想う、時7

■想う、時・31■

最初に今日時間を作って会って欲しいと願い出たのはセイだ。
記憶を取り戻して、その後も今までと変わらず日々を過ごしていて、思い出した事で自分の中にあった違和感の正体を見つけては納得してきた。
そうやって今の自分の生きにくさを埋めていく事もあるのだろう。
その為に自分は過去を思い出したのかも知れない。そう思った。
中村には記憶を取り戻す前から偶然にも出会っていたが、あえて彼に過去の事を問いかける事も無かった。彼は今を生きているし、覚えていても覚えていなくとも今の彼と友人でいるのならそれでいい。過去に会っていても会っていなくても、今の出会いを大切にしていればそれでいい。それでいいのだ。そう一つの結論が出た矢先、伊東が現れた。
自ら敢えて過去の知人を探そうとする人。
自分と間逆の行動がセイには理解できなかった。
そして一方で、結論が出て、納得していたはずの心に、伊東は決して小さくない棘を刺した。
それが彼と今日二人で会った理由。
「…どうして…どうしても…沖田先生に会わなきゃ…駄目ですか?」
セイは搾り出すように問うと、伊東は「いや」と答えた。
「それは君が決める事だ。僕が指図する事ではないよ」
「…だったら……」
「僕が決める事ではない。けれど、君は会いたいんじゃないのかい?」
「そんな事!」
思ってもみなかった事を逆に問われ、セイは声を荒立てる。
「――そんなにも変わってしまった今の自分で会うのが怖いかい?」
「っ!」
セイは声が出なかった。しかし、今何も言い返せなかったら伊東の言葉を肯定してしまうと分かっていたが、反論の言葉が喉の奥から出てくれる事は無かった。
「……君は沖田君の死後、土方君を追って函館に向かったそうだね」
伊東自身の死後である話をされ、セイは目を開く。
「原田君に聞いたよ。君の事はどの文献にも載っていなかったから。まぁ、それでさえ人の一生を語るには無意味であるけれど。――君がどんな一生を送ったかは分からない。それでも沖田君よりも生きた時間分だけ君としての人格に重みが増す。……無邪気に彼を見つめ続けていた頃との感情は異なるだろう。きっとあの頃と同じ自分で彼と向き合えない事を怖れているのではないかい?」
セイは無意識に息を飲み、吐き出す事を忘れ、ただ石のように体を何一つ動かせなくなってしまった。
「君は過去を受け入れる事が怖いんじゃない。それ程小さな器じゃないだろう?そんな事は疾うに自覚している」
そう言うと伊東は呆れでは無い、セイだけではない何処か自嘲するように溜息を吐いた。
「大切な人ほど、今の自分で再会するのは怖い――。相手も大切に思ってくれているのをその身に感じて、同じ時を重ねていれば尚更」
視線を上げ、伊東はセイを見つめると、困ったように微笑んだ。
「結局は、好きな人には嫌われたくないんだ」
セイの頬には涙が零れ、思い出の数だけ無数の雫になって握り締めていた手の甲に零れた。

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■想う、時・32■

セイは目に映る風景に、あの頃の景色を重ねて、一つ深呼吸をした。
一度修学旅行で着ているはずだが、あの頃はこんな気持ちで再び訪れるとは思わなかった。
思い出したあの頃より建物はずっと高く、見上げる空はその分狭くなっている。
それでも、肌に触れる空気に、確かに懐かしさを感じていた。
広い駅前。目の前に伸びる白い塔。
「京都…か…」
セイはしみじみと呟いた。
まさか伊東に諭されて、記憶を取り戻してから再びこの地を訪れるとは思わなかった。
彼の最後に言った言葉を思い出して、くすりと笑ってしまう。

「君らしくないな。昔の君なら思考より先に行動だった。もう自分でも分かっているのではないのかい?だからこうして今日僕と会っている」
一頻りセイが泣いて泣き尽くすまで彼はじっと黙って彼女を見守ってくれ、そして、セイが落ち着いてきた頃にハンカチを差し出し言った。
「沖田君とまた出会える保障は勿論無い。今何をしてどうしているのかも、生まれ変わっているのかどうか自体も分からない。さっきも言ったようにまた好きになるかも知れないし、ならないかも知れない。沖田君が過去を覚えているのかも分からないし、君に好意を寄せてくれるかも分からない。全てが未知数だ。そう考えれば、初めて出会うのと全く同じだよ。ただ、過去の記憶というきっかけがあるだけ。それだけを頼りにまた縁を繋ぐのも、絶つのも君次第だ」
本人の意思を尊重するようで、その中に逃れられない現実もきっちりと織り交ぜ、伊東は話す。
それはもしかしたら彼自身も繰り替えてきた事かも知れない。
「それでもね。それでも、僕は君が沖田君ともう一度会ったらいいと思う。根拠は無いよ。ドラマチックな展開を求めているわけでもない。ただね。何となく、君と沖田君は……あの頃の君たちしか知らないのだけれど、それでも、端から見ても互いが互いに無くてはならない存在で、……こんな事を言ったらきっと彼らに怒られるだろうが、近藤局長や土方君よりも深い絆で繋がっている気がした。だから、どうしても君が沖田君といない事が惜しいと思うんだよ」
「……」
「これは僕の勝手な願いだ。だから君が叶える必要は無い。それでも、君の中に整理しきれない想いも解消されるんじゃないかな。『百聞は一見に如かず』だよ」
セイは視線を上げ、伊東を見る。
「沖田君の横には土方君もいそうな気がするから、もし会う事があれば是非宜しくと言っておいてくれ」
そう言われ、セイはきょとんとし、そして笑みを零す。
「ぷっ。……あはははっ!」
「やっと笑ってくれた」
伊東はにっこりと笑みを浮かべ、安心した表情を見せる。心の靄を晴らすように一頻り泣いて、そして笑う事でやっと周囲の状況に気を配れる程に落ち着いたセイは周囲のちらりちらりとこちらを伺っている視線に気が付いた。
何故。と思いつつ、すぐにその理由に気が付く。
一人の女性と少し年配の男性二人で対面で座り真剣な話をしていたと思えば、女性は泣き出し、その後には今度笑い始めるのだ。何があったのかと思うだろう。
端から見れば男性が女性を一方的に振り回しているようにしか見えない。
実際にそうなのだろう。セイに対してはほっとした視線が注がれていても、伊東には厳しい視線が向けられている。
「もっ…申し訳ありません!」
セイは慌てて頭を下げるが、彼女が周囲の視線に気付いた事に気付くと伊東は楽しそうに笑った。
「女性を泣かせるのも、そこから笑顔にさせるのも男冥利につきるのだよ」
「そ…そういうものですか?」
「そう。だから気にする事はない。あと、そうそうもう一つ」
「?」
「決めたらすぐだろう?君は。君の研究分は私の方で資料は揃えておくから、その間に行って来るといい。皆にも別件で動いてもらっている事にしておくから」
悪戯っぽい視線を向けられ、セイは、そんなに自分の思考は分かりやすいだろうか、今日は色々と当てられてばかりだ、敵わないなぁ。と思いながらも、真っ直ぐ伊東を見据えて応えた。
「はい!」

沖田先生に会えるだろうか。
そう簡単には会えはしないだろう。
それでも、一つ決めたら、気持ちはずっと楽だった。
「沖田先生…」
久し振りの地で呼んだ彼の名は、馴染んだ土地で柔らかく溶けた。

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■想う、時・33■

「さて。探すといっても、何をどうしていいのやら」
初めて行動を起こし、全ての起点になった京都に来てはみたものの、実際に総司がこの地にいるとも、その前に生まれ変わっているのかさえも分からない。
今はあの頃よりずっと人一人の人生における世界は広がっていて、日本にいないかも知れない。
そんな中探すといっても、途方も無い。
ただ。
「もし沖田先生も思い出しているとしたら……」
自分を探してくれているだろうか。
そんな期待にどきりと鼓動一つ鳴らしてしまうが、すぐにぶんぶんと首を横に振り、淡い期待を自ら打ち消す。
「やっぱり元々自分がいた場所を巡ってみたいと思うよねぇ。私のように」
そう思い至って、ふらりと足を目的地に向ける。
場所は分かる。
あの頃と建物や道筋は多少変わっていても、それも多少の事だ。
平屋やせいぜい二階建ての建物が主だった町並みは殆ど無くなってしまい、現代的な背の高い建物が続くが、今も残る建物も多くある。
「元々一発で会えるとも思ってないし、のんびり行こう。のんびり。……お財布の中身も少ないし…」
そう呟いて自分の財布を開き、そして悲しさにすぐに閉じる。
「ぐぅぅ。ビンボー学生に旅はつらいぜっ!」
大学に上がる時、学校は実家から遠く、自然と一人暮らしになった。両親に生活費も毎月送ってもらってはいるが、その上で後必要な物があればそれは勿論自分で稼がなければならない。
親に頼めば助けてくれるかも知れないが、セイとしてはただでさえ高額な学費を負担してもらっているのだ、これ以上の負担はお願いできない。
唯一の収入源になるアルバイトは今日の為に休んできた。出来るだけ共同研究に迷惑を掛けないようにするには稼ぎ時の土日に動くしかないからだ。
今の自分に何が優先されるかは既に決まっている。
それでもやはり、現実的な問題として厳しいものがある。
「探したいとは思う。会えたらいいなと思う」
その気持ちになれただけで伊東には感謝だ。
今の自分でもし総司と出会ったら、どう思われるだろう。
そう不安は尽きない。それでも会いたいと思えた。
その気持ちになれただけで幸せに思えた。
「会えたらいいな。でもこうして、先生と歩いた道を歩く…それだけでも、こんなに幸せな気持ちになれるんだ…」
歩く道に、幕末のまだ舗装されていない土埃の舞う道が重なる。
そこを歩く、袴羽織姿の、過去の自分と、総司。
それを思い浮かべるだけで涙が出そうになる。
会えなくても、これだけで、十分幸せ。
伊東に感謝の気持ちで一杯だ。
もし会えたとしたら――。
――私はどうするのだろう。
期待と不安が過去と重ねる時と共にセイの中に降り積もる。

それでも。
「君は――、沖田君に会いたいと思わないのかい?」
そう問われれば。
今なら言える。

「沖田先生。会いたいです」

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■想う、時・34■

「ここも歩いた。ここも。あ、まだあの店やってるんだ」
セイはふらりふらりと散歩をするようにゆっくり歩きながら、新選組の縁の地と呼ばれる場所、そして、総司と二人で歩いた道、茶屋、菓子屋をゆっくりと眺める。
あの頃と建物は一緒でも、幾つか修繕されていたり、場所が変わっていたり、跡地になっていたりもする。
そして全く同じままでも敷地内に入ればそこは現代の身なり格好の人や、あの頃の既知の人物が出迎える事は勿論無いので、その違和感に分かっていても一々動揺してしまう自分が可笑しくてつい笑ってしまった。
縁の地などはその場所の由来や、何が起こったかも書かれている。その内容はその当時の事を全てが正確に残せるはずも無く、正しかったり、自分の知らない事が書かれていたり、中には脚色されていたりもあったりしていて、それがまた笑いを誘った。
セイは過去を思い出すまで、思い出してからも新選組については文献を幾つか読んでいたとはいえ途中でそれも止め、ほぼ全く知識が無いと同然だ。頼りは自分自身の記憶だけ。
だから新選組として歴史にどのように関わっていたのか全てを知っている訳ではない。それ故に、様々な伝承や由来の物を見るのは全てが目新しく、面白かった。
「…今思えば、副長もドSだよねぇ。何もこんな事しなくても。と思ったりもするし」
西本願寺に向かう途中、油小路を通れば、先日会った伊東の顔が思い出されるし、西本願寺に着けば、伊東が既に現世でも会っているという原田の顔が浮かぶ。彼がまたおまささんを娶ったのだというのだから、二人に会いたいと思う。
そうして、ひとつ、ひとつ、思い出を重ねて、拾っていく。
それは自分の中の奥に大切に大切に閉まっていた宝物を開く感覚に似ていて、それでいて、ただ温かな優しいものだけでなく痛みや苦痛を与えるものでもあったが、その全てを受け入れる度に、一つ一つ自分の中の宝物を今の自分に昇華していく作業のように思えた。
しかし、徒歩で一日に回れる場所にも限度がある。
京都に着いたのは朝であったが、既に日は傾き始め、閉門時間の早い神社仏閣は、一つ、また一つと扉を閉じ始めていた。
「どうしようかなぁ」
思い立って来たので実はろくに何も決めていない。
完全に夜を迎える前に何処か今日の宿を探そうかと思いつつ、小さな路地を歩いていた。
ふと、隣から威勢のよい声が複数聞こえてくる。
気合の声だ。
どの家も高い塀に囲まれて、庭や屋敷が見えないようになっている造りが多い町並みの中で、声の聞こえてきたその場所は他の塀よりも入り口部分が広く取られ、解放されていた。不思議に思い塀伝いに隣を見ると、一つの塀の連なりの中で今いる入り口の他にもう一つ入り口があった。
声に魅かれるように近づいたその入り口の広い門からそろりと中を覗けば目の前には道場が建てられており、すぐ横にはもう一つ玄関があった。
恐らくは個人所有の道場なのだろう。隣はその所有者の家屋か。とセイは納得する。
目の前の道場を見れば、開け放たれた雨戸の向こうで剣士たちが向き合い、互いに竹刀を交差させていた。
どきん。
大きく心臓が跳ねる。
個人所有の道場は昔ほどではないが、今でも何処にでもある。ましてや剣道をしている人間など無数にいるのだ。
偶々覗いた場所に総司がいるはずが無い。
そう思いながらも、小さな期待と、久し振りに目の当たりにする刀を打ち合わせる光景に、自然と心音は早鐘を打ち、断りも無く覗き込んでいる自分は不審者だという罪悪感を抱きながらもつい見入ってしまった。

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■想う、時・35■

今の生を受けてから刀を持った事は勿論一度もない。
剣道を習う。という事も、過去を思い出すまで想像もしなかったことだ。
両親も、兄も、武道や剣道といったものを嗜む事は無かったし、セイも特段興味を持った事は無かった。
過去を思い出したからだろうか。
今まで触れてこなかったのに、今目の前で刀を打ち合う光景を見れば、あの頃の記憶が意識だけでなく体にも蘇るのか、自然と体が揺れる。
こんな所で突然動いたらそれこそ不審者決定だ。と己を戒めじっと体を堪えさせ、鍛錬もしていない今の体であの頃と同じ動きが出来るはずもないと自戒するのだが、それでも神経が勝手に体を動かすよう伝達をし反射のように指や腕が震えた。
目の前の剣士たちは激しく打ち合う。
竹刀が弾き合い、打つ音が心地良くセイの耳に入り込む。
もっと間を取ればいいのに。
ああ、今の距離はもう相手の打ち込む距離だから駄目だ。
そこ。今入れば一本取れる。
そんな事が勝手に言葉になって浮かび上がる。
そして一方で、自分ならもっとこうするのに、と勝手に反射する体と己自身をイメージしたところで、――自分には過去の時点疾うに、最早剣士とも、武士ともも名乗る資格などないのだという事を嫌という程記憶と共に突きつけられた。
それは伊東も知らない。セイの過去。
本当に自分は、沖田先生に会っていいのだろうか。
払拭されたはずの想いが再び浮かび上がる。
過去は過去であり、蓄積された年月分人格に重みが増す。あの時の自分と違う自分が出会って当然だ。幾度考えても答えは同じで、そう理解はしていたし、伊東の言葉に背を押されてきたが。
総司がもし思い出していたとしたら。
『好きな人には嫌われたくない』。
根本を突き詰めればそれは正しい。けれど、そんな自分本位の感情だけならば、こんなにも悩まないのだ。
彼の死までのセイしか知らない彼を今の自分を見たら失望させるのではないだろうか。
もし彼の中で綺麗な思い出になっているのだとしたら、そのままの方が良いのではないだろうか。
態々壊す必要など無い。
思い出していなかったとしても、過去の記憶を自分が抱いたまま、彼の傍にいられる自信が無い。
それならばいっそ会わない方がいいのじゃないか。
これも彼を思い遣るつもりでいて実は自分本位な感情なのだろうか。
セイには分からない。
ただ。
――生きる事は決して綺麗事だけでは生きていられない。
このまま思い出を今日の思い出と重ね合わせて、自分の中に焼き付けて、帰り、これからを生きればそれでいいんじゃないだろうか。
会えるか分からない人を追い求めるより、ずっとその方が今の生を生きている。
いつか何処かで会えたなら、笑顔で会えたらいい――。
その気持ちだけ抱いて、生きていけば、それで、いい。

逸っていた感情が一気に冷めるのを感じて、セイは門から乗り出していた身を引いた。

次の瞬間、全身を激しい衝撃が襲った。