残すもの

『一度会ったことは忘れないよ。覚えていないだけで』

緑の木々がさやさやと風に揺れる。
鳥居を超えて一歩踏み込むと、誘うように風が参道の奥へと吸い込まれていく。
千尋は自分を迎えているような気がして、その風に誘われて境内の中を歩いていく。
幾程と歩く参道の両側には小さく光の灯った石灯篭が千尋の進む道を照らしてくれる。
真昼の太陽は木々に遮られ、その光を弱めながらも足元を照らしてくれる。
緑に包まれた世界の中を導かれるままに歩くと、一つの社に辿り着く。
小さいけれど、きちんと手入れの届いた社。
それでいてどの位昔に立てられたのか分からないが柱は長い間陽に晒されて黒く変色している。
扁額に彫られている神社の名前は擦れて読めなくなっていた。
それでも社は露を払い、境内は落ち葉を払い、清め、整えられていた。
鳥居を越えると変わる空気に、千尋は少しの畏怖と、そして何処か懐かしさを感じる。
それは、いつもここで出会う少年と初めて出会った時から、何処かで会った様な気がする親近感を抱いているのと似ているからかもしれない。

「千尋。よく来たね」
いつも何処からともなく、その少年は現れる。
白い水干を纏った、短く髪を肩で切りそろえた少年。
初めて見た時は、何処か昔の人がひょっこり現れたのかと思った。
本来なら突然現れた人影に脅えるはずだろうに。
けれど、驚きと同時に胸に溢れる温かい感情が一瞬にして千尋を飲み込み、涙となって零れ落ちた。
それから、彼と会うのは千尋の大切な日課となった。
「ハク」
今日も出会えた彼の名を呼び、そして千尋は出会えた事に安心する。
毎日。毎日。
もう幾度もこうして会っているのだから、いい加減そんな感情も落ち着いてもいいだろうと千尋自身も思うのだが、毎日毎日繰り返される焦燥と安堵。
これだけ千尋の中で大切な存在として占めているのだから、きっと何処かでやはり会っているのだ。
何処かで会った事がないだろうか?そう問えば、彼は「千尋はどちらだと思う?」そうはぐらかされた。
けれど、初めて出会ったのなら、こんなにも湧き出る温かい感情が彼と出会っただけで生まれてくるはずがない。
だから、千尋は確信している。
いつか、何処かで、千尋はハクと大切な約束をした。と。
そして、それは果たされたから、今ここにいる。
「ねぇ!ハク見て!」
そう言って、千尋は自分の纏っているスカートを手で摘むとにこっと微笑んでみせる。
千尋の精一杯の自分を綺麗に見せる為の方法だ。
「制服だね。とてもよく似合ってる」
紺色の襟と白いシャツ、同色のプリーツスカート。
今まで私服だったのが、制服を着るだけで、少しだけ大人になったような気がするから不思議だ。と千尋は思う。
そんな彼女の姿をじっと見つめると、ハクは柔らかく微笑んだ。
「うんっ!」
褒められる事に頬を染め、千尋が微笑むと、ハクは目を細める。
「千尋は幾つになったんだ?」
「十二歳!」
「そうか」
何処か懐かしそうにハクが言葉を零し、視線を下げる。
時折する、彼の仕草。
それは、きっと、千尋が覚えていない何時かあった彼と自分の思い出を思い出している、そんな気がして、千尋も黙ってしまう。
ここで、彼に謝るのは違う気がして、けれど、記憶を辿ろうと彼に求める事も出来ず、何も言えなくなってしまう。
彼が求めているのは、千尋に思い出してもらう事ではないのだろう。
そんな気もするからだ。
だから、彼は何も言わず、見せた表情も一瞬だけで、きっと千尋が彼だけをずっとだけを見つめ続けなければ気付かない程僅か。
ハクは顔を上げると、にこりと微笑む。
「中学生になるんだよね?」
「そう」
「楽しみだね」
そう自然に語りかけられると、千尋は口を噤んでしまう。それを不審に思ったハクはきょとりとして、首を傾げる。
「楽しみではないのかい?」
「…楽しみなのよ。楽しみだけど…ハクと会える時間が少なくなっちゃう」
中学生になって勉強や部活がどんなものになるのか楽しみだ。
中学校は小学校からの友人たちも来るけど、それ以外の校区からの生徒も入ってくる。新しい友人が出来るかも知れないと思うとわくわくする。
一方で、授業数が増え、部活に入ると、ハクのいるこの神社へ参る時間は圧倒的に減ってしまう。
入学式後に配られたプリントを見て、千尋は驚いてしまった。
こんなにも時間割が朝から夕方まで一杯に埋まるのかと。
体験入部として色んな部活動を友人と見学して回って、そこで活動の時間帯を聞かされて更に驚いてしまった。学校のある日だけではなく休日にも部活動があるのかと。
それはとても充実していて楽しそうだと思う反面。ハクとの時間が減ってしまう。
毎日学校が終われば、千尋は一目散にこの場所へ向かっていた。休日には一日中ここにいた。
けれどこの神社は周囲が森で囲まれていて、陽が落ちるのも早い。部活を始めたら夏はまだいいかも知れないが、秋になればきっとここに来る頃には暗くなり始めて家族が心配するし、何よりハクが来る事を望まなくなるだろう。
それは、幾度か既に経験している。
ここに来た最初のきっかけは覚えていない。ただある日この神社の鳥居を見つけて、そしてハクと出会った。
それからずっと、千尋はハクに会いに来る。
きっと、これからも変わらない。
それは誰よりも千尋が望んでいる。
一日だって来ない日はない。
それが変わる事を望んでいない。
そんな千尋の思い詰める表情を伺い、そして、ふっとまた小さくハクは笑う。
「それは仕方が無いよ。千尋は人間の世界で生きているのだから」
ハクは人間ではない。
それは、出会った瞬間に理解した。
けれど、――少しも恐くなかった。
神様でも妖怪でも、精霊でも何でも構わない。
ただ、ハクと、この神社で、会えた事。一緒にいられる事、それが千尋にとって一番の大切だった。
「…ハクは、一人で寂しくない?」
寂しいのは千尋だ。
それを誤魔化すように、ハクに答えを求める。
すると、ハクは苦笑する。
「千尋がいるから平気だ」
「だって、これからもっと来れなくなっちゃう!」
こんな風にここにいられる時間が減ってしまう。その事に寂しくないかと問うているのに分かっていないのかと千尋は訴えるが、ハクは微笑んで、首を横に振る。
「ここにいる。という話ではなく、千尋がこの世で生きてくれている。それだけでいいんだ」
「どういう…」
「私は千尋が生きて――息衝いてくれている。それだけでいい」
それは神様だからなのだろうか。
生きる時の流れが異なる存在だからなのだろうか。
人間の感傷は彼にはないのだろうか。
「…そんなの…」
千尋の瞳にじわりと涙が浮かぶ。
それでも、ハクはただ何処か全てを悟っているかのように静かに微笑む。
「千尋はただ人の世で懸命に生きてくれればいいんだよ」
諦めではない。
ただ、ただ、千尋がここにいる。
生きている。
ハクと同じ世界に存在している。
それでけを喜びにしている。
それが感じ取れて。
嬉しいだけではない感情が、千尋の胸を染める。
「私は…寂しい」
それが人間だけが持つ感情だとしても。
ハクは千尋の言葉に、驚いたように瞬いた。
けれど、それも一瞬――。
「大丈夫だよ。千尋。大切なものがこれからもっと一杯溢れる。寂しくなんかないはずだよ」
千尋を安心させるように優しく囁く。
そうじゃない。
そうじゃないよ。ハク。
千尋は首を振る。
「私は。私は大切なものが沢山増えても。これからもっと沢山のものを見ても。ハクが大切は変わらない。ハクが傍にいないと私は寂しい」
「――」
何処か泣きそうになってハクの瞼が一瞬細められたのを、千尋は見逃さなかった。
ハクは知っている。
人間の千尋が言う、『寂しい』という感情を。
ハク自身が抱いている。
「私の一番は、ハクだから」

突風が二人の間を抜けた。
激しい風が千尋の制服を煽り、髪が巻き上げられる。
木々が激しく揺れ、軋む音と、風が打ちつけられる音が、静寂を一瞬にして覆す。
容赦無く顔面に叩きつけられる風圧から守る為に瞼を閉じ、腕を翳した。
折角ハクに見せる為に綺麗に整えた制服も、髪も滅茶苦茶だ。
激しく吹き荒れる風は次第に収まり、ゆっくりと瞼を開いて、千尋は顔を上げた。
目の前にいたはずの少年は、気が付けば、目の前まで近付き、千尋の荒れた髪を撫でると整えた。
今までずっと毎日傍にいたはずなのに、こんなにも近い距離にいたのは初めてだ。
少し離れた距離から見ても、白磁のように白い顔に整えられた黒い髪はとても綺麗だと思っていた。
時折木漏れ日が注がれた時は髪色が何処か紺碧にも見えたりした。
間近に見る表情はとても繊細で。
瞳の色が大きな瑠璃がはまっているみたいに透き通っていて、それでいてちゃんと脈動していて。
普段大きく感情を見せず、何処か仮面のような微笑を湛えていたように見えていたけれど。
瞳の奥に波紋が大きく小さく振れて。
今にも泣きそうで。
それは悲しそうでもあり。
嬉しそうでもあって。

人間と変わらない――。

『竜は優しいよ』

『優しくて。愚かだ』

そう言ったのは誰だっただろうか。

「ハクが私だけのハクだったらいいのに」

2022.04.09