納屋の外では雨が降り続いている。
総司は僅かな物音や気配に敏感にすぐさま反応できるよう耳や全神経を研ぎ澄ましていた。
止まる事知らず流水のように小刻みに地面を鳴らす雨粒、僅かに吹き込む風に揺らぐ炎の爆ぜる音、木でできた納屋から時折人がいるのかと思うほど大きな家鳴りが聞こえてくる。
そうしたありとあらゆる存在を感じられるよう己を冴えさせる。
ほんの一時でもいい、目の前で眠る少女が少しでも回復できる時を稼げるのなら、その時間だけは誰にも邪魔をさせない。
納屋の中に置かれていた藁や薪を少しばかり拝借し、起こした火がパチパチと音を立てて爆ぜる。
赤く燃える炎が室内を暖め、それを囲う彼らの身体を温めた。
風呂敷に包んで背負っていた食料や替えの着物も全て濡れていたので、渋々今身に纏っている物を一度絞り、そのまま再度纏う。
本当はいっそ裸でいた方が体が冷えず、体温だけでも戻りやすいと考えたが、いつ襲われるのか分からないのにそんな姿でいる訳にもいかず、着物ごと体が乾くのと体温が戻るのを待つしかなかった。
そうやって嵐が過ぎるまで暫しの休息を取っている間にも、何度も何度も「もう少しだけ先に進まないか」と言い続けたセイと姫は炎の近くで藁を布団にして眠っている。
付きは炎に当たりながら何処か思い詰めた様に眠る二人を見つめていた。
「付き様も少しお休みになられたら如何ですか?」
総司が何度目かの声をかけるが、彼は首を横に振るだけだった。
しかしそんな彼の顔色は大分良くない。いくら総司と同じ男とはいえ、またこうした修羅場に巻き込まれる旅に慣れている様子であるとはいえ、それでもあくまで彼は姫の付き人であって武士でもなければ特段護衛として鍛えている様子でもない。女子とはいえ普段は他の仲間たちと同じだけの稽古量をこなしているセイはその辺の男よりもずっと体力も気力も持ち合わせている。その彼女でさえ初めの頃こそ護衛だからと見せずにいたが、目的地到着を前にして流石に隠す余裕も無くなり旅の疲れを見せている。付きも姫の手前もあってか気丈に振る舞っていたが、彼の体力も限界であるのは見て取れた。
頑なな付きに総司は首を横に振ると、外を見る。
どうか少しでも長く休息を。
そう祈りながらもざわりとした悪寒に似た感覚が彼を襲った。
ばっと顔を上げて立ち上がると、開けっ放しの扉の前に行き、すっかり日も落ちて厚い雨雲に覆われ月の明かりも無い暗闇の中白く煙る雨に視界を遮られながら目を凝らす。
もう少しだけ祈りが届いても良いと思うんですけど。
総司は口の中でそうごちると抜刀した。
彼の気配が一変した事に気付いたセイは勢いよく起き上がると、すぐさま総司の傍へ駆け寄る。
「沖田先生!」
「貴方は二人に身支度を整えさせたら納屋を出てください!」
セイが総司の隣に立とうとすると同時に、それだけを言い置いて彼は雨の中走り出す。
刺客の方も総司が走り出した事でこちらが気付いた事に気付いたらしく、抜刀し、総司に向かって駆けてきた。
田畑の中で人一人通れる程度の畦道と、荷車が一台引ける程度の道しかなく、雨が浸み込み泥濘んだ地面は刀を振るう剣士たちの足場を容易に崩した。
足を取られ普段以上に体力を奪われながらも刺客は総司を襲う。
相手も己も同条件下。それでいて雨の中の打ち合いは普段以上にいつ予測不可能な事態が起こって形勢逆転するか分からない。そんなヒヤリとした感覚の中、刃を交わした。
――強い。
総司は唇を噛む。
江戸の目的地が近づくにつれ、刺客の質は京で襲われたあの時と同等にそれ以上になっていく。
それでいて相手も並々ならぬ忠誠を主君に誓っているのか、目的を果たせぬ場合切腹となるのか、何か弱みを握られているのか、京を出た時よりも切羽詰まった様子で形振り構わず、命懸けで襲ってくるだけに、少しでも隙を見せてしまえばそこで全てが終わってしまう感覚がじわりじわりと総司を襲った。
今までだって修羅場はいつだって命懸けだった。しかし、その必死さは尋常ではない、何処か狂気にさえ感じる程である。
それでも総司だって気迫負けする訳にはいかない。
要人を護衛し、セイを守り抜く。
その想いは旅を始めた頃からずっと変わらずあり続ける。
しかし、
その想いは常にありながらも、旅を長く続けるにつれ、セイを助力を求める己の内の声は大きくなっていった。
刀を交わす、今も、尚。
キィン!ギィ!
刀が交差する度、鈍い金属音が響く。
刀を交わす刺客は目で仲間に合図をすると、待機していた男たちが応じの横を通り抜けようとする。
総司はそれを見逃さず、腰を落とすと、交差した刃を向けられる刃に対して横にして寝かせ、対峙する相手の体制を崩すと、そのまま右足を差し出し、彼のすぐ横を走る男の足を引っ掛けた。
体制を崩した男はそのまま前方に身体を傾け、総司はその胸元に向かって刃を横一線する。そうして横で足をかけられた男が転んだのを確認してから重心を右足に持っていき
立ち上がった。
「行かせません!」
総司が駆け出す前にちらりと見たセイの表情。
まだ真っ青なままでいつも通りとまでは行かなくとも白い頬に少しの赤みも戻っていなかった。
平静を装っていたが、体はガタガタと振るえ今にも倒れそうだった。
あのまま彼女に刀は持たせられない。
例え刺客に襲われる可能性が高くなったとしてもここで休むという選択は間違っていなかったと総司は今も思う。
あのままで先を進んで刺客に遭い、修羅場に突入するくらいなら、今ここで休み少しでもセイと姫の体力が回復するのを待ってから進む方が生存の確率は上がるはずだ。
寧ろあんな状態になる前に、もう少しどうにかしてあげられなかったのか。とさえ思う。
しかし、これまでの道程を思い返せばセイに常に采配を取ってもらわなければここまで来る事ができなかった。次々襲ってくる刺客から逃れるのを優先すれば、休ませて上げる事は出来なかった。
どうにか負担を減らそうと思っても総司が役に立てるのは主に戦闘時。
それでもそこで自分に任せてくれと告げて、後方で守られるようなセイではない。
負担を減らそうにも一人で数人を相手にするよりも、セイと二人で一気に片を付ける方が生存率や体力温存を考えると、圧倒的に有利だった。
ままならないままここまで来て、嵐に直撃する事で一気にツケを払う事になってしまった。
だからどうにかここでだけは一人で三人を守りたい。
今だけは。
もし休憩の間に襲われたとしたらその間だけは何が何でも全て一人で彼女たちを守ってみせる。
今ここで己一人で持ち堪え、逃げているセイと後で合流するのだ。
そう決めて休ませたのだ。覚悟はできている。
だからセイを求めるな。
体制を崩し斬りつけられた男はその場に倒れ込む。
倒れた男を総司は躊躇無く踏みつけ、べきんと肋骨の折れる音が聞こえる位まで体重を乗せると、目の前で刀を振り下ろす男に逆に下段から天に向かって斬り上げる。
セイがここにいれば――。
上段に刀を振り上げた総司の背後からまた別の男が彼目掛けて刀を振り下ろす。総司はそれまでずっと片足を乗せていたままの男から足を避けると、刀を振り下ろした男の横腹を勢いよく蹴り込んだ。
セイがここにいれば――。
回し蹴りから体を反転させ、体制を整えると、腹を蹴られ悶絶する男に向かって刀を振り下ろす。
それに気付いた男は身を翻すと、刀をかわし、片膝を突いたまま総司を睨み付けた。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、肋骨を折った男が刀を持ち直し、片手で握ったまま振り下ろす。
セイがここにいれば――。
セイがこの場にいればもっと形勢を変えられるのに。己を囲む全方向に対してこれ程までに気を張らず、もっと優位に戦えるのに。
何度も無意識に考えては、彼女が傍にいた場合の己の身の振りの想像して思わず動いてしまいそうになる自分に総司は自嘲の笑みが零れてしまう。
そんな余裕は少しも無いと言うのに。
万が一にも意識する事で迂闊にも体が本当に動いてしまったら致命傷となってしまうのに。
セイがここにいれば――。
ここ数ヶ月で染み付いてしまったセイが傍にいる時の己の体の使い方。
どれほどまでにセイを己が武士として必要としているかを己自身に知らしめる。
守ると言いながらもあまりにセイを必要とし過ぎていて、総司は己が可笑しくて笑ってしまう。
しかし今はこれ以上深く己を省みる時ではない。
それも分かっている。
ただ無心に刀を振るう。
周囲を囲む者含め、この場にいるのは六人。その六人を一手に相手をする。
彼が動けば動くほど、刺客は自分から離れない。
まず総司さえ片付ければその後はどうにでもなる。その位の情報は相手にも伝わっているだろう。
最初に彼自身が取った戦法のように、集団の頭さえ崩れれば後は総崩れになる。そう思って皆が己に引き付けられてくれれば。
今回は寧ろ総司よりもセイだが、そんな事刺客たちが気付く必要は無い。
そう思い、彼から視線を逸らし、再びセイたちの元へ向かおうとする男の目の前に、刀を振るう。
男は身を引くと、総司の刀から逃れ、彼を睨んだ。
そう。それでいい。
総司は口の端を上げるが、男たちはそんな彼の意図を読んだように、再度互いに視線を交わして三人が動いた。
彼らが一斉に納屋に視線を向けた事で、総司は目の前の刀をかわしながら止めようと振り返った。
『守るのは要人の命だけだ。後はてめぇの命をてめぇで守れ。神谷が死んでもな。――それができるなら、行け』
土方の声が耳の奥で響く。
駆け出す三人に気を取られ、隙が生まれた総司を刺客たちは見逃さなかった。
ガッ!
「!」
刀を振り上げ、下ろされる刀を弾くよりも早く、総司の方から赤い血が噴き出す。
しかし痛みを感じるよりも先に、彼は刀を延ばしたが、走り出した男たちには届かなかった。
唇を噛み締めながら総司は目の前の男たちを睨み付ける。男たちも真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。
ただの浪士や山賊とは違う、修練し己の武士道を極め、信念を持つ者だけが宿す強い光。
刀で身を立て、刀で生きる者故の性か、いつもなら強い者と対峙する度に高揚するものだが、今だけはその瞳が憎かった。
彼らは命を賭し、どちらかが倒れるまで戦い続けるから――。
総司は血で濡れ、重くなる肩を庇う事無くそのままに、斬られた事を感じさせないほど自然に刀を構え直すと、目の前の三人を見つめ、目を細めた。
――。
動く。
己に向けて下ろされた刀を受け止めること無く、男の心臓を一突きすると、男は刀を振り上げたままその場に倒れこんだ。
肋骨を折った男は先程の一撃が最後の一振りだったらしく既に倒れており、振り向いて、最後の一人を――。と思うと同時に、ゴォッ!と大きな音を立てて舞い上がった炎が総司の視界の端に映った。
それまで静になっていた感情が一気に噴出して動に変わる。
「神谷さん!」
総司は名を呼んだ。