凍る月17

田園の中、ぽつりと佇んでいたはずの一つの小屋。
あの日は豪雨ではっきりと納屋を視認する事も広がる田園風景を見渡す事もできなかったけれど、何処までも続く青々と伸びた稲穂の大地の中で、燃え尽きて黒く炭化した木の残骸が、僅かに建物の骨組みと基礎の影を残していた。
茜色に染まり始めた空と影を帯び始めた緑の中で、その場だけが違和感を残す。
豪雨で泥濘みまともに歩く事も出来なかった畦道は乱闘の跡を残すように草履と下駄の形が凹みとなって土にくっきりと残っていた。
納屋があった場所へ近づくと、一角に黄色の花が供えられている。
――誰かがこの納屋で倒れていた遺体を悼んで手向けたのだろうか。
セイは風に揺れる花の前に屈み、周囲を見るが、詳細を尋ねられる人の姿は無く、再び花を見つめると、手を合わせ、静かに目を閉じた。
隣で同じ様に屈み込み、手を合わせる総司の気配を感じる。
――月様を無事お送りしました。貴方のお陰で私は今も沖田先生のお傍にいられます。
その事実を再認識するだけで、言葉に出来ない感情が涙となってセイの頬を伝った。
「この方は結局誰だったのでしょう」
セイは静かに瞼を開くと、すぐにでも思い浮かべる事の出来る、凛とした姫の姿を思い浮かべる。
「月様も知らないと言ってましたからね」
彼女と同じ様に瞼を開き、目の前の花を見つめると、総司は答える。
「旅をする度、月様も知らない方が本来は女子である月様の身代わりを務め、拐かされる度に、目の前で命を落としていく度に、代わっていく。護衛も刺客に斬られる度に、同様に。――どんな気持ちで毎回月様は旅をされているのでしょう。あの方は一生捕らわれの身のまま自分の為に命を落としていく人たちを見つめ続けていくのでしょうか…。命を救える力を持っているが故に、目の前で自分の為に命を落としていく人たちを見つめ続けていく…」
辛くはないのだろうか。
という言葉を口にする事は出来なかった。
辛くないはずはないし、セイが彼に同情したところで、彼女に何の力も無いし、彼の立場を変える事も、代わる事も何一つ出来ない。
彼女の命のありかは既に決まっていて、彼の為に命を懸ける事も、深入りする事も出来ない。
けれど、同情を口にする事で、他人事のように月を突き放すようで、言葉には出せなかった。
そこまで割り切れるほどには、彼にもう情を抱かないはずが無かった。
「…彼は言ってましたよ。自分の命を守ることで、誰かの命を守る事ができるのか。と…」
「月様は死にたかったのでしょうか」
「死んだ方が落としていく命が少ないのではないかと思ったでしょうね。それでも…」
総司の推測に過ぎないが、彼は恐らく初めて自ら望んでその力を行使した相手がセイではないだろうか。
己の命を守る為に最大限の努力をし、そうする事で己が守れる命を増やすセイの姿を見つめ思う事があったのではないだろうか。
彼女の命を救う事。その事で彼の救いになったのではないだろうか。
初めて生きていてよかったと思えたのならば。
「それでも?」
総司の言葉が途切れた事にセイが彼を見上げると、総司は微笑んだ。
「それでも――もう自ら死にたいとは望んではないのでしょうかね」
「そう…そうだといいです」
彼も、この人の太陽のような温かさに触れたのなら。
きっと。
そんな気がした。