■千尋最強伝説・1■
「たのもー!」
油屋にその日、少女の声が響いた。
誰もが知るその少女は、以前会った時よりも、少しばかり背丈が伸び、細かった折れそうな印象から、丸みが増し何処か女性らしくなり始めていた。
しかし誰もが知るその少女は、もうこの店に来る事はきっと二度とないだろうと、誰もが思っていた。
だからこそ、皆一様に驚いた。
そして誰もが同じ事を叫ぶ。
「どうしてここにいるんだ!千!」
今から数年前、この不思議の町に迷い込み、ハクの手助けのもと、もとの世界へと帰っていった人間の少女は、再度油屋の暖簾をくぐり、かつての仕事仲間の前に姿を現した。
手に抱えているのはスポーツバッグ一つのみ。
白いシャツに、ホットパンツの軽装で、この旅館の宿泊客かと思えるほど軽装だった。
「お久し振りです!」
この油屋で『千』という名で働いていたこの世界で唯一の人間の『千尋』は驚愕の形相でこちらを見る従業員に深々と頭を下げる。
「千が来たって本当かっ!?」
けたたましい足音と共に、一人の女性が千尋の前に現れる。
「リンさん!」
その姿を見止めると、千尋は嬉しそうに声を上げた。
以前の小湯女姿から白い水干に朱色の長袴を纏った白拍子姿に変わっていた。
長い黒髪と凛とした瞳はそのままで、大人の女性としての艶を醸し出すその姿は千尋にとっても魅力的に映った。
「久し振りだな!千!けど、どうしてお前がここに?」
リンが首を傾げる後ろから更に複数の足音が聞こえ、彼女たちの数歩後ろで立ち止まる。
足音の主の姿を認めた千尋はリンを見止めた時よりも更に嬉しそうな表情で笑った。
「ハク!」
千尋がこの町に迷い込んできた時よりも幾分か背が高くなり、水干ではなく狩衣を纏った青年。
深緑の瞳は更に深みを増し、白磁のような肌が瞳の強さをより強調する。やや青みがかった黒髪は肩下まで伸び、髪を首の後ろで一括りにしていた。
彼の後ろには父役や兄役が控え、こちらを見て驚いていた。
「…本当に千尋なのか?」
ハクは信じられないとばかりに目を見開き、千尋の傍に近付く。
そしてリンと同じ問いを口にした。
「どうしてここへ」
その問いに千尋はにっこり笑って答えた。
「ハクを迎えに来たの!」
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■千尋最強伝説・2■
千尋の言葉に、ハクは何も言えずに、ただ目の前の千尋を見つめ続けた。
そんな彼の様子を気にせず、千尋は話を続ける。
「ハクが別れる時に、『元の世界に戻る』、『いつかきっと会える』って言ってくれてたから私待っていたのに、何時まで待っても帰ってこないから迎えに来たの!きっとおばあちゃんとの契約が上手く終われないんだなと思って。良かった。まだここにいて!もしかしたら銭婆婆おばあちゃんの所かもとも思ったのよ。油屋なら私も一緒に働いて早く終わらせたら一緒に帰れると思って来たの!」
「…そんな理由で?またこんな危険を冒して?」
信じられないとばかりにハクは呟く。
「ハク、私、もう18よ。このまま待ってたらおばあちゃんになっちゃう!それにね、10歳の頃よりは少しは色々勉強したのよ!前にハクが食べさせてくれた木の実も見つけてもう食べてきたし!消えても豚にもなっていないでしょ?」
千尋は掌を翳し、自分の姿がこの不思議の町にいても消えない事を、ハクにも証明してみせる。
「それで、ハクは後どのくらい働けばいいの?」
「…いや……」
「あ、そうか、おばあちゃんに直接聞けばいいわよね!ハク、今おばあちゃんいるかしら?」
戸惑うハクを余所に、どんどんと話を進めていく千尋の姿をずっと見守っていたリンは我慢が出来なり、噴出す。
「千、強くなったなー!すげーっ!ハク様たじたじだぜっ!」
リンに吊られて周りの従業員も笑い始めた。
「え?え?私変な事言った?」
「いんや!あの頃から比べもんにならないくらい千が成長しててびっくりしたんだよ!ハクの方が全然成長してないぜ!」
「リン!」
リンの感想に、流石のハクも諌める。
「だってそうだろ!湯婆婆の契約が上手く終われなくて、千にも会いにいけなかったハク様の役を早く終わらせる為に態々迎えに来てくれるなんて格好良すぎだろ!オレだってハク様がいつ千の元に行くかと思ってたら、ずっと何年もここにいるんだもんなぁ」
千尋の横に回り、リンは彼女の肩を抱くと、豪快に笑ってみせる。
「やっぱりそうだったんだ!」
「千尋!現世での生活はどうしたんだ!?」
ハクは千尋にそれ以上追及される事をおそれ、、無理矢理話題を変える。
「もう学校なら卒業したもの。18歳になればそのまま勉強してもいいし、働いてもいいから、私、ここに来たの!」
「ご家族だって心配しているだろう!?」
「大丈夫よ。住み込みで働く事にしたって置手紙書いてきたし」
「それでもこの世界に来てしまったら音信不通になってしまうから心配するだろう!?」
「それも平気。今後一切連絡は取れないけど心配しないで下さい。連絡は取れないけど千尋は元気で暮らしますって書いてきたし。だからもしこの世界から帰れなくても大丈夫!」
あっさりと答える千尋に、ハクは唖然とした。
リンは隣で爆笑している。
「千、すげーっ!」
それ以上何も言えなくなったハクに、千尋はにっこりと微笑んで見せた。
「ハク、頑張って一緒に帰ろうね!」
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■千尋最強伝説・3■
「あんたはまた性懲りもなくここに…」
「働かせてください!」
「あんた…」
「働かせてください!」
「だ…」
「働かせてください!」
「黙らんかいっ!」
「働かせてくださいっ!」
今回は正面玄関から堂々と湯婆婆の部屋へとハクに案内され通された千尋は、湯婆婆の姿を見るなり、深く頭を下げたかと思ったら、湯婆婆が何かを口にするよりも先に懇願し始めた。
一頻りの応酬を終えたところで、二人は互いに睨み合い、じっと視線を逸らす事は無かった。
ハクは二人の気迫に、思わず一歩下がり、何かを言い出す事も出来ず見守る事しか出来なかった。
ピリピリとした緊張感が続く。
「センー!」
突然隣の部屋から上がった子どもの声に、張り詰めていた部屋の空気が一気に弛緩する。
すると、隣の部屋から、千尋が十歳だった頃は赤ん坊の姿だった坊が幾分か成長した姿で、彼女の前に現れた。
今は腹巻姿ではなく、以前のハクと同様に子供用の水干を纏っていた。
「坊!」
千尋は坊の姿を認めると、つい今までの張り詰めた表情から笑顔に一気に変わり、やはり幾分体の大きい坊に抱きついた。
「セン!久し振り!ばーば、センここにいるんだよね!?」
「そう!私またここで働かせてもらいに来たの!」
「セン!私はまだ雇うとは言ってないよ!」
「ばーば、坊はセンと一緒がいいぞ!」
「うん!また一緒に遊びたいね!」
「そうだぞ!」
「坊!あなたは少し部屋に戻っていなさい!」
「ばーば、センに意地悪したら、坊、ばーば嫌いになっちゃうぞ」
「分ったから!分ったから坊お願いだから少しお部屋に戻っていて頂戴」
半ば泣きそうになりながら懇願する湯婆婆に、坊は渋々と頷いて、千尋を放すと、「また後でね」と言いながら部屋に戻っていった。
千尋は湯婆婆を振り返ると、もう一度頭を下げ、にっこりと微笑む。
今の坊とのやりとりで、それはもう湯婆婆が断らないと確信しているような笑みだった。
「ここで働かせてください」
脳裏に浮かんでくるのは数年前のおどおどした過保護に育てられていた事が一目瞭然の小さな子ども。
目の前の少女にはあの頃の面影が残っていても、纏う空気にはあの頃のひ弱さは少しも無い。
湯婆婆は眩暈がしたような気がした。
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■千尋最強伝説・4■
取り敢えず落ち着く為に、湯婆婆は葉巻を一つ取り出すと、火をつけ、一服する。
吐き出す息と共に白い煙が昇っていった。
「それで、働きたい理由はハクかい」
「はい!」
ちらりとハクの覗くと、彼は無表情のままただこちらを見ている。
「ハクとおばあちゃんの契約はまだ続いているんでしょう?だったらその契約分を私と二人で一緒に返したいの」
「はん。ハクとの契約はとっくに終わっているよ。お前がここを去った日にね。ハクが望むからまだここに置いてやっているだけだ」
その台詞に千尋は目を丸くすると、「そうなの?」とハクを振り返った。
ハクは無言で頷いた。
「望むなら今日にでも辞めてくれたっていいんだよ。あれがいなくなったって少しも困る事なんか無いんだからね。それに人間のコブつきになられちゃ溜まったもんじゃない」
「湯婆婆様。それは困ります。私はまだここに留まらせてください。センは私が責任を持って元の世界へ戻しますから」
ずっと黙り続けていたハクは初めて口を開いた。彼は凛とした表情のまま湯婆婆を見据えると、諭すように語った。
そこには確かに以前のように弱みを握られているような関係ではなく、あくまで対等な雇用関係として上下関係を保っているような空気があった。
湯婆婆はまた葉巻を一口吸うと、納得したように頷く。
「…そうだね。まあ仕方が無いだろう。しかし、今のお前にはセンを元の世界へ戻す事も出来ないはずだよ。それにこの世界で働かない者は消えてしまう」
「それは--」
「働かせてください!」
口篭るハクの横で千尋は再度何度も言い続けた言葉を繰り返す。
「何も出来ない人間の小娘をここにおいてやる義理は無いね。ああ、でもお前もそろそろいい年頃だ、湯女としてお客様の床を取ってもいいかもねぇ。不浄だからと人間を忌み嫌われるお客様が多いけれど、人間の娘が湯女としてお相手する物珍しさが逆に客引きになるかもしれないしねぇ」
「それは困ります!」
「それでもいいならやります!」
にやつきながら言う湯婆婆にハクと千尋は同時に声を上げる。
千尋の受諾の言葉にハクは己の耳を疑い、千尋を見た。
「何を言っているんだ?千尋!?」
「ここで働くのにそれしか方法が無いのならやります!」
「止めるんだ千尋!」
焦るハクに、千尋は振り返ると、にっこりと笑って、もう一度湯婆婆を見た。
「その前に見て欲しいものがあります」
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■千尋最強伝説・5■
ハクと湯婆婆は千尋の姿を見つめ、呆然としていた。
千尋はこちらを見ると、満面の笑みを浮かべる。
「…千尋…何処でその舞を…?」
「もしこっちに来ても私にも出来る事があるようにって神社に通って教わったの。近所の神社だったからもしかしたらここで習う舞いと違うかも知れないけど」
千尋は近くに置いてあった舞の音源になるMDプレーヤーを手に取ると、電源を切る。彼女が元の世界から持参したものだった。
彼女は一つの舞を舞った。
神社の祭りなどで舞われる、巫女神楽を。
その舞の所作は確かに土地によって異なる箇所もある為、独特のものでもあったが、それでも彼女の舞は神への奉納へ十分なものであった。
「あんた…」
「おばーちゃん。人間の娘が湯女として床を取るのも物珍しくていいと思うんだけど、神楽舞を舞うけれど、決して媚は売らず、床は取らない人間の娘…っていうのも売りになるんじゃないかなと思うんだけどどうかな?」
千尋からの提案に湯婆婆は更に唖然とした。
この娘は最初からそう持ち込めるように謀っていたのだ。
成長した娘の風貌と所作から恐らくまだ男を知らないだろうと思い、そんな娘に床を取れと言えば逃げ出すかと言い放てば、この娘は恐らく湯婆婆がそう言い出す事を予測して、逆手に取る機会を狙っていたのだ。
確かに、神は人間のそれも生娘の神楽舞を好む。神は清浄さには敏感だ。
人間の生娘を己のものにするのを好み古来から生贄という方法で神々は度々楽しんできた。それ故に一度お手つきになった人間の娘となってしまうと物珍しさはあっても、圧倒的に価値が下がってしまう。
それに比べ神々が訪れる宿で生娘のまま宴の度に神楽舞を舞う人間の娘。そして湯屋でありながら、たかが人間の小娘一人を誰も己のものに出来ない歯痒さ。きっと侮られたと怒る神もいれば逆にその娘に高潔さを感じる神もいるだろう。
どちらの方が集客率が高いかと言えば…後者だ。
この娘はハクと別れ元の世界に戻ってから、神の世界について多くの事を学んだのだろう。そして恐らくは元の世界にいても、こちらの世界に来ることになったとしても生き残れる方法を手に入れる努力をしてきた。己とハクを守りながら生き残る方法を。
「あはははははっ!」
湯婆婆は豪快に笑う。
突然の笑い声とその声の大きさに千尋はびくり肩を震わせた。
「一本取られたよ。セン。随分と逞しくなって帰ってきたもんだ。あんたの言う方法で何処までできるかやってみな。但しお客様が望めばいつでも床を取ってもらうから覚悟しておきな」
「はい!」
千尋はぱぁっと顔を輝かせ、頭を下げる。
「それと、ここで働くんならちゃんと私には敬語を使いな!」
「はい!湯婆婆様!」
笑顔で応える千尋に湯婆婆はふんと鼻を鳴らす。
「ハク!それじゃああんたがここを出ていくまでしっかり面倒見るんだよ!センには最初から付加価値をつけて売り出すんだ、価値を下げるような事するんじゃないよ!」
「はい!」
ハクは顔を顰めると、きっと湯婆婆を睨みつける。
「行こう。…セン」
「はい!ハク様!宜しくお願いします!」
笑顔で己を見つめる千尋に、ハクは小さく溜息を吐いた。