■想う、時・76■
近藤の問いに驚いたのはセイ。
セイの問い返しに驚いたのは、近藤以外だった。
何を問い、何と返答した?
総司と土方が目を見張る中で、セイはあまりの驚きに強張った体が金縛りから解放されるとその場に平伏する。
「どうぞ宜しくお願いします」
彼女の心そのままに真っ直ぐな凛とした声が響く。
その言葉を聞けて、近藤はほっと胸を撫で下ろした。思わず笑みが浮かんでしまう。
「よかった…その言葉が聞けて」
顔を上げたセイも嬉しそうに笑った。
「…どういう事ですかっ!」
言葉少なに成立したやり取りに、付いていけなかった総司は動揺交じりにセイに詰め寄った。
思わず助けを求めるようにセイは近藤を見るが、彼は苦笑する。
それがまた総司の焦燥を高めた。
「朝稽古は終了だ。私たちは生徒たちが来るまでに朝食を取ってくる。二人できちんと話しなさい」
近藤はゆっくりと立ち上がると、動揺しながらも総司が先に動き出してしまった為に動けずにいた土方を促すように彼を連れ出していった。
土方も頻りにセイを振り返ってその眼差しが彼女の真意を求めていたが、近藤に二、三事言葉をかけられると渋々と席を外した。
残されたセイは困ったように眉を寄せ、暗い眼差しでこちらを見据える総司に向き直った。
「沖田先生」
「…貴女はいなくなるつもりだったんですか。私の前から」
「先生…っ!」
セイは突然腕を掴まれたかと思ったら総司の腕の中に引き寄せられており、噛み付くような口付けをされた。
まるで彼の心の痛みをそのまま彼女に与えるかのように。
「私には貴女だけなんです。どんな貴女だって受け入れる。どんな貴女だって愛します…」
背に回された手はそのままセイの体を締め付け、総司の固い胸に押し付けられる。
「前世の記憶を持っている私を知っている人に、何度も言われたし、私自身何度も考えたんです。貴女がいない今生も、貴女が私を望まない生も」
セイを知らない人たちに言われても、セイを知る人たちに言われても、セイ自身の口から告げられたものでなければそれはまだ可能性の内だと排除する事が出来た。しかしセイと再会し、今世のセイを知り、そして再び恋をして、過去には出来なかったが深く触れ合う事も出来た。
彼女を形作るもの全てを知ってしまえば、もう、離れるという選択肢は無い。
傍にいる事よりも、離れている方が、互いに幸せになれる。そんな可能性は、もう、無い。
それはもう、総司の存在意義をこの世から無くしてしまう。
出会ってしまえば落ち着くかと思っていた欲望は、出会う事で更に大きく膨れ上がってくる。
最初から離れる事を望んでいるのだったら、再会自体を望んで欲しくなかった。
そうしたら総司はいつまでも己の願いを希望に抱いていられる。
しかしそうした自分勝手な想いを、今を生きるセイにぶつける事は出来ない。その位の冷静さと理性は持っていた。
長い間過去の記憶を抱いていた故に。
だから、言葉には出来ずに、総司はセイを強く抱き締めるしか出来なかった。
セイにこれから告げられる言葉に怯え、慟哭に落ち震える体に彼女はゆっくりと手を伸ばし、きゅっと抱き締め返す。
「…本当はそう思っていました。皆に再会できたら、再会出来なくても、自分自身の気持ちに区切りをつける為に私はここに来ました」
びくりと震える大きな身体が、無性に愛しくなってセイは細い己の腕で宥めるように一生懸命力を入れて抱き締める。
「私は今を生きてる。過去の記憶を持っていたとしても、それは過去の事です」
総司自身何度も自分に言い聞かせて、周りに言い続けられた言葉は、セイの口から告げられる事で感覚が麻痺するのでは無いかというほど強い痛みを与える。
「私は沖田先生を…ずっと好きでした。けれど、好きと思っていた気持ちも過去のもの。過去の富永セイの気持ちで神谷清三郎の気持ち。今の私が先生を好きになるかは分からないし、過去の気持ちが蘇って今の私が沖田先生を好きだと勘違いするのは過去の私に対しても、沖田先生にも失礼です」
「…私の事は好きじゃないんですか?」
声を震わし、恐る恐る問う総司に、セイは腕の中で首を振る。
「私は沖田先生が好きです」
そう真っ直ぐに答えると、総司の腕の力がきゅっと強くなる。
「…言ってくれた人がいるんです。会ってみれば分かるって。私の気持ちが過去の気持ちなのか、今もまた先生を好きになるのか。過去の思い出はきっかけなのか、それとももう要らないものなのか。もし、縁があって会えたのなら、もう一度傍にいたいと望むのか、離れる事を望むのか。まずは動いてみてそれから決めなさい。それが貴女らしいって」
セイの視線が上がり、総司は強く抱き締めていた腕を少し緩め、彼女を見下ろした。
「私は、富永セイは沖田先生の事が好きです。傍にいたいです」
総司は胸の痛みを感じるままに、もう一度愛しさに任せて彼女に唇を落とした。
過去何度も自問自答し続けた苦しみは、自分だけでは無かった。
ただ、総司には今世では離別する可能性がある。その事だけはどうしても選択肢に入れたくなくて、それすら思考したくなくて、生まれて直ぐに思い出していたくせに逃げていた決断を、彼女はきちんと自分と向き合い、選択肢に入れていたのだ。
ただそれだけの事。
「…やっぱり神谷さんには叶わないなぁ」
強い。
女子は強い。
そして、セイは強い。
「沖田先生が…今の私を引き止めたんですよ」
「よかった…」
彼女が己の傍にいる事を望んでくれて。
総司自身には自分の起こした行動の何がきっかけかは分からない。
それでも、懸命に、彼女の傍にいる事を望んで行動して、気持ちを見せてよかった。
「よかった…良かった…」
一つ間違えれば、今の自分自身でなければセイは別れを決断したかも知れない。
過去を清算したと、もう二度と自分たちと会うつもりも無かったかもしれない。
想像しただけでぞっとした。
「…よかった…」
近藤はいつそれに気付いていたのか。それは分からないが…、彼が問わなければ黙って彼女は今日ここを去り、そして二度と会わなくなったかもしれない。
「…良かった…」
セイの耳元で心の底から安堵する吐息と共に漏れ出す呟きは、彼女の芯から震わせ、総司に心配をかけたという懺悔よりも、どれだけ彼に思われているのかが浸透し、幸福感を与えた。
瞼裏に浮かぶ、過去の彼女自身が微笑んでいる。
総司は再会してからずっと、セイの心を救い続けてくれる。
今もまた。一つ、己の中の慟哭の欠片が埋められた気がした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■想う、時・77■
「…よかった…」
そう囁き総司はひとつセイに唇を落とす。
一つ、また一つと落とす度に、セイの中の空白だった欠片が埋められていく。
総司もそうする事で同じ気持ちなのだろうか、段々と強張っていた腕の力が少しだけ弱まる。
唇が重なる度に、総司の濡れた頬がセイの頬に触れる。
セイは驚いて目を開いたが、総司の想いの形に触れ、胸が熱くなるのを感じたまま目を閉じた。
最初は口付けをされる度にびくりと震えていたが、段々と総司の心音と重なり、ほっと安心したような吐息と共に彼を受け入れ始めた。
「…セイ…」
名を呼ぶのはずるいと思う。
普段は『神谷さん』と呼ぶくせに、肝心な時にはきちんとセイ自身の名を呼ぶ。
涙が零れる程嬉しくて熱が上がる。
総司の熱も上がっている気がして、彼の熱がまた伝播してセイの内から熱を上げる。
男性不信だった昨日までの自分は何処へ行ったとセイの理性が今のセイを叱咤する。
一度総司の愛情を一身に受け、身も心も満たされた本能は再び彼を求め始め、熱を上げていくが、焦燥感と羞恥心がセイを留めた。
「…沖田…先生……ここ、道場…」
「……っ…はい…」
返事はするがセイを求める総司の腕は柔らかな彼女の背を愛しそうに優しく撫でる。
「っ!」
思わず声を上げそうになる自分をセイは必死で留めた。
ここでこれ以上湧き上がる熱を抑えなくては、二人とも止まれなくなる。
しかし二人とも今までにない経験の為に、止まる術を知らず、暴走する感情に翻弄され続ける。
「おはようございます!」
突然大きな声が道場内に響いた。
声の主を確認する為に総司とセイが振り返ると、開け放たれた 雨戸の向こうに少女の姿があった。
昨日、総司に指導を願い出ていた少女だ。
総司とセイ、二人は互いに抱き合ったままだった事に気付き慌てて、離れる。お陰で互いに翻弄されるままだった熱も一気に冷めてくれた。
「お、おはようございます。早いですね」
総司は何事も無かったように少女に笑みを浮かべる。
「はい。今日の稽古の前に一人で自主練しようと思って」
「そうですか」
そう言うと、少女は少し目を伏せ、そしてまた顔を上げると総司を真っ直ぐ見上げる。
「沖田先生。お付き合いお願いできませんか?」
「いいですよ」
考える様子も無く答える総司に、少女は頬を染め嬉しそうに「ありがとうございます!」と頭を下げる。
「ただ申し訳無いですけど、私も神谷さんも朝御飯がまだなんです。食べてからでも良いですか?」
「あ。すみません!」
「いいんですよ。いつも頑張ってくれてますし、私も貴女と稽古すると楽しいんですよ」
総司の事を配慮せず稽古を申し出た事に顔色を青くした少女だったが、直ぐに総司の言葉を受け、また嬉しそうに笑った。
隣にいるセイから見ても表情がくるくるとよく変わる可愛らしい少女だ。そして真っ直ぐで素直な心がそのまま彼女のもつ空気から滲み出ている。
またセイの中で浮かぶ既視感。
前世の神谷清三郎と沖田総司が重なる。
総司の事が大好きで、少しでも傍にいたくて、その為に努力を惜しまない、そんな過去のセイ自身と。
少しも想われている事に気付かず、優しい言葉をかけてくれる変わらない総司の姿。
先程抱き合う姿を見られてしまったが、何を思っただろうか。
総司に抱き締められていたのはセイのはずなのに、彼を想う目の前の少女を思うと胸がちくりと痛くなる。
「神谷さん行きましょう?」
総司と少女のやりとりをただ見つめていたセイは自分に声がかかるとびくりと肩を震わせて、道場を出る総司に続いた。
「あの…そちらの方も今日の稽古に出られるんですか?」
二人が出て行くのを目で追っていた少女のそんな問いかけに、総司とセイは振り返った。
「いえ、私は…」
まさか自分の事で声をかけられると思っていなかったセイは目を丸くして、それから首を横に振る。
「道着を着ていらっしゃるという事は剣道されているんですよね?…もし、もし良ければ手合わせをお願いできませんか!?」
「私はここの門下生じゃないし…」
困って総司を見ると、彼も目を輝かせてセイを見つめていた。
「いいじゃないですか!神谷さん!この子ここの女性の門下生の中でかなり腕の立つ子なんですけど、中々同性で対等に打ち合える子がいなくて。いい勉強になると思うんですよね!」
少女を見ると何処か覚悟を決めたようにセイを見つめている。
その視線を見ればもう嫌でも確信する。
彼女は総司が好きだ。憧れでも尊敬でもない異性として。
そして恋しい相手と抱き合っていたセイの事を量りたくて堪らない。
けれど一方で――。
「えっ!?…か、みやさん!?はそんなにお強いんですか!?」
恋敵として見据えていた視線が一気に輝き始める。
「あ、神谷さんて私は呼んでるけど本当は富永セイさんですよ!貴女は富永さんって呼んでくださいね!神谷さんは強いんですよ!私も油断したら直ぐに一本取られちゃいますからね!」
嬉しそうに釘を刺しながらも少女に語る総司。
瞳を輝かせた視線が両者から注がれる。
恋敵を見据える緊迫感は何処へやら。
剣術馬鹿が二人。
再び襲う既視感。
純粋なその視線に真正面から断れるほどの…勇気はセイには無かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■想う、時・78■
セイは何処か俯瞰的な感覚で自分の置かれている状況を確認していた。
目の前に置かれているのは、近藤の妻が作ってくれた温かい朝御飯。
寝過ごし、起き抜けにそのまま道場へ朝稽古に向かってしまったセイは手伝う事が出来ずにお詫びと感謝をしながらも手をつける。
土方に朝食を食べながらつらつらと嫌味を言われ、近藤がにこにことそれを聞き、隣で総司が「早くご飯食べて手合わせしましょう!」と勢い良くご飯を掻き込んている。
そんな状況に居辛い、と思いつつも、今日、家に帰るんだな。と思うと、何処か寂しく感じる。
味噌汁を啜ると汁の温かさがセイの気持ちも温めてくれる。
セイは家に戻れば一人暮らしだ。
こうやって仲間や家族と食卓を囲む機会はぐっと減っている。
だからこそここ数日の近藤たちと食卓を囲む食事は美味しかったし、楽しかった。
そして、前世を思い出しては懐かしかった。
それも暫くはまた彼らとこうして過ごす事は無くなる。
もう一度顔を上げ、近藤、土方、総司、そして、近藤の家族の顔を見つめる。
ここにまた戻って来ることは決めた。
彼らと繋いだ縁をそのまま繋いでいく事は決めた。
「どうしました?神谷さん。手が進んでませんよ?早く食べないと。あ、でも腹八分目ですからね。これからまた体を動かすんですから鈍るほど食べちゃいけませんよ」
セイが『離れない』と言葉に出す事で安心したのか、総司はにこにこと彼女に笑みを見せる。
彼の傍にいる決めた。
けれどそれは現実問題として、今すぐどうこうする事ではない。
セイにも今まで積み重ねてきた生活があるし、学校だって、目標だってある。
一つ選択肢が目の前に現れて、決断すれば、また新たな選択肢が現れる。
けれど、その選択肢は決して悪いものではない。
だからひとつひとつ決めていく。
その為に、一度、自分の今いる場所へ帰るのだ。
「…おいし」
「そうだろう!家の奥さんの味噌汁は絶品だからな!沢山飲んでいきなさい!」
屈託の無い笑顔で近藤は嬉しそうに笑う。
「はい!」
食事を終え、道場に戻ると、少女は一人練習を始めており、セイたちが戻ってくるのを見ると、すぐさま駆け寄ってきた。
「宜しくお願いします」
深々と頭を下げ、促されるまま少女と対峙する。
「はい。宜しくお願いします」
セイは朝練とは異なり、今度はきちんと防具と面をつけた上で竹刀を握る。香る汗の臭いに懐かしさを感じてしまう己に苦笑した。
今世になってセイは初めてつけた防具だが、その形は今も昔も変わらない。手馴れた仕草で身につけていく彼女に、総司や近藤たちから、ほぅと安堵の溜息が零れる。
紐を結び、立ち上がるセイに、総司が後ろから回ってきて、念の為にと防具がしっかり固定されているか確認する。
「よしっ。流石神谷さん。ちゃんと覚えてましたね」
ぽんと叩かれる背中に、ほっとするのと同時に、昔の感覚が蘇ってきて気合が入る。
少女と対峙すると、彼女は真っ直ぐセイを見据えていた。
その表情は――覚悟を決めたもの。
やはりいつかの自分の姿と重なり、セイはまたちくりと痛む胸に己の行動を委ねる事にした。
「では、審判は私がやりますね」
少女と、彼女に対峙するセイの心の機微に少しも気付いた様子の無い総司はにこにこと宣言すると、すっと目を細めた。
「はじめ!」
パァン!
「っ!」
総司は息を飲む。
勝負は一瞬でついた。
対峙する二人を見守っていた近藤と土方も目を見開いている。
「っ一本!」
総司が飲んだ息をそのまま吐き出して叫び、セイを指し示す側の腕を上げた。
「っ!」
セイに対峙する少女は面の中で目を見開いたまま息を止めている。
彼女には何が起こったのか理解できなかったからだ。ただ残るのは面の前頭部の痺れのみ。
その痺れが己に対して真正面から竹刀を打ち込まれて、既に勝負がついたのだという事を示している事に、遅れて思考が自覚した。
「ありがとうございました」
少女が勝負がついたと自覚した時には、既にセイは竹刀を納め、ただ静かに一礼をしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■想う、時・79■
セイが顔を上げ、周囲を見回すと誰もが唖然とした表情でこちらを見ている。その事に彼女は一つ息を吐いた。
「申し訳ありませんが、貴方は私に真剣勝負を申し込まれたんですよね?」
はっと意識を目の前のセイに戻した少女は大きく振るえ、そして「はい」と答えた。
その言葉に、総司たちもはっとした表情を見せ、そして、最初に声を発したのは土方だった。
「お前は…容赦ねぇな。というかさっきの俺と対峙した時より更に早くなってないか?」
セイの行動の理由にいち早く察して苦笑をしながらも、己の時は手を抜いたのかと詰める土方に、セイはこてりと首を傾げる。
「副長との稽古で筋肉が解れただけですよ」
「この野郎」
「大丈夫ですか?」
土方とセイが会話をする隣で、総司が少女に駆け寄った。
少女はセイと向き合って構えた時の姿勢のまま未だ動けずにいたのだ。
はっと顔を上げ、少女は総司を見るとこくりと頷く。そしてセイを見上げると、やや戸惑う様子を見せながらも、もう一度真っ直ぐ見据えた。
まず刀を納めて深く一礼をする。そして、もう一度顔を上げると、ぎゅっと己の腕を掴み、そしてセイに願った。
「もう一度お手合わせ願いませんか?」
セイはその姿を目を細めて見つめる。
少女はセイの視線の意味に気付いていた。
「――ご指導をお願い致します」
彼女の声は震えていた。
セイは先程手合わせを願われた瞬間気付いてしまった。
彼女は剣を学ぶ者として、この道場の指導者と親しげな女性ももし剣が使えるのであれば手合わせをしたいと願っているのと同時に、総司に恋愛感情を抱く者同士、恋敵として、セイに稽古と称して戦いを挑んだのだ。
恐らく少女は己の剣に自信を持っていた。朝食前に総司が言っていた通り男性剣士にも引けを取らないのだろう。
それを、セイは少女の初手を受ける事も無く、あっさりと一本をとって見せた。恐らく矜持はズタズタだろう。
だからと言って、勝負に総司をかけているのが分かっているのに、セイが手を抜く理由はない。
指導で求めるのであれば別だが。
「はい」
ひとつ小さな息を吐くと、セイはにこりと笑って答えた。
隣でやり取りを見ていた土方が笑いを堪えている。
「今時一人の男を懸けて女が剣を交えるって…ないぞ…っくく」
小声で笑っている土方の声にぴくりとセイの耳が動く。
「副長…後でまたお手合わせ頂けますか?」
「おう、返り討ちにしてやるよ。総司は懸けないけどな」
にっこりと微笑を向けるセイに土方がにやりと笑って返す。余計な一言付きで。
「ずるいですよぅ!私が先です!土方さんに神谷さんはあげませんよ!」
二人の視線が交差する間を割るように総司はセイに背を向けて土方の前に立ち、手を広げる。
今のやり取りに何があったのかも、少女の想いにも全く気付いていないのか、今も昔も変わらず野暮天な彼の行動に、セイと土方は溜息を吐く。
「いらねーよ。お前も神谷もいたって煩せぇだけだ」
「ひっどーい!私はこんなに土方さんが大好きなのにっ!」
「取り敢えず手合わせをするならさっさとしないと他の者が来てしまうぞ」
近藤は全く水面下で起こっている心理合戦に気づく様子無く、「仲が良いなぁ」と言わんばかりの笑顔でにこにこと大らかにセイたちを諌めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■想う、時・80■
結局朝の稽古の時間まで入れ変わり打ち合っていたセイは、集まってきた門下生たちに捕まり、そのまま指導に交ざる事になってしまった。
大人数で一斉に始まる稽古。
準備体操から始まり、軽く打ち込みの型の確認練習、そこから実践練習に変わっていく。
その道場の空気、独特の緊張感、匂いが、セイに過去の片鱗を魅せる。
打ち合う竹刀の音。
道場に響く気合の声。息遣い。
床を叩きつける足音と軋む床板。
上がる熱気を冷ますように吹き込んでくる春の冷たい風。
いつかの光景に重なって、それがセイには眩しくて、目を細めてしまう。
もう二度と戻る事の無いあの日の時間、もう二度と同じ様には過ごせないあの時の仲間たちとの日々。
それは函館で生き延びてから幾度と無く渇望した瞬間。
あの頃と人も場所も時代も違えど、否、違うからこそ生まれてくる、また己の目の前にあるという悲哀と歓喜。
セイは無意識の内にきゅっと唇を噛み締めていた。
固まってしまう身体を宥める様に、ふっと肩に優しく手が添えられる。
振り返ると斎藤が後ろに立っていた。
「斎藤先生?」
「大丈夫だ。この光景もまた確かにアンタの目の前にある現実だ。消えることはないさ」
まるで新選組に所属していた期間が一瞬だったかのように、その後の怒涛の時代を生き延びた。
新選組にいた時間が本当に大切だったからこそ、閃光のように過ぎ去ってしまったあのセイにとって夢も希望もあった愛しい日々が再び目の前にある事に喜び、そしてまた消えるのではないかという恐怖が彼女を襲う。
それはきっと、誰しもが少なからず抱いていて、幾つもの戦乱を超えてきた者ほど強く襲われる感情。
その事を察知した斎藤はセイの言い知れぬ焦燥感を宥めてくれた。
彼の言葉に無意識に強張っていた体から力を抜くと、セイは彼の容姿に首を傾げる。
彼はこの道場の門下生では無いと言っていたはずだ。それなのに今の彼は道着に身を包んでいる。
「…どうして」
「アンタがここに帰ってきてくれると言ってくれたからさな」
「え?」
「局長…近藤さんから聞いた。昨日の事もあって俺も不安だったんだ。今日帰ればもうここには来ないのでは無いかと…」
それは昨日、斎藤がセイの剣術の能力を本人が渋っている様子だったのに無理やりに引き出した事を言っているのだろう。と、セイは気付いた。
「いえ…それは、私自身も色々と反省する点があったんです。過去の自分だからと皆から距離を取ろうとして。けど、斎藤先生があそこで本気の手合わせを求めて下さらなければきっときっかけを失ってました。沖田先生や局長、副長と別れた後の事を、態々伝える必要など無いと。知られるのが怖かっただけなのに皆は知る必要がないと…長く生きた人間の傲慢さで」
「それは――俺にも身に覚えがある感情だ」
いつか総司に突きつけた言葉が、斎藤の中で痛みを伴って己に返ってくる。
「そうなんですか?」
驚いたように見上げてくるセイに、斎藤はおどけて答えてみせる。
「そうさ。俺だって神や仏ではないからな。正しい事ばかりして生きてはいないさ」
「そう…ですよね…」
「アンタが、俺に無理やり知られたくなかった過去を引き出されて、それでも、尚、あの人たちと関わっていくと決めたから。俺も前を向いて今を生きようかと思ってな」
セイはただ斎藤を見上げ、首を傾げる。
「アンタ同様、俺も新選組を離れた後もあの時代をそれなりに生きてきた。だからこそ、今世で真っ直ぐ剣術と向き合う事が出来なかった。――そろそろこの光景を再び己の居場所にしても良いだろうか。と己自身を許せる気がしてな」
そう言って斎藤は、目の前で行われている実践稽古を過去の日々を重ねるように目を細めて呟いた。
「――そうですね」
セイはそう呟いて、静かに目を閉じる。
斎藤の想いが深く彼女の中で響いたからだ。
「『生きてくれてありがとう』」
「?」
セイの言葉に、斎藤は片眉をぴくりと動かす。
「そう。沖田先生が言ってくださったら。――私は、ここにいよう。――ここに帰ってこよう。と決めたんです」
「そうか…」
そう言って、斎藤は指導をしている総司を見つめる。
「沖田さんが好きか?」
「はい」
はっきりとしたセイの返答に、斎藤はゆっくりと彼女を振り返る。
「それは…」
何処か口篭りながら問いかけようとする斎藤の言葉を遮り、セイはっきりと答える。
「富永セイは、沖田総司さんを好きです」
真っ直ぐ凛とした眼差しで、セイは斎藤に真正面から笑みを浮かべた。
その瞳は過去何度も向けられた瞳で、それでいて、光を失わず今を見据えた瞳。
神谷清三郎が重なり富永セイが重なり、――そして、今目の前にいる富永セイが重なる。
「そうか」
斎藤は何処かすっきりとしたした憑物の取れたような表情で、笑みをセイに返した。