はんぶん10

■はんぶん・46■

セイは総司からばっと体を離すと、距離を取ろうと後ろに思いっきり身を引いた。
「セイさんっ!」
身を引いた拍子に、バランスを崩し、頭から床に落ちそうになったセイを総司が腕を引っ張り、自分側へ引き寄せる。
セイは再び総司の腕の中に納まる形になったが、慌てて両手を伸ばし、彼を押し退ける。
「どうしたんですか!?セイさん!危ないでしょう!」
突然のセイの危険な行動に流石の総司を声を荒げ問う。
「何でここにいるのが沖田先輩なんですか!」
そう叫けんだセイに、総司は目を丸くした。
「どうして今、傍にいるのが沖田先輩なんですか!」
「何ですか。それ」
今までの泣きじゃくり総司の胸に縋っていたセイと同じセイとは思えないくらい豹変した目の前の少女に総司は訳が分からなくなる。
そして、今までに無いくらいはっきりと彼を否定するセイ。
どんなに酷い事を言っていても、嫌いだと言っていても、そこには完全に総司を否定する様子は無かった。
けれど今の彼女は、言葉だけじゃない、瞳が、彼女の纏う空気、全てが彼を完全に拒否していた。
一瞬でのあまりの豹変振りに総司は言葉が出ない。
「私は沖田先輩が嫌いなんです!関わって欲しくないんです!近づかないでください!」
「どうして、今の今で突然そんな事言うんです!」
冷静にならなければ、と思うのに、つい総司は声を荒げてしまう。
「ずっとそう言ってるじゃないですか!私は沖田先輩が嫌いだって!先輩だってそうでしょう!だから距離を置けるようにんなって安心してたのに!どうしてこんな風になってるんですか!?」
「私だってずっと貴方の事嫌いだと思ってましたけど、今は違うんです!」
反論する総司にセイは首を振る。聞きたくないと、耳を塞ぐ。
「違わないです!私は先輩が嫌いで、先輩も私が嫌いなんです!これからも関わりなく生きていくんです!」
「そんなの勝手に決めないでください!どうして私の気持ちを勝手に決めるんですか!」
「私は先輩に関わっちゃいけないんです!甘えちゃいけないんです!もう迷惑かけたくないっ!」
完全に今目の前にいる事を、傍にいる事を拒否するセイの態度に苛立ちを感じていた総司だったが、彼女の最後の言葉に、彼は瞬く。
そして、耳を塞ぐ彼女の両腕を取り、耳から離し、己を視界から外す為に俯く少女を下から覗き込む。
「セイさん」
瞼をぎゅっと閉じる少女の名を呼ぶ。
「セイさん」
彼女が目を開くまで、何度でも呼ぶ。
「セイさん」
もう彼女は逃げる事は出来ない。両手はしっかりと総司が捕らえていて、彼よりずっと力の無い少女はそれを解く事は出来ないのだから。そして総司も逃す事はしない。
「セイ---」
名だけを呼ぶ男の声に、セイはびくりと肩を震わす。
逃れられない腕は熱を帯び、彼女の体まで伝わってくる。
凍りかせ、これ以上心を許すなと警鐘し続ける己の心音がどうにか彼女を保たせる。

これ以上。

彼を。

彼の。

彼に。

---好きになっちゃいけない。

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■はんぶん・47■

セイにとって、祐馬が最後の砦だった。
彼を好きにならない為の。
兄の事は大好きだ。その気持ちは本物だ。
ブラコンだと言われてもいい。
兄さえいてくれればそれでいい。
実際そう思っていた。
兄に彼女が出来るまでは。

兄に彼女が出来る事で、兄と自分は本当に家族なのだと突きつけられた。
「お兄ちゃんと結婚する」なんて言った事もあったが、本当に兄に異性として恋愛感情を抱いていた訳ではない。
ただ、その時初めて家族である事と他人である事の境界線がある事を知った。
そして兄はセイにとっての憧れだったのだと気付いたのだ。

だからいつか、自分にも好きな人ができる。

それはその時、ぼんやりとした未来の絵空事みたいな出来事から初めて現実のものとして形になった。

総司と初めて会った時、何て無邪気な笑顔の人なんだろう。と思った。
どうして毎日会うのかなんて分からない。
顔を合わせれば喧嘩ばかり。けれど、会う度に胸の奥でぽっと小さな灯火が点いたみたいに温かくなった。
それがどういう感情かは考えないようにした。
私は兄が好きなのだ。
だからそれ以外の人は興味が無い。
そう言わなきゃ、そう言わなきゃ、

私は、

彼の傍にいる事を望んでしまう。

「---セイ」
これ以上、この人の傍にいては駄目だ。
そう思うのに、唐突に呼ばれた敬称抜きの己の名に、セイは胸が熱くなった。
目の前の彼が本気でセイに己を見る事を要求している。
何処かに逃げ場をと求めたが、兄に彼女が出来たという再び訪れた現実にセイは目の前が真っ暗になった。
セイはこれ以上『お兄ちゃんが一番』と公言出来なくなってしまう。
彼女がいなければ『今は自分が兄の一番だ』という事に依存できたが、彼女が出来てしまえばそれ以上兄には依存できない。
己の逃げの為に兄に迷惑を掛ける事は出来ない。

---総司の事が好きだという己の心に嘘を吐き続ける事が出来ない。

こんな現実に引き戻された時に一番最初に傍にいるのも総司だ。
それがまた辛くて仕方が無い。
心配を掛けてしまった。
そして、今まで懸命に彼から距離を取る為にしていた行動が、実は兄にさえもしていなかった『甘え』だった事に気付かされてしまった自分に腹が立つ。
好きな人には迷惑は掛けたくないのだ。
だから兄にも家族にも友人にも迷惑を掛けないように生きてきた。
大好きだから。
大切だから。
自分の事で迷惑は掛けたくないのだ。
自分のせいで誰かの人生の邪魔になんてなりたくない。

自分のせいで誰かに自分の人生を後悔させるなんて思い、もう二度とさせたくない。

突然、柔らかなもので唇を塞がれた。

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■はんぶん・48■

「……セイさん。やっと私の事見てくれた」
「……」
唇が重なったのはほんの数秒の事。
けれど離れた唇はその僅かな間息を交わしただけで熱を持ち、赤く染まっていた。
セイは思考回路が停止し、何が起こったか把握出来ず、ただぼんやりと目の前で微笑む青年を見つめていた。
「あのですね。私は今まで一度もセイさんを迷惑だと思った事は無いですよ」
ゆっくりと言い聞かせるように語る総司にセイの瞳は揺らぐ。
「嘘じゃないです。嫌いだ嫌いだと言ってもあんなのはただの挨拶みたいなものですよ。セイさんと喧嘩してると楽しかったし、今だってこうやって泣いているセイさんを慰められるのも自分でよかったなって思ってるんです」
どうして?とセイの瞳が問う。
「…ずるいですねぇ。私ばっかり。…あのですねぇ…普段礼儀正しい人が自分にだけ良い所も悪い所も全部曝け出して素直にぶつかってくれるのが自分だけだって……嬉しいんですよ……しかも…………好きな人だったら……」
その言葉に、セイは一気に全身の熱が上昇するのを感じた。
ぱくぱくと口を開くが、言葉にならない。

その感情には身に覚えがあった。
総司が道場で泣いていた、あの日。
自分に縋りつき泣いていた総司に、セイの心は満たされていた。
辛くて泣いている彼を前に不謹慎なと思いながらも、---彼の頑なな心を溶かしたのが自分だと思ったら安心した。
他の誰でもない私だけがこの人の心を解す事が出来たんだと思ったら。
あの時の感情は、今も全てを言い表せない。
それが迷惑だったかと言われたら…。

「って何で私、こんなところで告らなきゃならないんですか!言うつもり無かったのに!セイさんが言わせるからですよ!」
顔を真っ赤にして総司はセイを睨みつけるが、セイはまた顔を真っ赤にしたまま泣いていた。
けれどその表情はさっきまでの辛そうなものではなく、口の端が少し上がっていた。
「セイさん笑ってる…?人の折角の真剣な告白を笑ってる!?」
総司は酷く傷ついた表情をしているが、それがまたセイの心を解していく。
さっきより増して涙がぼろぼろと彼女の頬を伝っていった。
そこには少しも苦しさも無い。氷が解けて水になるように、心が解けて涙に変わっていくようにそのくらい自然に零れていった。
「ええ。もういいですよ!全部聞かせてやりますよ!本当を言えばですね!私だって色々あって、セイさんから距離を置こうと努力していた時期だってあったんですよ。…嫌いだって思い込んでいたし…でも貴方どんどん人の心占領していくんですもん…泣かされるし…今まで近藤先生や土方さんにさえ触れさせてこなかった事色々全部セイさんに壊されちゃったんですよ。そしたらもう本当は好きだったって気持ちしか残らないじゃないですかっ!」
逆ギレしたように捲くし立てて告白する総司に、セイはぽかんとし、そして、涙を零し続けながら声を立てて笑った。
「あははははっ!先輩おかしすぎですっ!何でそんな言わなくてもいい事まで全部言っちゃうんですかっ!」
「もう幾らでも笑ってください!だって感謝していたのは本当ですからっ!」
「感謝してたんですか?あんなに喧嘩してたのに」
「そうですよ!感謝してたけど、もう、だから言ったじゃないです、挨拶みたいなものだって!初めて会った時から喧嘩しかしてないんですよ!私たち!」
そう言われて、セイは初めて気付く。そしてそれがまたおかしくて笑い出した。
「本当ですね!私たち喧嘩しかしてないっ! 」
「だって貴方の傍にいちゃいけないって思ってたんですもん!ついさっきまで!」
赤くなって反論する総司に、セイは笑うのを止め、驚いたように目を見開いて呟いた。
「…私もそう思っていたんですけど…だから嫌われなきゃって…」
その言葉に総司も驚いたように目を見開いて、セイを見た。
「だからですか?」
そう言って総司は今も繋ぎ止めているセイの両腕を見つめた。
セイはさっきまので自分の感情と行動を思い出して俯いた。
彼女が抱いていた感情は彼も抱いていたのだ。ずっと。
何故?
そう思考するよりも先に、セイにはどうしても問わなくてはならない事があった。
もう彼から逃げない為に。
己の中にある感情から逃げない為に。
「……私は本当に沖田先輩のご迷惑になっていませんか?」
「ありえません」
唐突の問いに、それでも総司はきっぱりと答える。
セイは驚くほど真っ直ぐな総司の解答に目を見開いた。
「…本当に?」
「本当に。私でいいなら一杯我侭言ってください。甘えてください。本当に嫌なら嫌だって答えますよ。そうでしょう?」
それは短いようで長い、4月から今まで毎日の付き合いでよく分かっている事。
セイはこくりと頷いた。
「寧ろここまで聞かされたら私以外の人に甘えて欲しくないです」
言われてセイは頬をぼっと赤くした。
「だってあの祐馬さんにさえ甘えてなかったのに、私にだけって……どうしてそう…ずるいんですか…」
総司はセイの中の蟠りを解く為にしっかりと伝えようとするが、段々と自覚し始めると恥ずかしくなって語尾が小さくなっていく。
セイも総司も赤くなったまま互いの顔を見れず俯くが、互いの距離は近いまま。
呼吸音が聞こえてくる距離が恥ずかしいようで、そして嬉しい。
それでも。
まだ、セイにはもう一つだけ確認しなきゃならない事がある。
もう一つだけ己の中の不安を拭う為に、セイは顔を上げた。
「…もし…私が甘える事で沖田先生がこれから先自分の生きる道の選択を間違えたとして……後悔する事は…あり…ませんか…?」
尋ねる事それ自体が苦しくて、言葉にする事も重くて、呼吸するのもままならなくなりそうになりながら、それでも必死で紡ぎ出す。
「何ですか。それ」
総司は不審そうに首を傾げる。
彼にとっては不思議な問いかもしれない。
自分でもおかしな事を尋ねるものだと自覚はしている。
それでも、セイは確かめずにはいられなかった。

今、もう一歩彼女が進む為に。

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■はんぶん・49■

既に答えを分かっていて、そう言われるのを覚悟しているような瞳が総司を真っ直ぐ見据える。
彼女は何を覚悟しているのだろう。
そう思い、いつものように軽く問い返してみようと思ったが、彼女の瞳がそれを許さなかった。
きっと、答えを間違えれば、今後二度と彼女は自分の前に現れない。
そんな気がしたが、決して嘘を吐いてこの場を誤魔化せるような空気ではなかった。
全てを正直に答えなければ。彼女の覚悟に応えなければ。そして、彼女の望む答えを告げれば。
彼女は総司の傍に現れる事は無い。
何故か総司は苛立った。
セイの覚悟も。これだけ伝えても総司の気持ちを少しも理解していない問い掛けも。
「セイさん。貴方が甘える事でどうして私の人生の道が間違うんですか」
「…っだから仮にの話でっ!」
「私の人生は私が自分で責任を負います。私が貴方が甘えてくれる事を望んでいるのならそれは間違った道じゃないです。私が選んだ道です。間違った道とか正しい道とか勝手に決めないでください!」
「!」
後悔する事を前提に話を進めるセイに怒りを込めながらはっきりと応えた総司にセイは息を飲んだ。
同時に何処かで聞いた台詞だと思い出す。
その時は誰が言ったものだった?
遠い記憶が一瞬目の前に広がった気がしたが、それも一瞬で視界から消え、目の前には彼女の問いに怒りさえ感じているのか眉間に皺を寄せながら、真剣な眼差しでこちらを見つめる総司がすぐに彼女の視界を捕らえた。
しかし彼の表情とは対照的にセイは頬が緩んで、再び涙が零れるのを止められなかった。
「私も…」
続く言葉は決まっている。
ずっと、ずっと、ずっと内に抱えてきた心。
抑えても抑えても、逃れようとしても決して消える事が無かった感情。
それでもやっと言葉に乗せる事が出来る。
目の前の人に伝える事が出来る。
何の遮るものもなく。
やっと。
「沖田先輩が好きです……」
目の前の青年とは出会ってからまだ数ヶ月だけだというのに、もう数十年の数百年も伝えられなかった想いをやっと伝えられたように全身から想いの塊が抜けきった様にほっとした。
総司は目を見開くと、次に嬉しそうに頬を染め、今までとは全然違った柔らかい眼差しでセイを見つめると柔らかく笑った。

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■はんぶん・50■

「何ですかねぇ。これが嫌よ嫌よも好きのうちってやつですかねぇ」
「それ絶対意味が違います」
のほほんと呟く総司に、セイはツッコミを入れる。
「えー。だってセイさん私の事嫌いだったし、でも好きだったし。私もセイさんの事嫌いだったけど好きだったし」
「先輩…日本語おかしいです」
「だって本当でしょ?」
「…その通りですけど……」
「でも本当は好き好き同士だったと!」
嬉しそうに笑顔を向ける総司に、セイは赤くなりながらも、反論できない。
セイが泣き止み、泣き続けて赤く腫れた瞼が落ち着くのを待ってから、総司はセイを高校の校舎へ送り届ける為に彼女の手を引き、廊下を歩いていた。
幾度か繋いだはずの手が、想いを通じ合わせただけでこんなにも恥ずかしいものになるのかとセイは動揺していた。
確かに手を繋いでいるカップルを見るといいなーと思った事もある。けれどそれをいざ自分がやるとなったら気持ちは全く異なった。
ただでさえ、通り過ぎる人たちに、互いの気持ちが駄々漏れなのではないかとどきどきしているのに、更に手を繋いでいたら確実に自らばらして歩いているようなものではないかと思うと気恥ずかしさが胸の辺りをもやもやして仕方が無かった。
世の中の恋人たちはこれを自然にやっているのだら凄いと思う。
『恋人』
ぼはっと顔が赤くなるのを止められないセイは咄嗟に口元を押さえる。
「セイさん?恥ずかしがらないでくださいよぉ。私だって実はどきどきしてるんですから」
振り返る総司は、セイの照れる様子に自分も今更ながら改めて彼女が自分の事を好きだと言ってくれた時の気持ちを思い出し、頬を染める。
どきどきしながらセイを見つめていると、突然彼女は耳まで真っ赤に染め、そして総司を見上げると赤みの引いた瞳をまた真っ赤にして潤ませ、そして総司と目が合うとぱっと逸らして俯いた。
表情が可愛いやら、何を思ったのか不思議やら、仕草が子犬のようで庇護欲を掻きたてられるやら。
「どうしたんですか?」
総司が問うと、セイはぱっと顔を上げ、そして口元を隠したまま瞳で訴える。
「ごめんなさい。私鈍い人間なので、言葉にしてくれないと分からないんですけど…」
「沖田先輩さっきキスした!」
困り顔で囁く総司は全く身構えておらず、突然のセイからの爆弾投下に為す術なく被弾した。
「え、あ、そう、そう言えばっ!でもあれは仕方が無かったって言うかっ!」
「私ファーストキスだったのにっ!…って言うか仕方が無くって何ですかっ!」
「え!?セイさん初めてだったんですかっ!?」
「何それっ!先輩は初めてじゃなかったんですかっ!?」
突然泣き出しそうになったかと思ったら、いきなり目の色を変えて睨みつけるセイに総司はぶんぶんと首を横に振る。
「ありません!全くありませんっ!私も初めてですよっ!」
「何で笑顔で答えてるんですかっ!」
「だって、私が初めてだと思うと嬉しくって」
「ばっ!馬鹿っ!」
総司から返された爆弾にセイは全てきれいに返り討ちに遭う。
そうとは知らず、総司は先程より更に嬉しそうに笑みを浮かべにっこにっことセイを見つめる。
「大丈夫ですよ。ちゃんと責任も取りますから。問題無しです」
それは。
つまり。

セイの脳みそはそれ以上の思考を全て停止させ、あえなく沈没した。

「ええっ!?セイさんっ!?こんな所で倒れちゃ駄目ですよっ!一緒に土方さんに怒られに行くんでしょっ!?」