振り返った。
「可愛い子たちでしょ!」
「そうだな。煩いガキより、ああいう素直な奴らは好きだな」
「素直に可愛いって言えばいいのに」
真澄の皮肉れた回答に、ソルエは笑う。
そして二人はまた歩き始める。
「皆優しくて、皆清々しくて、温かい。だから皆に幸せになって欲しいと願うんだ」
歩きながら、ソルエは、時折、真澄を振り返り、そして前を見てまた歩き出す。
賑わっていた大きな通りから逸れ、迷路のように続く裏道を右に左にと曲がりながら、歩き続ける。
太陽の光は落ち始め、白く輝いていた太陽はゆっくりと赤褐色に色を変えていく。
路地に入り込む光は乏しく、あっという間に闇を濃くし、歩く先を暗闇に変える。
「私は巫女で、食べるのに困る事も、住むのに困る事も無く、皆に優しくされて、育てて貰ってきた。絵を描くのにだって、紙が必要、筆が必要、私に沢山の物を与えてくれた。だから優しくしてくれたこの国の人たちの為に私に出来る精一杯の事をしようと思って生きてきた」
路地の行き止まりに辿り着く。
三方向を壁で囲まれた袋小路。
彼女たちが初めて出会った場所。
ソルエの背後にある壁、その向こうから覗く空を見上げると、藍に色を返る空が、彼女たちを闇へ誘う。
闇を背に背負ったソルエは真澄を見据え、微笑む。
「私は明日消える」
穏やかな笑みを浮かべ、ソルエは告げた。
「マスミにもう一度会いたかった。本当は今日一日神殿に籠もって、祈りを捧げ、明日の大祭に備えて身の内に潜む穢れを全て落とさなきゃいけなかった」
見つめられる真澄は何も言わず、ただ語り続ける彼女を見つめる。
「でも、今日は私が私でいられる最後の日。沢山のものを見たかった。今まで優しくしてくれた街の人、私が育った街、お気に入りの店、たった一日でも目まぐるしく移り変わる風景。目に焼き付けておきたかった。だから教会を抜け出してきた」
空の色はどんどん深く闇の色を増し、昼間の太陽に温められていた温かい風から冷たい夜風に変わる。
肌で瞳で耳で感じながら、ソルエは全てを自分の中に染み込ませる様にゆっくりと深呼吸をする。
「なぁ、絵はどうするんだ?」
沈黙しソルエの話に耳を傾けていた真澄は、静かに問う。
ソルエは笑う。
「マスミ、私の絵は好き?」
「好きだ」
「それは私が巫女だから贔屓目で?」
「怒るぞ。お前。オレは思った事をそのまましか言わない」
『お前の世界好きだな』。それが素直な感想。
真澄ならきっと、ソルエが巫女であってもなくても同じ事を言うだろう。
彼女は敬う事や媚びる事、そういった欺瞞の含まれた人間関係を少しも考慮しない、超越した雰囲気を持っていた。
この人は自分自身に嘘をつかない。
「だから真澄にもう一度会いたかった」
本当に嬉しそうにソルエは笑う。
「お前は消えて、どうなるんだ?」
「私は消えて、身体という器が残り、神様が新しい姿を得る。それが子どもたちが言っていた、巫女としての儀式」
真澄は何も言わず、ただ今まで見せた事の無い険しい瞳でソルエを見据えた。
怒りをぶつけるように。
ソルエには何故そのような視線を向けられるのか理解出来なかった。
「ここは私にとって特別な場所だった」
視線を受け止め続ける事が出来なかったソルエは顔を背け、寂しげに呟く。
「人と会う度に巫女だという事を思い出させられる。紙と筆は感謝を持って使わなければならない。巫女だからこそ与えられるのだから。――そういった気持ち全て忘れて、私は私の思うまま絵を描く事が出来る場所がここだった」
もう戻れない日を懐かしむように呟くソルエを見据える真澄の眼光が変わる事は無く、鋭い眼差しが彼女を見つめ続けていた。
まるで、彼女を咎めるかのように。
5
足元を覆い隠す程長く白い布で細工された装束を纏い、上から幾重にも重ねられた透き通ったレースで身を包む少女――ソルエ。
映える黄金色の髪は結い上げられて、装束と同じ柄のレースのベールで覆っている。
彼女は膝を折り、両手を組むと、瞳を閉じて祈りを捧げていた。
どれほどの時が流れたか、やがて静かに重ねていた手を解くと、瞼を開く。
彼女が祈りを捧げるのは、神の本来の姿、そして人々の祈りを象徴とされているオブジェ。その手前にあるのは玉座の如く細かい細工の施された椅子。彼女がただ一人仕える人物は不在だった。
ソルエは眉を歪め、泣くとも笑うともいえない表情を浮かべると、口元から声が零れないよう、固く結ぶ。
両手を翳し、ステンドグラスから降り注ぐ朝の白い光の中に影を作り白い輪郭を作る己の手を見つめた。
そうして頭の中に浮かびそうになる言葉を振り払うように彼女は首を横に振った。
今日は、今日だけは雑念を浮かべてはいけない。
神に仕える巫女が最も神聖でなければならない日。
昨日の内に穢れを祓い、俗世に塗れた邪念を捨て、生まれたての赤子のように純粋でなくてはならない。
彼女は己を戒め、そして心の奥にある不安や迷い、暗い感情を拭い捨てる。
そうして彼女は個を持たず、無となるのだ。
今日が全て。今日の為に今まで生きてきたのだから。
ソルエは立ち上がり、この聖堂と、閉じられた扉の向こうにある大聖堂を繋ぎ、そしてその奥の外の世界と繋がっている大きな扉を振り返る。
外界と世界そのものと区切られ、もう自分は扉の向こうへ行く事は出来ないのだという事実を突きつけられる。
彼女は消える。
この世界から、今日、消える。
彼女の器だけがここに残り、神が宿る。
それはこの国が出来たその日から繰り返される風習。
巫女と数人の神官以外の人間が神と見える事が出来るのは、自身が生まれたその日と、大祭の時のみ。
それ以外は全て神の言葉を巫女に通して伝えられるのだ。
神はこの国で生まれた子どもを最初に抱き、名を与える。
そしてその中から選別され、一人の子どもが次の巫女として選ばれる。
それは男性の場合もあれば女性の場合もあり、選ばれた巫女はその瞬間から教会で育てられる事となる。例外は無い。
神は数年、数十年に一度器換えを行うのだ。
神が人々の目に触れ、この国の民に予言や意思を伝えるには器が必要。
父と母の存在は知らない。巫女にとっての唯一の存在は神だけだから。
巫女は選ばれたその日から、神に仕え、そして神が決めるその日に、神の器として己の身体を与え、巫女の役目を終える。
神の為に行き、神の為に消える。
それは死なのかと問えば、器はあるのだから死ではない。眠るだけだと神は答える。
器の役目を終えたその日、その巫女は死すのだ。
その為に、巫女は大切に育てられ、悲しみも苦しみも与えられず、万人に慕われて生きていく。
大切な神の器だから。
万一の事で失ったりする事の無いように。
その短い己が己である時を精一杯生きさせるかのように。
それは同情であり、哀れみであり、そして、かけがえの無い存在を敬う心。
神無くしては、この国の民は生きていけないから。
人は神に畏敬の念を抱く。
選ばれた巫女は、神に、人に感謝し生きてゆく。
――彼女は幸せに育てて貰ったのだから。
「ソルエ様、お時間です」
背後から一人の神官に声を掛けられる。
彼女が祈りを捧げる間に、神官は各々の位に見合った衣を纏い、大聖堂に集う。
二人の神官が、聖堂と大聖堂を繋ぐ唯一の扉の左右に立った。
祝豊祭。
そして大祭と呼ばれるその儀式は、この国で暮らす民の前で行われる。
この国に住む人々が神の存在を再確認し、改めて感謝の気持ちを抱く為に。
受け継がれれる、この国の存亡に関わる大切な儀式を、誰もが確認する為。
決して、神官の間だけで巫女の器換えの儀式を隠蔽し、偽装されぬよう。また民の間で可視出来る者と出来ない者の格差が生まれぬよう。
ソルエは口元を固く結び、神官たちに頷いた。
ゆっくりと立ち上がると、開かれる扉をじっと見つめた。
扉一枚隔てて聞こえていた歓声が、隔たれるものを無くすと、振動となって、聖堂に一気に流れ込み、ステンドグラスさえも震わす。
沢山の人々の笑顔が見える。
この国で生きる彼らは、大聖堂までは入る事が出来る。既にに入りきれない者たちが、大聖堂の窓から覗き込み、果ては教会の敷地と外界を隔てる門の向こうからこちらを見つめていた。
ソルエは、少し笑みを浮かべ、そして、今彼女がいた聖堂―――背後から来る圧倒的な存在感に振り返った。
大聖堂の神殿に飾られるオブジェの下、既に閉じられている奥の聖堂と繋ぐ扉の前に、霧が現れ、それが少しずつ色を濃くし、一つの形になっていく。
やがて霧は一つの人の形を成した。
厳かで威厳のある空気に、人の歓声は止み、大聖堂に溢れんばかりの人がいながら、物音一つしない静寂が耳に付く。
ソルエは目の前を歩いてくる人物をただ見つめる。
彼女とはまた違った色素の薄い黄金色の髪が揺れて、翡翠色の瞳がソルエを覗き込む。
その瞳から視線を逸らすことは出来ず、器として受け入れる今、改めて神の存在を感じた。
一つ大きな息を吸い、唇を動かす。
「ユイラ様――――」
「なぁ。本当にそれでいいのか?」
静寂の中、紡がれた言葉を打ち消すように突然響く凛とした一人の少女の声。
誰もが予測しなかった事に、一斉に問いかける声の主に視線が集中した。
袖の無いシャツに、太腿を曝け出した短いパンツ、後頭部の高い位置で無造作に髪を一つに括る少女。
少女は大聖堂と外界を繋ぐ扉の向こうから、人混みの中を抜け出し、ソルエの背後に立つ。
澄んだ瞳は真っ直ぐソルエを捉えていた。
「……マ……スミ……」
儀式を遮る事は、国の存亡さえも左右しかねない。それだけ儀式が重要であることをこの国に生きる者なら誰もが持っている。現に誰も為した事は無い。そんなこの国に生きる者には到底出来ない禁忌を真澄はあっさりと犯した。
それさえも気付いているのか、気付いていないのか、真澄は気に留めた様子無く、ただソルエの元へ一歩また一歩と近付いてくる。
その異常な光景に凍り付いていた人々の中からも、やがて、ざわめきが生まれ始める。
神官たちが慌てて真澄の元に駆け寄り、その歩みを止めようと手を伸ばすが、彼らが彼女に触れる事は出来なかった。
向けられる瞳に射られ、まるで石とでも化したかのようにその場で立ち竦む。
ソルエまであと数歩と言う所で、真澄はもう一度彼女を見据える。
「なぁ。本当にそれでいいのか?」
再度、問い掛けられる言葉。
ソルエは真っ直ぐ見つめてくる真澄の瞳をただ見つめ返した。
決して逸らさず。
唇をしっかりと結んで。
突然、激しい光が、ソルエの背後から、何の光源も無しに光が降り注ぐ。
驚いてソルエが振り返ると、そこには無表情のまま立ち、こちらを見据えるユイラ。
光は一瞬で姿を消し、ユイラは先程対峙した時から指先一つ動いていないのか無機物のようにその場に立っている。
翡翠色の瞳からは何の感情を読み取る事は出来ない。
しかし、今起こった現象は、目の前の存在以外に為し得ない。
突如発現した光と、事象の意味にソルエと同様に気が付いた者たちは、次々に慄き、悲鳴を上げる。
それが合図だったように、人々は一斉に真澄を見ると、彼女に向かって罵声を投げ付け始める。
「神の器換えの儀式に入り込んでくるとは、神の怒りに触れるぞ!」
「何ていう事をしてくれたんだ!
「何処の娘だ!さっさとこの場から去れ!」
「神を侮辱した罪!未来永劫お前を呪うぞ!」
「ソルエ様に触れるな!お前如きが触れていいお方ではない!離れろ!」
「この娘を八つ裂きにしろ!」
誰かの言い放った言葉に、その場にいた人間はまるで一つの生き物のようにざわりと蠢く。
ソルエが彼らの感情の動きを察するよりも先に、無数の腕が真澄に向かって伸びた。
神を前にして、ましてや儀式の最中に己の意思を持って動く事は、誰に制限された訳でも無いが、禁忌である事がこの国の民たちにとっていつの頃からか自然に出来た暗黙の了解で憚れた。しかし一方で、儀式を犯す異端者を神の前から排除しなければ、神の怒りに触れ、国を滅ぼす事に繋がるかもしれない。
そんな己がどちらの行動を取るべきか葛藤していた民たちの心は、『動』を命令する言葉が誰とも無く発された事で、異端の少女を排除する事がこの場での正しい行動であると決定された。
「止めて!」
ソルエが叫ぶと、人々は一斉に静止し、荒波が凪ぐように、静寂が波紋のように広がった。
人は皆、ソルエを見る。
神を恐れぬ人間と、その人間を排除する事を静止した神に仕える人間を。
神の巫女である彼女が、神を冒涜する行為を行った人間を庇う、その行為が人々には理解出来なかった。
それでいながら、それ以上言葉を発する事も、動く事も出来ぬ圧迫感が大聖堂全体を襲う。
真澄は、自分が襲われそうになったという事態にさえ動揺を見せず、飄々としたまま、ソルエを見据え、もう一度問う。
「なぁ。お前は本当にそれを望むのか?」
ソルエは己の行動に彼女自身驚き、がたがたと震え、何も言えないまま、真澄を見上げた。すると、それまで無表情で微動だにしなかったユイラが初めてふわりと動く。
ソルエを包み込むように、彼女の背後から手を回し、細く白い指で、彼女の頬を撫でる。その行動に驚いてソルエが振り返ると、ユイラは初めて笑みを浮かべた。
人形の硝子の瞳のように透き通った翡翠色の瞳と、感情を持たず表情を出すことの無い陶磁器のように白い肌のその頬に出来る彫りの深さにソルエは目を見開いた。
「あれが、穢れ。穢れは無垢なおぬしの心に良い刺激物となるだろう。しかしあれに魅かれてはならん、あれはおぬしにとって良となるものではない」
ゆっくりと諭すように、透き通った瞳の少女はソルエに語りかける。
「人をゴミのように言うなよ」
あきれた口調で言う真澄に、ユイラは顔を上げると、眼光が鋭くなる。
途端。
ピシリと音がしたかと思うと、大聖堂の外界と繋ぐ扉とその周囲にかまいたちのような空気の亀裂が一瞬にして入り、突き抜けた。
それを目の当たりにした人間、亀裂の入った柱や壁や扉の真下にいた人間は、ぱらぱらと亀裂から音を立てて崩れてくる瓦礫と、亀裂が入った事でいつ瓦解するかもしれない壁の恐怖から、悲鳴を上げ、その場から離れ、逃げていく。
それさえも大した事でも無いかのようにぼんやりと見つめながら、真澄は「あーあ」と溜息を吐く。
しかしユイラはその態度に不快を感じたのか、眉間に皺を寄せ、それでいて不審そうな眼差しで、彼女を見つめた。
傷一つついていない少女を。
その眼差しの意味に気付いているのだろう真澄は、薄い笑みを浮かべる。
「残念だったな。けど、せめてお前の信者くらいは被害が出ないようにやれよ」
確かに今、切り裂かれるはずだったのは壁ではない。確実にユイラは真澄に向かって力を放った。
それを真澄は察知し、退けたのだ。
神の力を、神ではない異端の力を用いて。
実際に何が起こっているのかこの場で正確に把握している者はいなかっただろう。ユイラと真澄以外。
ただ三人のやり取りを見つめる事しか出来なかった周囲の人間の心は恐怖で染まっていた。
自分たちより圧倒的な力を持つ存在がそこに存在している。
目の前にいるのは神なのだからと分かっていても、いつも神託を受けるだけで、その力が物質に影響する形で見た事は誰も無かった。
想像不可能な力。圧倒的な力を持った存在。
そしてその神に歯向かう者。
それは彼らの常識の中には存在しない。
自分たちとは全く異なる二つの存在。
それは何時の世でも一方では崇められ、一方で恐怖の存在にしか為り得ない。
壁が崩れ始めて直接的に我が身に危険が及ぶ為金縛りが解けた者たち以外は、その二つの存在を目の当たりにし、最早一歩も動く事が出来なかった。
それはソルエにも言えた。圧倒的な力を持つ存在に誰よりも一番近くに立つ人間。起こっている出来事を把握出来ず、ただ、無意識の内にガタガタと身体が震え始めていた。
ユイラは真澄と対峙する。
「ぬし。――――強大な力を持ちながら、それ自体はがらんどうの存在。今ここにいる必然性を感じぬ。私は認めぬ」
「別にあんたに認めて貰おうなんて思っちゃいないし、必然性を勝手に決め付けられる謂れも無い」
静かに語るユイラに、真澄はやや刺々しく言い返す。
「私は神であり、この国、この土地に生きるものを慈しむ。そなたは対象外だ。虚ろな木偶人形は祝福には値しない」
「だからあんたに祝福されるつもりなんてこれっぽっちもない。オレが用があるのは、ソルエだけだ」
名を呼ばれたソルエは驚いたように顔を上げる。
彼女には二人の会話の内容が見えない。突然大聖堂の壁に亀裂が入り、崩れる壁に逃げ惑う人々で騒然としている事や、彼女同様に決して穏やかではない空気で言葉を交わす真澄とユイラに圧倒され、硬直し、ただ固唾を呑んで見守ることしか出来ない神官や民たちの行動の方が余程明確で、理解出来た。
そこで突然己の名を呼ばれ、ソルエはその会話の何処に自身が関わってくるのか混乱していた。
視線を上げ、真澄を見ると、彼女は先程から変わらない眼差しでじっとソルエを見据える。
「いいのか?お前は。本当に。お前がお前じゃなくなる事に納得しているのか?」
再度、そして繰り返し問われる無いように、ソルエは唇を噛む。
「だったらどうしてずっとそんな顔してるんだよ。唇を噛んで、悲観した顔してるんだよ、今だって、この間だって!」
「―――――……たい。描きたい!描きたい!描たい!」