想う、時13

■想う、時・61■

桜も散り、若葉が芽生え始める頃、一室で一人ぼんやりと外を眺める青年。
隊随一と呼ばれた剣豪の体は病魔に冒され、弱っていく。元々剣豪と呼ばれる見た目と異なり、上背のひょろりとした体格ではあったが、更に細くなっていく。
彼は横になっていた布団から上体を起こすと、室内に入ってきた男装をした少女に笑みを向ける。
「沖田先生、起きても大丈夫ですか?」
「神谷さん。今日は調子がいいんです」
セイか総司の傍に座ると、彼の顔をじっと見つめる。
「本当ですね。今日は顔色もよいみたいで」
自分の事のように嬉しそうに笑うセイに、総司は笑みを深める。
「ねぇ。神谷さん。――どうかずっと笑顔でいてくださいね」
「何ですか。それ」
「神谷さんが笑顔でいてくれると、それだけで元気になれるんです。私も。私以外の皆も」
その言葉に含まれた意味を察して、セイは目を見張る。
「何言ってるんですか」
「勝手な私の望みですけど。貴女はどうかこれから先の駆けて行ってくださいね。貴女らしく懸命に生きてください。そうしたら――きっとそうしたら、私が迎えに行きますから」
「……っせんせいっ!」
「私がね、――いなくなっても。貴女が生きてくれれば――私も貴女の傍にいつもいて、体を失ったとしても、いつも共に、この世を駆けて行けるから」
それが、総司と交わした最後の会話。

眠るように、瞼を閉じるその瞬きの時、彼は囁いた。

「いってらっしゃい」

――風が少女の背を押し、そして、世界は風になった青年と「生」を名に抱く少女を迎え入れた。

さやさや。
柔らかな風が、少女の頬を撫でる。
いつも傍にいた風は、過去も今も変わらず少女の心を擽る。
時に優しく。時に厳しく。時に強く。
――そして、時に切なさを帯びた、愛しさを含んで。
セイは静かに瞼を開き、そして、自分を見下ろす青年を見上げた。
あの頃の面影を残したまま、あの頃と変わらない、それでいて、あの頃と違う、微笑み。
それは重ねた年月のせいか。
この人は、誰よりも愛しい人――、それでいて、この人は、まだ出会って間もない人。
この人は誰?
私の傍にいてくれる人は、――今も、風になって傍にいてくれている。はず。
「神谷……セイさん」
青年はセイの過去の名前を言い直し、今の名を呼ぶ。――初めて呼ばれた事が酷く嬉しかった。
――初めて、今の富永セイをその瞳に映してくれたような気がして。
そう。
今の私は、富永セイなのだ。
目の前にいるのは、沖田先生。――沖田総司藤原房良ではなく、沖田総司。

「おかえりなさい」

強い風が胸に一気に吹き込み、そして、見上げた蒼い空に一瞬にして駆け抜けていった――。

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■想う、時・62■

稽古が終わると総司はすぐにセイに電話をかけた。
呼び出し音から彼女の声に変わるまでのその数秒間、電話を握るその手がじわりと汗を滲ませるほど彼は緊張していた。
ついさっきまで一緒にいたのに、きっと過去の自分なら――いや、その頃には電話など無かったがそれでもこれほどまで緊張する事無く何気無く声をかけていただろうに、彼女と言葉を交わすそれだけの事をできるまでの時間が酷く長く、そして彼女が電話を出たら初めに何て声をかけたら良いのか戸惑った。
彼女は間違いなく、総司の電話に着信履歴を残してくれた。
しかし、実際に掛け直して出てくれるか分からない。
彼女が着信に出ないなんて事をする人じゃない。それは分かっている。
分かっていても。
彼女が総司の事を、今の総司の事をどう想って、どう見ているのかは分からない。
昔はもっと心が近く、分かり合えていたような気がしていたような彼女の心が、今も同じかは分からない。
今のセイと出会ってから、まだ一日。過去の積み重ねた日々があったとしても、今の彼女とはまだほんの数時間だけの積み重ねしかない。
近藤や土方と出会った頃、斎藤と再会した頃の記憶が蘇っては、首を振る。
大丈夫だ。きっとまた傍にいてくれる。共にいられる。
彼女もそれを望んでくれるようにこれからの時間を積み重ねていく。
『好きな人と、隣にいる人は同じ人が理想だと思うけど、好きな人と隣にいる人は違う方が幸せになれる事だってあるよ』
いつか言われた言葉が、総司の胸を差す。
「はい」
小さな、凛とした声が、呼び出し音から変わって、総司の耳に入る。
――セイが着信を取ってくれた時は、泣きたいほど嬉しかった。
彼女に居場所を確認して、直ぐに駆ける。
一秒一分でも早くその場に着かなければ、彼女がその場からいなくなりそうな気がして。
心臓が破裂しそうなくらい、呼吸が乱れるのも気にせず、全速力で街中を駆ける。バスや地下鉄を乗った方が早いのか分からない。それでも最短だと思える方法で、交通手段を使っている間も逸る気持ちを必死に抑えながら、早く早くとセイの元へと向かう。
「神谷さんっ!」
四条大橋の橋の下、川沿いの緑地にいる。とセイには聞いていた。
てっきり備え付けのベンチに座っているのかと思っていた少女はごろりと芝生の上に無防備にも一人寝転がっていた。
「ちょっ…まさか…」
慌てて近くの階段から鴨川沿いの川辺に降り、セイの隣に立つ。
青空の中総司の影が、少女の真上に落ちるが、閉じた瞼が開く気配は無い。
「……無防備にも程があるでしょう…こんな所で熟睡するなんてありえない…」
深い溜息を吐くと、総司は力無くその場に座り込んだ。
恐らく総司の電話に出た後眠ってしまったのだろう。
確かに今日は昼寝をするにはいい陽気だ。朝は流石にまだ寒いが、真昼になろうとするこの時間は太陽の光もあって眠気も誘う。
が。しかし。
「…今日の朝は屋根の上で、お昼は芝生の上ですか…どれだけ外で寝るのが好きなんですか…アナタ」
そう呟きながら、彼女の衣服が調っているのも確認する。
このご時勢、女性が一人で外で寝ていて良からぬ事を考える輩もいる。あってはあらない事だが、乱れが無い事にほっと胸を撫で下ろした。
「まったくもう…。今も昔も貴女には心配かけられっぱなしですよ」
羽織っていたジャケットをセイの胸元にかけると、総司はじっと彼女の顔を見つめる。
あどけない寝顔。
今彼女はどんな夢を見ているのだろうか。その中に果たして自分はいるのだろうか。
過去でも今でもいい、彼女の夢の中に、記憶の中に、自分の存在が少しでもあってくれれば。
「……せ…い………さん」
過去に呼べなかった。
今も変わらない、彼女の、女性としての名をそっと声に乗せて呼ぶ。
目の前の少女は、目を覚ましてくれる訳でもないのに。何も応えてはくれないのに。
酷く愛しさが増した。
「セイ……」
もう一度名を呼ぶ。
「セイ」
もう一度はっきりと。
――名を呼ぶ相手が、今、自分の前にいてくれる事に、感謝した。

私は貴女が好きです。貴女が隣にいてくれるのが、一番の幸せです。

ずっと閉じていた瞼がゆっくりと開く。
愛しい少女の瞳は総司の姿を映して、戸惑うように揺れた。
過去を彷徨うに。今を探すように。
彼女の中に今映るのは、どちらの時代の自分だろうか。
そう想うと、自然と笑みが浮かんだ。
だから、彼女が今の自分へ戻ってきてくれるように、そっと囁いた。

「おかえりなさい」

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■想う、時・63■

溢れた涙が止まらなかった――。

懐かしい眼差しが。
柔らかな微笑が。
あの頃と重なって。
今の彼と重なって。

「いってらっしゃい」

そう言って私を送り出した彼の人の元へ――。

「おかえりなさい」

やっと戻ってこれた気がした。

「かっ!神谷さん!」
セイは暫し総司を見上げ、そして大粒の涙を零すとがばりと起き上がり、彼の胸に抱きついた。
しがみつく様に背に手を回し、ぎゅっと力を入れ、子どもの様にわんわん泣いた。
ずっと抱き続けていた、自分が自分じゃない感覚。
『生きてください』
大切な人を失ったあの日から、あの人の願い通りセイは生きた。
『生きろ』
『生き延びてくれ』
沢山の仲間があの人と同じようにセイが生きる事を望んだ。
彼女が生きる事は、あの人だけじゃない彼女に生きる事を託した、彼らにあるはずだった生を生きる事だと思った。
だからセイは精一杯生きた。
無我夢中で。必死に。
どれだけ傷付いても、どれだけ涙を零しても。
沢山の喜びあったし、沢山の悲しみもあった。
けれどそられ全て自分の糧にして、生き抜く事が自分の使命なのだと確信して。
セイはセイらしく、持って生まれた命の長さを使い切った。
それは元来セイ自身が持つ強さだったのかも知れない。
生まれ変わって、過去を忘れていたとしても、セイは今の自分の命を懸命に生きることは変わらなかった。
託された想いの重さは、過去を忘れていても思い出しても既に彼女の中には無く、前の生で昇華していた事に気づいて、何処かほっとした自分にセイは笑える程の余裕はあった。
ただただ、セイという自分の一生を生きるのだ。
だから、過去は過去と割り切れていた。
けれど、一つだけ――。
あの日、見送ってくれた最愛の人を失った感覚は常にセイの中にあり続けて。
傍にいるはずの人がいない、傍にいたい人がいない、空しさはふとした時にセイを郷愁となって現れ。
存在を感じられるのは、必ず彼女の感情が揺れるその時。
風となって吹き抜ける。
時に優しく。
時に強く。
時に背を押すように。
それはセイを励ましたけれど、空っぽの感覚は変わらなくて――。
一日一日を大切に生きることで、一日一日を無駄にしているような気がして。
過去を想い出してから、その感情は強くなって、どうしてよいか分からなかった。
けれど。
やっと。
やっと、戻ってこれた。
ずっと足りなかった部分が埋まったような気がした。
過去世から現在まで引き摺るなんて、と思うと笑ってしまう。
過去は過去。今は今。と言い続けていたのは自分なのに。
その感情だけは、そう自分で宣言しなければ誰よりも過去に捕らわれていたのは自分だったのだ。とセイは気付いた。

けれど、確かに今、私の旅は終わったんだ――。
そう、思えた。

そう、一つの魂の区切りがついた時。
見えてくるのは、新しく踏み出した、今。
目の前の――生まれ変わった愛しい人にやっと向き合えた。

「ただいま戻りました」

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■想う、時・64■

「おかえりなさい」
そう総司が囁くと、セイの揺れていた瞳から涙の粒が幾つも幾つも零れ、嗚咽を上げて泣き始めた。
縋りつくように彼に抱き付き、壊れてしまうのではと思うほど激しく泣き叫ぶ少女を、ただ、総司はぎゅっと抱き締めた。
彼女が抱く感情を全て察する事は出来ない。
それでも、自分が――過去の自分がおそらく犯した罪が、彼女を泣かせているのだけは、察する事ができた。
総司は、己が目を閉じるその瞬間、何を彼女に囁いたのか、ぼんやりとしか覚えていない。
笑顔で見送ってくれた。
それがとても嬉しかった事だけは覚えている。
いつだって自分は野暮天で彼女を泣かせてばかり。過去の自分が言った何が彼女を泣かせているのか、生まれ変わっても分からず、出来る事とすれば抱き締める事くらい。
病める時も健やかなる時も――。
現世に生まれ変わり、いつか聞いた教会での結婚の誓いの言葉。
結婚の誓いではないけれど、どんな時でも守ろうと、彼女だけは幸せにしたいと望んでいた少女を、守れもしないのに、幸せにもできないのに。
それでも過去の自分は彼女に己の先の未来も生きる事を望んだ。
そしてそれにセイは応えてくれた。
生き抜いてくれた事を思えばどれ程嬉しいか。もしそれを望んだ言葉が彼女を苦しめていたとしても、それが罪だとしても、心は変わらない。
ただ、セイと出会えなかった生まれてから昨日までを思えば、セイが総司を失い一人で生きていく事のへの過酷さに、胸が詰まる。
『セイはお前に惚れてんだよ!』
過去に松本告げられたセイの想い。実際に彼女はどういう感情を抱いていたか総司は知る事は無かったが、それでも彼女が隊に入ってからずっと傍にいたのだからどれだけ彼女に大切に想われていたかくらいは分かる。総司自身がそうであるように。
だからこそ、大切な人を失った後も生きていく人生は、――恐らく出会えるかもしれないと期待を込めて生きる人生よりもずっと苦しいものだろう。
幕末から明治の世を、罪人として生き抜く事の厳しさを、剣術で体現した、彼女を見た後だからこそ余計にその思いは深まる。
貴方にとって、生きる事は、それほどまでに辛いものでしたか――?
そう問いかける事には勇気が必要で、総司はただぎゅっとセイを抱き締めた。
ただ、彼女がどんな過去を抱き、どんな気持ちでここを訪れ、総司と再会したにせよ、一度見つけたセイを抱き締める腕を緩める事は出来なかった。
過去に傷付き、過去から逃れる事を望んでもいい。過去を忘れてもいい。
その全てを包み込んで、今度こそ彼女の一番傍で、彼女を守るのだ。
彼女の為だとしても、彼女の傍から離れるという選択だけは――無い。
過去に別れたあの時から、時計の針が再び動き出したようで、それでいて、新しい出会いが今の彼女が総司を捕らえて離さない。
どんな感情を、どんな表情を見せても、例え嫌われたとしても、総司の中にある、セイへの愛しさは、過去から今へと変わらず、より深くなっていくだけだった。
だから、ただ己の腕の中にある少女の温もりが、総司にとっての幸い。
ずっと泣き続けていた少女は、暫くそうして彼の腕の中で彼に身を寄せ、ぎゅっとしがみついていたが、やがてふと顔を放し、総司を見上げた。
どきり。
と、総司の心音が鳴る。
何処かすっきりした表情を見せたセイは、瞳を真っ赤にし、腫れぼったい瞼を押さえる事もせず、頬を濡らした涙を拭う事も無いまま、笑顔を見せた。
今世で出会ってから、初めて見せてくれた笑顔。
彼女は自覚しているだろうか。
再会してから、彼女は常に戸惑いや困惑、寂寥、そんな感情が見え隠れする表情ばかりを見せ、笑ってくれる事は無かった。
それが彼女の生きた時の長さが、命の重さが奪ってしまったのだろうか。と胸が詰まらせていた。
あの頃のように無邪気に笑ってくれたら。
そう、願いながらも。
今の彼女が笑ってくれる存在になるのだ。と総司は決意したばかり。
いつだってセイは総司を振り回す。

「ただいま戻りました」

それはあの日と重なって――。
生まれ変わってからずっと総司の中で彼を励まし続けてくれた微笑みと重なって――。
それでいて、あの日よりもずっと眩しくて――。

総司は、そっと、口付けを落とした――。

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■想う、時・65■

意識の中での過去と未来の邂逅に眩暈を起こしていたセイは、四条大橋から降りて、川辺に広がる芝生に寝転がった。
ぐらぐらする視界の中、携帯電話からの着信音に気付いた彼女はそれが総司のものだと気付いてどうにか自分の居場所だけを伝えると、そのまま意識は過去へと飛んだ。
過去と今が混濁したまま目を覚ますと傍に総司がいてくれて、ほっとしたと同時に、彼が掛けてくれた言葉でそれまで捕らわれていた感情が溶けて消えていくのを感じた。
そうして、意識が今へと戻ると、改めて今の総司を意識した。
「ただいま戻りました」
そう告げると、総司は驚いた表情を見せ、それから嬉しそうに微笑むと、ゆっくりと唇が落ちていた。
「――」
受け止める、二度目の口付け。
自然と瞼を閉じ、触れる唇の温もりに、胸が熱くなるのを感じた。
押し付けるでもなく、乗せられるだけの唇がゆっくりと離れていくのに合わせて、セイは再び瞼を開き、総司を見上げた。
総司はと言えば、まさかセイが何の抵抗も無く彼の口付けを受け止めると思っていなかったのか、彼女と目が合うと、かぁっと耳まで真っ赤になっていた。
「あ、あの、神谷さん…」
「……」
セイは暫し沈黙し、今重ねた自分の唇に触れると、ふつふつと込み上げてくる笑いを抑える事ができなかった。
「あはっ…あははっ」
一度止まった涙が、またぼろぼろと瞼から零れてくる。
「こ、今度はどうしたんですかっ!?神谷さん!?」
先程の戸惑いを見せる様子とは打って変わり、嬉しそうに楽しそうに笑うセイに流石の総司も戸惑ってしまう。
「ふっ…ふふふっ!こんな簡単な事も分かんなくなってたなんて…っあははっ!」
「簡単なんですか?」
「はいっ!」
困ったように、相槌だけ打つ総司に、セイは笑顔で彼に答えた。
「私、沖田先生が好きです」
「っ!」
総司は頬を一気に染め、息を飲む。
「富永セイは沖田総司さんが好きです」
「ほっ本当ですかっ!?それは…師としてとかじゃなくて…?」
あの時も今も野暮天は変わらない。と、セイは苦笑する。
「…沖田先生は今世では私の先生ではないですよ?あ、でもそうしたら、先生とお呼びするのも変なんでしょうか…」
そう問うと、総司は顔を真っ赤にして首を横に振り、そして、目を細めて嬉しそうにセイを見つめた。
「私は、今も昔もずっと…ずっと貴方を愛しています」
そっとセイの頬に両手が添えられる。
「貴女と出会えるのをずっと、ずっと望んでいて……。貴女だけなんです…貴女だけが私の唯一の人…」
過去の彼からは一言も告げられる事は無かった想いの深さが言葉から漏れて、彼の今へ繋がる想いの熱が、瞳の奥で揺れて、セイを捕らえる。
過去のいつの時かでも想いを交わす事が出来れば、今の時は違っていただろうか。
こうやって再び出会えていただろうか。記憶を持って生まれていただろうか。
総司がいなくなった後のセイの人生は何かが変わっていただろうか。
――もし、を浮かべれば幾らでも浮かぶけれども。
ただ。
もう一度、そして初めて、想いを交わせる、この幸福に感謝した。