きのうときょうとあしたと3

■きのうときょうとあしたと・11■

「こんにちは」
千尋は、古い木の枠にガラスを張られただけの昭和初期を思い出させるようなドアに手を掛ける。
普段は施錠されておらず、ガラガラと音を立てて簡単に開いた。
家人に物騒だからと幾ら言っても鍵をかける事は無かった。かけた所で、一本の螺子を木枠に差し込んで掛ける簡単なものでしかないのだが。
千尋の声に反応して、家の奥からパタパタと足音が聞こえてくる。
「いらっしゃい。千尋さん」
神官装束を纏った琥珀が彼女を出迎えた。
「いつも言ってますけど、ちゃんと鍵くらい掛けて下さい」
「誰も神社にある家に泥棒に入る人なんていないよ。罰が下ると思って」
「駄目です。世の中にはお賽銭泥棒だっているんですから。琥珀さんは無用心過ぎます!」
「でも、お陰で千尋さんが私が仕事中の時でも入ってこれる」
「そっ……それはそうですけど。でも、私なんかどうにでもなるんですから、ちゃんと掛けて下さい」
「それはできないよ。神社の周りは森だから、女性一人を外で待たせている方が余程物騒だ」
それ以上は譲らないとばかりにぴしりと言い放った琥珀は、にっこりと微笑んだ。
彼の意思の強さは並々ならぬものだということは、この数週間で十分に千尋は学んでいた。
これ以上は何を言っても、彼は意思を曲げる事はしない。
琥珀は何でも許容してしまうのではと思うくらい優しいようで、芯は真っ直ぐで、そして時折見せる語調の強さの中に自尊心の高さを覗かせた。
「それで千尋さん。今日は?」
言われて、千尋は既にさっきの話は彼の中で終わっているのだと、改めて感じさせられながら、手に持っていた紙バッグを彼の目の前に差し出した。
「今日は蕪の酢和えと、大根の煮付け、鮭の塩焼きです」
「いつもありがとう」
「いいえ。これくらいさせてください」
琥珀に促されるまま、千尋は玄関を上がり、台所へと向かう。
「けれど、そんなに気遣わなくてもいいんだよ」
「気にしないで下さい。私が好きでやってるんですから。それに私が来なかったら琥珀さん何を食べているのか心配で仕方が無いです」
「そうは言っても、千尋さんが来るまでは私も一人で暮らしていたんだから、それなりにちゃんとした生活出来るよ?」
「信じられません!」
千尋は琥珀を見ると、言い切った。

彼女がお詫びを兼ねてこの家で初めて料理をした日。
琥珀の料理の腕をまざまざと見せ付けられた。と言うより、料理の基礎さえなく、全く出来ない事を見せ付けられた。
まさかと思い、次の日も尋ねてみたら、やはり味も色も淡白な料理をもてなされた。それはもはや美味しいとも不味いとも言い難い、素材100%の色と味のみ。
幾ら何でも、過去に外食でもすれば、塩や醤油くらいの調味料の味を知り、自分の料理にも加えようと思うものだろう。
そう思って彼に尋ねるが、彼は考えた事が無いらしく、料理に対して全く頓着しない様子だった。
自分よりも幾つか年上に見える彼は生まれてから今まで何を食べてきたのだろう、千尋に本気でそう思わせた。
そして見かねた千尋は、彼に迷惑を掛けたお詫びを含め、夕食だけでも自分がもてなすと申し出たのだった。
千尋も決して得意な訳では無かったけれど、彼がこのままの食生活を続けるのを見るのはどうしても人として我慢できなかった。
だから色んな味を知って貰う為に、美味しい物が一杯あるのだと知って貰う為に、不慣れながら一生懸命作っていった。
琥珀は、最初は遠慮していたが、それでも毎日千尋が持っていくと、彼は必ず喜んで全てを平らげた。

そんな料理音痴な彼でも、一つだけ得意料理があった。

おにぎり。

千尋が夕食を持参したとある日、彼は「いつもの感謝を込めて」と、「これだけは得意なのだ」と言って差し出してくれた。

不覚にも、
また、
泣いてしまった。

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■きのうときょうとあしたと・12■

私は何がしたいのだろう。
私は彼に彼を重ねている。
それだけ。
そこから何かが生まれる訳ではないのに。
どうしても、もう少しだけ。
もう少しだけ。

この時間を望んでいる。
それは、何故。

「千尋さん、もういいからね」
「はい?」
食事が終わり、食器も洗い終わって、お茶を飲んで寛いでいたところに、琥珀はそう千尋に声を掛けた。
千尋は、彼が何を「もういい」と言っているのか一瞬分からなかった。
そしてすぐに、それが、彼女が夕食を持って来る事にだと気がついた。
「え」
「毎日毎日じゃご家族だって心配するだろう?それにまだ未婚の若い娘さんが知り合いの男の家に毎日御飯を作って持っていくなんて話、広まったら、あまり千尋さん自身にもいいことじゃない」
「そんな事気にしないで下さい」
「それに、最初にここを訪れた時一緒にいた男の人だって心配するよ」
「彼は関係ありません!」
琥珀は手に持っていた湯飲みをテーブルに置くと、じっと千尋を見据えた。
「千尋さん。私に対してお詫びの気持ちなら十分伝わった。だから、何時までも続けていちゃいけない。それにしてくれることで今度は逆に私だって申し訳なくなってしまうよ」
そう言われてしまえば、そうだった。
ほんの数回程度なら、彼だって千尋の感情を理解してくれ、受け入れてくれるだろう。しかしそれが数週間ともなれば、今度は逆に彼の方がそこまでされることしていないと感じていれば、千尋の気持ちを重くも感じるし、恐縮もしてしまうだろう。
そんな簡単なことにさえ気付けなかった自分を恥じ、千尋は俯いてしまう。そんな彼女に琥珀は続けた。
「またいつでも遊びに来てくれて構わないから」
その言葉に、千尋ははっと顔を上げる。
彼は微笑んでいた。
優しく。慈しむように。
彼は、きっと。
千尋が琥珀をハクと重ねている事に気が付いていて、それを分かっていて受容してくれていた。
しかしそれはお互いの為には長く続けることはよくないときっと分かっていながら、彼女の心が少しでも癒されるまで待ってくれていた。
そのお陰で彼の家に遊びに来る度に、千尋は彼女の中に長い間あったつかえがゆっくりと優しいかたちに変わってきたのを感じていた。
そんな彼女の変化を見て、
もういいだろう。
彼はそう判断したのだ。
まだ彼を彼に重ねてもいい。ただ少しずつ距離を置き始めても良いだろう。
そんな風にもきっと。
「もう来るな」とは言わない。
それが彼の優しさ。

与えてくれたのは、ハクと二人で過ごす時間。
それが、偽りの時であったとしても。
彼には彼の時間がある。
いつまでも千尋の心の為に割いて貰ってはいけない。

「今月末にこの神社で初めてのお祭りをやるんだ。良ければおいで」
笑顔で千尋に語りかける青年は、その時初めて出会った気がした。

彼は、誰だろう。

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■きのうときょうとあしたと・13■

彼に感謝を伝えるつもりで。
彼にお詫びをするつもりで。
私は彼の元に通っていた。

けど、本当は違っていた。

私は、ハクに似ている彼に、ハクの傍にいるつもりで、彼の元に通っていたんだ。
勝手に言い訳を作っていて。
何て酷い。

彼はきっとわかっていた。
それでも、彼は受容してくれた。
優しい人だ。

それでも、まだ、私は、思い続ける。
彼はハクじゃない。

「千尋。今日、あの神社お祭りみたいよ。行かないの?」
軽くドアをノックすると、悠子は千尋の部屋に入る。
千尋は部屋の中で浴衣を着て、鏡の前に立っていた。悠子を軽く振り返ると、また鏡に視線を戻し、その中に映る己の姿を見つめ続ける。
「どうしたの?何かあったの?」
「何でもないよ」
千尋は悠子を見ないまま応える。
「最初神社に行った日、目を腫らして帰ってきてびっくりしたけど、その後も通い続けて楽しそうにしているから安心していたのに、突然行くの止めちゃったじゃない」
「……」
「千尋にもやっと彼氏が出来たのかなって喜んでいたのに。違ったの?」
「違うよ」
鏡の中の千尋は眉間に皺を寄せて応える。
悠子はその姿に溜息を付いた。
「そう。今日は行ってくるんでしょ?着替えたって事は」
「……うん」
「喧嘩したのなら早めに仲直りするのよ」
悠子は呆れたように溜息を付くと、部屋を出て行った。
彼女には千尋の戸惑いは分からない。
それは当然の事だけれど、千尋は何処か寂しさを感じた。
あの日のあの町での事、共有できる人はいない。
だから、千尋がどうして今こんなにも動揺しているのか理解してくれる人はいない。
今まではそれでもいいと思っていた。

それが今、こんなにも辛い。

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■きのうときょうとあしたと・14■

神社が建てられてからの初めてのお祭りは、とても大きなものとなった。
元々何かの縁がある土地ではないが、その土地で暮らす人間には馴染みのある土地であったと同時に、神主の人柄に触れ、訪れる者も多くあった。
まだ若い神主は礼儀正しく、とても大らかで、優しい。その人柄から同世代の若い者だけでなく、子どもから年配者まで幅広く好かれていた。
神社自体が建てられてからほんの数ヶ月しか経っていないのだが、神社の境内は屋台で埋め尽くされ、多くの人で賑わった。
少し歩くだけで、人とぶつかり、山を切り崩して作られた境内は少し道から逸れればあっという間に森の中に迷い込んでしまう。
千尋は社に御参りはしたが、何となく社務所には近付けず、屋台通りをぶらぶらとしていた。
「あれ?荻野さん」
知り合いなどいるはずないと思って歩いていた所に声を掛けられ、千尋はびくりと肩を震わせる。
驚いて声を掛けられた方を振り返ると、この神社を紹介してくれた青年と、彼の友人らしい青年、そして同じ職場の友人の女性二人がこちらを見ていた。
「千尋!来てたんだ!」
同僚の女性はこちらに駆け寄ると嬉しそうに千尋の手を握る。
「でもここ千尋の地元じゃないよね?」
もう一人の友人が首を傾げる。答え辛そうにしていた千尋を見て、神社を紹介してくれた青年が代わりに応えた。
「俺が紹介したんだよ。荻野さん神社巡り好きだって聞いたから」
「あ、この間デートしてた日!」
「デートじゃないよ」
「そっかここの事だったんだ」
否定する青年の話を聞いているのか聞いていないのか友人二人は何かを納得したようにうんうんと頷く。
「そう言えばここの神主さんと会った?すっごい美形なんだよ!まあ、この人でもいいならいいけど人でもいいけど、あの美形は一度拝んどくべき!」
そう言って、隣で苦笑する青年を指差しながら力説する。
「それにすっごく性格も良さそうだし、それでいて結婚して無いし、彼女もいないって言ってたし、こんな良物件滅多に無いんだから!」
「良物件過ぎて相手にされそうに無い気もするけど……」
いかに良いかを語り続ける友人に、もう一人の友人が冷静に呟く。
青年はと言うと、心配そうにちらちらと千尋を見ていた。
千尋は苦笑すると、ぱたぱたと手を振る。
「私はいいから、皆で会ってきて」
「何言ってるの!千尋も行くの!ここで何かのご縁でもしかしたら恋愛に発展するかも知れないでしょ!千尋はもっとガツガツするべき!いい女なんだから!」
そう言うと、友人は容赦無く千尋の腕を掴み、引きずるように歩き出した。
「あっ!いやっ!私はいいってばっ!」
「ダメ!」
「あのさ、荻野さん困ってるみたいだし、……そんな無理に…」
「何言っているの!そんなライバル一人増えるくらいで怯んでちゃこの子ゲットできないよ!」
「いや、そうじゃなくて……」
琥珀の目の前で泣きじゃくっていた千尋を知っている青年は止めてくれようとするが、努力空しく、千尋はずるずると連れられるしかなかった。

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■きのうときょうとあしたと・15■

「千尋さん」
久し振りに対面した琥珀は少し驚いた表情を見せ、そして、嬉しそうに微笑んだ。
「久し振りだね。来てくれたんだ」
一般の参拝客相手とは違い気を許した口調と表情を見せる琥珀に、千尋を連れてきた友人たちは驚いて彼女を見た。
「千尋、知り合いだったの?」
「う……うん」
言い澱みながらも千尋は肯定する。
「何だ、だったら教えてくれれば良かったのに。そしたら無理矢理に連れて来る事しなかったのに」
「あれ、でもそしたら、今日はまだ会ってなかったの?」
友人たちにとっては何気無い問いだったかも知れない。けれど、彼女たちより既に前に来ていた千尋は、あれだけ優しくしてもらった琥珀に最初に会いに来なかった、寧ろ避けてしまっていた心苦しさを突いて、責められているようで、俯いてしまう。
そんな千尋の空気を悟ったのか、琥珀は笑って言う。
「親しいといっても挨拶する程度だから。久し振りだし気後れしてしまったんだよね」
そう言うと、社務所の奥から声が掛かり、「ではごゆっくりしていってください」と全員に声を掛けると、その場を離れていった。
「そうなんだ。いいなー。神社好きであんな美形に出会えるなら、私も信心してみようかしら」
「いやいや。早々あんな美形はいないって」
「そっか」
頷きあう女性二人に、千尋の様子を見ていた青年は場の雰囲気を変える様に明るく声を掛ける。
「さて、これからどうする?屋台で何か食べる?」
すると、花より団子にすぐに思考の切り替わった二人は、嬉しそうに声を上げる。
「そうね。お腹空いちゃったし。千尋も一緒に行く?」
「えっと、……うん。行く!」
自分の空気を琥珀にも目の前の青年にも気付かれ、心配を掛けてしまった事に気付き、千尋も声を明るくして応えた。
「よし!それじゃ、行こうか!」

これでいいんだ。
あの人は『速水琥珀』であって、『ニギハヤミコハクヌシ』じゃない。
ハクじゃない。

ハクは……。

「そろそろ決めなくちゃいけない」
声が聞こえる。
私はこの世界で生きていかなくちゃいけない。