「セイ」
江戸へ出立の前。土方から指令を受ける前に、セイは松本に呼ばれ、いつものように彼が身を寄せている南部の仮宮へ赴いた。
まるで本当の家族のように迎え入れてくれる彼はセイが普段男として武士として生きる中で無意識の内に張っていた緊張を解してくれる。
それは彼の大らかな性格故か、里乃の元へ訪ねる時とはまた違った親近感が彼女の心を解した。
玄関でいつものように豪快に笑って出迎えてくれた彼だったが、招き入れられた部屋に座すと、それまでの表情から打って変わって急に神妙な顔つきに変わった。
真っ直ぐセイを見据え、松本は重々しく口を開く。
「今回はお前に頼み事がある」
「はい」
彼の表情から察するに余程深刻な内容なのだろうとセイは思わず姿勢を正した。
「とある人物の護衛をして欲しい」
「護衛ですか?」
彼から仕事として頼み事を受けるのは珍しい。普段から彼に依頼され武士という身分を使った方が上手く事が運ぶ話には協力するという事は時折あったが、身分を利用するだけであって、刀を抜く事はほぼない。それは恐らく女子と知るが故に武士としてセイが生きている事は分かっていても自身の頼みくらいはそうした命懸けの場に彼女を送りたくないという松本の配慮であろうが、明らかに刀を抜く事になるであろう話を彼から持ちかけられてセイは少々驚いた。
「正式な依頼は改めて近藤を通して願おうと思う。けれどその前に直接言っておきたくてな」
「――」
「お前が刀を振るう姿を見た事がないし、武士ではないから実際どのくらいの腕が立つのかは分からねぇ。それでも剣豪と呼ばれる沖田を師事し、直接指導を受け、一番隊にもいるし、近藤たちに聞いても十分信頼できると聞いている」
松本が言いたい事の意味を量りかねて、セイは眉間に皺を寄せる。
「護衛中、恐らくは――引っ切り無しにかなりの腕の剣客が絶えず襲ってくる」
「…それ程の重要人物ですか?」
「それは答えられねぇ。悪いがその人物については何も語る事は出来ねぇんだ。ただな。かなりの強者の剣客が恐らくはそいつら自身も命懸けで襲ってくる。人の命を守りながら己の身を守り、戦い抜かなくてはならねぇお前たちの方がかなりの不利になるだろう――一瞬でも気を抜くと本気で命を落としかねねぇ。それ位の覚悟が必要だ」
「私は新選組に入った時からいつだって武士として死ぬ覚悟は出来てます!」
自分が任務を全うするその為に命を懸ける覚悟も無い人間と思われたようで矜持に障り、セイはすぐさま反論するが、「そうじゃねぇ」と諭すように松本は彼女の言葉を否定した。
「そうじゃねぇんだ。死ぬ覚悟はいらねぇ。護衛する人物を守りながら、必ず送り届ける覚悟が必要なんだ。旅の途中で死んでその後守れなくなったら何の意味もねぇんだ。どんな事をしてでも絶対に到着地まで送り届けて欲しい」
護衛をし、その人物を守り、送り届けるのは当然の事だ。ただその道中で何が起こるかは分からない。かなり腕の立つ剣客が襲ってくると言うのなら命を懸ける覚悟だって必要だろう。
けれどその結果命を落としてもそれは仕方がないと思っていた節があったとセイは松本に諭され衝撃を受けた。
要人を守り抜き、命を落とした。それは武士として美談であろう。しかし守られた要人は目的地までその先もまだ旅を続けなくてはならない。剣客はその後も要人を襲うだろう。それを防ぐ人間がいなくなってしまうのだ。目的地まで送り届けなくては何の意味も無い。
その為には要人の身を守りながら、その人物を守る術となる己自身の身も守らなくてはならない。
改めて意識すると、その責任の重さにセイは身を硬くした。
「もし無理なら他の人間に頼む。――しかし今回ばかりはセイに頼みたいんだ」
娘のように大切に思っているセイをそんな命懸けの任務に就けたいとは望まないのだろう。苦虫を潰したような表情でそれでも声を絞り出して松本は願いを伝えた。
「しかも言い方は悪いが替えの利く様な人数で行動はして欲しくねぇ。その分狙ってくる相手の数も増えてくる。少人数でそれこそ隠密に動いた方が動きやすいはずなんだ。その旨も近藤には伝えるから本当に少人数での旅になるだろう。そんな役目をお前に買って欲しい」
「――はい」
「セイ」
「はい」
「絶対に死ぬなよ。――沖田の為にも」
そう。この命は総司を守る為のもの。
新選組に対しての依頼であり、それにセイを指名するのならセイは素直に受ける。
しかし本来命を懸けるのは要人の為ではない。
万が一総司が命危うくなるその時に盾になる為のもの。
どれ程危険な任務かは松本の表情、言葉、纏う空気から伝わってくる。
「生きて京に戻ります」
セイははっきりと答えた。
松本が嘘を吐くとは思っていない。時に誰かを守る為に誇大に表現したり、大法螺を吹いたりするが、命懸けの事に関して言うはずもない。
しかし、松本に命の心配をされた時に、気を引き締めなくてはと思ったと同時に心の何処かで随分大げさに言うものだと思っていた。
正直言ってセイは少し浮かれていた。
松本と会った後、間も無く近藤から改めて任務を与えられた。総司と二人きりでの要人護衛。
最近の総司のセイに対する待遇に不満を持っていた彼女は、久し振りに彼の傍で誰よりも近くで戦える事に喜びを感じていた。
最近の彼はセイを後方に回したがる。いつでも真っ先に敵に正面からぶつかりに行って叱られる事は多々あるが、確かにセイは医学の知識もあるし、不測の事態の咄嗟の判断と機転が早く後方で動く方が向いている面はあると本人も自覚もしている。それでもいつだって彼の背中を守り、彼自身の楯になれるように傍にいたいと願っているのに、彼は適材適所とばかりに後方にセイを配置する。不満は日々募り、何度かそれとなく聞いてみたりもしたがいつも明確な返答は無い。しかし、修羅場でこそ自分本位な行動が仲間の命を奪いかねないのも幾度も重ねた経験から身に染みて分かっていたので深く追求する事も出来ず、結果的に何も言えず従うしかなかった。
それが久し振りに総司の傍で共に戦える、その喜びは、本音を言えば任務の覚悟よりも勝っていた。
しかし、すぐにそれは覆される。
――松本の助言は正しかった。覚悟が甘過ぎたとすぐにセイは己を恥じ、反省した。
最初に出くわした剣客は並みならぬ強さだった。
新選組随一の剣豪と言われている総司でさえも恐らくはその剣客の中で主犯であり一番の強さの人物を相手にしていたとはいえ、苦戦を強いられていた。
セイ自身は他にも襲い掛かる剣客から己の身を守るのが精一杯で、彼女の目の端と刀の届く位置に要人である姫と付きが常に動いてくれたから守りきれたようなものだった。二人の判断の素早さは目を見張るものであった。まるでこれまでこうした修羅場を幾つも潜り抜けてきたかのように的確で、守りやすかった。
しかし護衛として要人の機転に甘えてばかりはいられない。
彼女らを守る事が使命なのに、その護衛すべき人物の機転の良さで救われた。
最後には総司が決着を付けてくれたから良かったものの、長引いていたら本当に旅立ち早々命を奪われていたかも知れない。
そんなあったかもしれない未来と戦いを思い出してセイは肩を震わせた。
そしてすぐさま判断と決断をした。
今のままの自分たちでは江戸までの旅を乗り切る事は無理だと。
「足元に気をつけて下さい。この崖は下の沢まで距離がありますから落ちたら大変です」
先頭を歩くセイが暗闇を一歩また一歩と慎重にそれでいて足早に進む。
右も左も叢と木々が生い茂り、空を覆い隠すように茂る木々は夜の闇を更に深くする。
そんな中、彼女の手に持つ提灯の明かりだけを頼りに山道を歩いていた。道さえも道ではない、人の足で踏みしめられた街道とは違う、僅かな獣道のような山師が使うような道を。
大抵の人間は夜に山越えなどしない。
山と山の間に点在する宿場町を頼りに道を進め、日が昇ると同時に旅立ち、日が落ちる前に宿に入り疲れを癒す。夜の山道は森が道を覆い隠し、人を迷わせ、また夜陰に潜む山賊が襲いかかる。昼間でさえ人通りがあっても危険な山道を夜に歩く者は命知らずか訳あり者くらいだ。
そこを逆手に取り、セイや夜の山道を選んだ。
「そう言えばあの男たちは随分あっさりと引いていきましたよね。頭と思われる人物が倒されただけで」
「本当に統制の取れた隊に所属している者は攻め際と引き際を心得ているものですよ。相手に隙があれば透かさずそこを突き、引き際を先に命令されていればその通り誰一人違う事無く従う」
「この場合は頭が倒されれば引くような命令が出ていたのでしょうか?」
「それは分かりませんがあれだけ統制の取れた攻撃を繰り出してきましたから、背後には命令する別の人物がいるのでしょうけど現場の舵を取る頭が倒れれば一旦陣営を組み直してから来るなと思ったので予測通りになってよかったです」
前方を守るセイの後ろに姫と付きを挟み、後方を守る総司が本当に心の底から安堵の息を漏らすその息遣いが聞こえ、セイは身を硬くした。
普段飄々と目の前の敵を倒していく彼でさえも安堵の息を零すのだ。どれだけ実は苦戦を強いられていたのかが伺い取れる。
「けどそれだけ統制の取れているということはかなりきちんとした組織に狙われていると言う事と、統制の取れた組織は武士の力量の差もきちんと揃えてきますから、これからも相当な強者ばかり襲ってくるという事です。うちみたいに統制を取ろうとしても組長からして自由奔放なところとは比べ物になりません。組織で動かれると隙が無いですからね逆に少しでも隙を見せれば一発で終わりでしょうね」
突然声色を下げて言う総司にセイは無意識に涙が溢れてきそうになったが慌てて堪えた。
泣いている場合ではないのだ。
恐らくはこれから先も自分たちが選ぶだろう江戸までの道を予測され、そしてそこにはきっと今日以上の強者の剣客が待っている。
そんな者たちと面と向かって戦い続ける事は出来ないのだ。
総司はまだしも、セイにはそれを潜り抜けられるほどの力量が無い。
悔しくても仕方が無い。それが事実なのだから。
だから五感全てを研ぎ澄ませる。
沢の音、風の音、足音、人の息遣い、炎の揺らめき。
これからの行程。予測されている道程、もしかしたら自分たちが気付いていないだけで今この時も追尾されていて、この先に剣客を配置されている可能性。
先の事、これまでの事、護衛するべき人たちの体力、セイと総司の体力、食料と水。
何処かに落ち度は無いか、より安全なたびをするには何を選び、どう行動するか。
全てに感覚を働かせる。
そうでなければ――死ぬ。
今まで何度も死を意識した事はあったが、それは何処か『死ぬ』事に対する覚悟だった。
『生きる』を選択するする者に『死』が常に迫りくる感覚を持つのは初めてだった。
死とはこれ程までに怖いものだっただろうか。
セイの頬に一筋の汗が伝った。