■千尋最強伝説・56■
夜の帳はすっかり落ち既に暗闇で染められ、月の光が僅かに小さな部屋に差し込んでいる。
その室内に一人座り窓の向こうから聞こえる漣の音に耳を傾けていたハクは、ゆっくりと息を吐き、そして周囲を見渡す。
元々私物も最小限しかなく物の無い部屋は片付けられた事で、更に殺風景になってしまった。
ぼんやりと己がどれくらいの月日かは忘れてしまったが過ごした部屋を眺めているハクの耳に、小さな足音が聞こえる。
音だけで分かる。
ハクはくすりと笑うと、音の主がひょっこりと顔を出すのを待っていた。
「ハク?お片付け終わった?」
覗きこむのは千尋。
ハクは振り向き手招きをすると、千尋はちょこんと彼の前に座った。
「お疲れ様。ハク」
「お疲れ様。千尋」
柔らかく微笑む千尋に、ハクも笑みも浮かべる。
長い一日だった。
雷神の部屋を辞し、湯婆婆にそのまま彼女の部屋まで連れられ、そして彼がこの湯屋に最初に来た時に交わした契約書を手に受け取った。
「馬鹿だねぇ」と呟く彼女の音には何処か寂しさが微かに混ざって気がするのはハクの気のせいかも知れない。
引き出しに仕舞われていた千尋の契約書は湯婆婆の掌の上で燃え、黒墨になって中空に消えた。
「ハク。今日までご苦労だった。明日にはもう従業員じゃないんだ。働かない奴はさっさと出てってもらうよ」
そんな風に鼻を鳴らしながら言い放つ湯婆婆はもういつも通りの勝気な女主人で、先程まで見せた憂いの表情はもうどこにも無かった。
銭婆婆はそんな湯婆婆を見て、「素直じゃないねぇ」と言いながら笑みを浮かべ、ハクの背を押した。
「さぁ。答えにやっと気づいたんだ。後は分かっているだろう」
その言葉に、弾かれる様に駆け出したハクは兄役や夫役への仕事の引継ぎを始めた。
千尋とは殆ど会話も顔を合わせる事も無いまま、彼の油屋での仕事納めとなるその日の仕事を営業終了まで勤め上げた。
文机に置かれてる帳簿の最後のページを閉じると、表紙に手を載せる。
その中にあるのはハクが確かにこの湯屋で積み重ねてきた月日の年輪だ。
「…ハク…ハクはもっとこちらの世界にいたかった?」
何処か不安気に、意を決したように顔を上げ、問いかける千尋に、ハクは首を傾げる。
「どうしてそんなことを?」
「何処か、ハクが寂しそうだったから…。ここがハクの居場所になってたんじゃないのかなって」
「――」
ハクの中で無意識だった千尋の指摘に思わず息を飲んだ。
「ハクは私と一緒にいてくれる事を望んでくれたけれど、それはこの世界でもいいのよ?」
そう彼の意思を確認をする千尋に、ハクはまた一つ息を飲み、そしてゆっくりと吐いた。
彼女はいつだって、ハクを優先する。
「千尋。私は、そなたと元の世界に戻るよ。それが私の望みだ」
「でも…」
「言われて気づいたよ。――確かに私はこの湯屋が私の居場所だった。川が無くなり、何処にも行き場のなかった私の居場所になっていた。けれどね。それは千尋がいなかったから。そして千尋と再会するまでの居心地のよい言い訳の場所になっていた」
湯婆婆の弟子になる為にこの湯屋で働き始めた。
けれど、それは居場所が無く消えるしかなかった彼の再び川に戻る為の手段と思いながらも、どんな内容であれ必要とされ、任される仕事が増えていく事で、確かに彼自身の居場所になっていた。
千尋がこの街に迷い込み、彼女を元の世界に送り出してからは、再び彼女の元へ行く為の手段を得るまでの繋ぎという言い訳をしながらも、既に確立された地位と職種がある逃げ道となっていた居場所だった。
明日、元の世界に戻り、その後どうやって千尋と二人で生きていくのかは全て未知数で、手探りの状態だ。
その事に怯み、今までのハクは一歩を踏み出せずにいた。それを嫌と言うほど突き付けられた。
雷神に。ではない。千尋に。
結果的にそれを見抜いていた雷神の興の一つになっていただけだ。
彼女はきっと自分の行動が、ハクを脅かしていたとは少しも気付いていないだろうけど。
きっと彼女が言うように、この世界で二人で生きていくという選択肢も、二人でこの湯屋でこれからも過ごしていくという選択肢もあるだろう。
それはきっとまた、今回のように神々に興として弄ばれる事もあるだろうけれど。
けれど、それはもう、ハクは選ばない。
「私は、千尋には元の世界に戻って、母君や父君と共に年を重ねていって欲しい」
千尋は、ハクを選ぶ事で、全てを元の世界に置いてきた。
家族も友人も、それまでの経験も、地位も。何もかも。
千尋にはハクを選ぶのならその選択肢しか用意されていなかったから。
そうさせたのは、誰でもない。ハクだ。
彼が言い訳をして怠惰したせいで、彼女に選択させた。
だから、ハクは千尋の捨てたもの全てを拾い集める。
「私は千尋や千尋のご両親やそなたの友人、そなたが生きた世界で、そなたがそなたになる為に作り上げた全てと共に生きていきたい」
「…お母さんやお父さんとまた会えるの?」
千尋のハクを覗き込む瞳の奥の光が揺れる。
(ほら。やっぱり)
ハクはくしゃりと顔を歪め、微笑み、頷いた。
選んできた選択の為に、捨ててきたものに彼女自身が本当に必要が無くて捨ててきたものなんて一つも無い。
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■千尋最強伝説・57■
今まで何処かずっと何かと戦っていた表情をしていた千尋の表情が、初めて緩んで、やっと本当の笑顔を見せてくれた。
ハクは頬を緩めて嬉しそうに笑う千尋を見てそんな事に初めて気が付いた。
きっとそれはこの世界に再び訪れた時からずっと彼女は戦っていたのだ。
ハクと共にいる。その選択肢。その未来を選び取る為に、たった一つだけの道を選び取る為にいつだって気を張り詰めて、彼女はここで過ごしていたのだ。
一度この世界を迷い込んだ時に、この世界のルールの上で生き抜き、そして元の世界に戻った。
だからこそ、この世界の、神々さえも覆す事の出来ない、ルールの厳しさそして残酷さを知っている。
その中で懸命にハクと共にいる方法を模索していた。
「私は本当に不甲斐ないね」
千尋が己に頼ってくれないと嘆くのはおこがましい。千尋はきっとそんな気持ちさえなく、ただ一心にハクと共にあろうとしただけだ。
だから言うのなら、二人で共にある為の道を二人で築いて行こう。
そう千尋に考えさせる事にさえも至らせなかった己が情けない。
自嘲するハクに、千尋は何処か不安気な表情を見せながら彼を覗き込んだ。
「…ハク…私、本当にハクのお嫁さんになっていいのよね?」
真っ黒な瞳が何処までも透き通っていて、それでいてその奥に真の強さを見せる彩光は彼女の心そのままだ。
彼女は何処までも純粋だ。
何処までも誰よりもハク自身よりも彼を信じていて、今も尚彼の至らなさに気付いている様子もない。
だから、彼が何処か憂う様子を見せれば、千尋は自分自身こそが何か至らなかったのだろうかと不安になっている。
誰よりもハクを大切にしてくれる千尋だからこそ。
彼女を大切にしてくれる者たちの為にも。
彼女が大切にしているものを全てハクが拾い集めてみせる。
「私はそう望んでる。千尋は怖い…?」
決意を滲ませながら、ハクは千尋に問いかける。
すると、彼女がふるふると首を横に振った。
「ううん。本当はお嫁さんになりたかったから嬉しい。――けど、器にならなくても一緒に帰れるのよね?」
人間である彼女には元の世界での神の在り方は分からない。
雷神とハクの会話で願いは叶ったのだろう事は理解できても、現実感は無かったのだろう。
「大丈夫だ。私の核になる力が戻ってきているのを感じているから。神として、夫としてそなたを守る」
千尋の桃色の頬に己の手を寄せ、ハクは優しく囁く。
そうすると、彼女はその掌に頬を寄せ、眦に涙を浮かべると、幸せそうに微笑んだ。
十歳の幼かった頃のあの頃の柔らかな頬とは違う、皇かな一人の女子としての素肌の熱がハクの掌に伝わる。
分かっていたはずなのに。
何度でも、はっとさせられる。
彼女はとても綺麗になった。
男を魅了する一人の女性として。こんなにも美しく成長していたのだと。
さらりと流れる髪がハクの指に触れ、彼の芯を振るわせる。
「私、うんと長生きするからね!そしてね、一杯子ども作ろうね!私が…この世からいなくなっても、ハクが寂しくならないように」
その言葉に――。
ハクは、涙が毀れそうになった。
決断したはずなのに。
それでも。
いつかこの掌に触れる存在は、必ずハクより先に逝く。
それを想像するだけで。
今、ハクの命が止まりそうだ。
それでも。
決めたのだ。
千尋がハク共にある為に生きる事を決めてくれたように。
ハクも千尋の為だけに生きるのだ。
「…分かった。私がそなたが常世から迎えに来てくれるその時まで家族を護り続けよう」
それはいつか必ず。
共にいられる命の長さはどれ程かは分からないが。
神と人間である以上。
おそらくは。
短い。
抱き寄せる体はとてもか細い。
それでもとても暖かく、柔らかい。
ハクの全てを包み込んでくれる程に大きい。
「うん…必ず迎えに行くから。いっぱい…いっぱい…抱き締めてね…」
細い腕がハクの背に回る。
ハクが千尋を抱きしめているはずなのに。
千尋にハクが抱きしめられているようだ。
「ああ…」
そう千尋の耳元で、ハクは千尋の全てを包み込む為に、囁いた。
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■千尋最強伝説・58■
――青い草原が広がっている。
青い空に流れる雲は、何処までも続く草原と対になり地平線のその向こうまで続いている。
時折吹く強い風は、遠くに見える赤いモルタルのトンネルに吸い込まれていくようだ。
千尋は商店街の階段を降り、今別れを告げたばかりの油屋を振り返った。
今日の湯屋の準備が既に始まり、煙突からは煙が空に昇っている。いつもと同じはずなのに釜爺が千尋を見送る為にいつもより広く空に広がっている気がする。
良い事も悪い事もあったが、この世界では嫌われている人間である千尋も二度も受け入れてくれ、生きる術をくれた大切な場所。
ハクと再会できた大切な場所。
そう思うと、自然と千尋は頭を深く下げた。
「ここで見送るのは二度目だな」
見送りで隣を歩いていたリンがにやりと笑う。
「うん。リンさんありがとう」
笑う千尋に、リンは何処か驚いた表情を見せ、そして、ふとまた笑みを見せた。
「やっぱ好きな奴に抱かれて幸せそうだな。千」
「!…うんっ!」
やはり湯屋がそういう事を提供する場所でもあるが故かリンも長年の経験故か的確に見抜く。
千尋はその事に少し恥ずかしくなり頬を染めながらも、大きくうなずいた。
彼女には今回の再雇用の件でも、雷神の件でも心配をかけたのだ。だからこその言葉に、千尋はリンには真っ直ぐに答えたかった。
「頑張れよ。幸せになるんだぞ」
千尋の背を押すリンの言葉に、千尋もまた応える。
「リンさんも!幸せになってね!」
「おうよ!」
これで本当にもう二度と会う事は無くなるかもしれない。
それでもきっと互いの幸せは願い続ける。
「ちゅう」
先ほど橋の上で人の姿で手を振っていた坊は、街の外まで見送りをする為に鼠の姿になっている坊が千尋の肩に乗り、頬を摺り寄せる。
「坊もありがとう」
「ちゅう」
千尋の言葉に坊は小さく声を鳴らすと、ゆっくりと離れた。
階段を下りればそこはもう『あちら側』と『こちら側』になる。
今の坊にはまだ草原を越える術は無い。
『いつかまた』
そんな言葉を果たせるかどうかなんて分からない。
もしかしたらもう二度と会えない。
千尋は坊を見下ろし、そしてリンを見る。
その事を二人は、見送ってくれた湯屋の皆は分かっている。
それでも千尋はハクと共に元の世界に戻ることを決めた。
隣ではハクが千尋を見て、何処か寂しげに微笑んだ。
彼も分かっている。
普段飄々とした表情しか見せない彼も、彼女よりずっと長くこの世界にいたのだ。割り切れるほど冷徹ではない。
本当にとても優しい竜だから。
千尋はぎゅっと己の掌を握り締め、そしてハクの手を握った。
「ハク。行こう!」
笑顔で告げると、ハクもきゅっと口元を結び、そして微笑んだ。
「本当に千尋には敵わない」
そう言って、彼は千尋の手を引き、階段を一段降りる。
一歩。また一歩。
踏み出したら、もう後ろは振り向かない。
風が追い風になって二人の背を押す。
草原を駆けて、赤いモルタルの門を抜ける。
十歳のあの頃と同じ。
隣に歩くのは、あの時一度別れた人間の少女と白い竜。
暗いトンネルを抜け、やがて出口から光が差し込んでくる。
空気がゆっくりと変わっていく。
神の世界から人の世界へ。
そして、短くて永い時を二人で共に生きていく――。
終
2020.05.06up