■きのうときょうとあしたと・6■
「あ・・・」
千尋は声が出なかった。
「すみません。あの、この神社に祀られている神様って何ですか?」
戸惑う千尋の様子に気付く事無く、後ろの青年が、目の前の人物に声を掛ける。
目の前の人物は千尋を不思議そうに見て、それから青年に視線を向けるとにっこりと笑う。
「ここの神社は竜神を祀っています」
「竜神?」
「はい。竜神は天候を操る神であり、水の神でもあります。この辺り一体の水と天候を守っているんです」
未だ自分を見つめる千尋の視線に頓着する様子無く、その人物は澱みなく澄んだ声で答える。
「へぇ。やっぱりこの山って神様がいるんですかね」
「そうですね。この山は地下水も湧いてくる場所があるし、山は高ければ高いほど天に近いですから。この土地の持ち主もずっとそう信じて、いつか社を建てようと思っていたようですよ。ただ社を建てる事で木を伐採するのでは本末転倒と迷われていたようですが」
「そうなんですか。貴方が地主ではないんですね」
「神職は資格が必要ですから。私はこの社をお守りするように遣わされた神主です」
「神主って資格必要なんですか。初めて知りました」
「きっと知っている人の人の方が少ないですよ」
千尋はただ戸惑っていた。
目の前で、この神社の神主だという人物。
千尋の頭一つ分位背が高く、恐らくは千尋と同年代か、2つ3つ上くらいの男性が彼女の前に立っていた。肩で軽く揃えた髪は彼の容姿にぴたりとはまり似合っている。神官の衣を纏った姿は何処か人という匂いを彼から取り払っていた。
いつか想像した事がある。
もし、いつかあの少年が、自分と同じ様に年を重ねていたら。
人間のように成長していたら。
幾度も幾度も想像しては打ち消していた。
期待したい気持ちと、絶望を恐れる気持ちが常に存在していたからだ。
だからこそ、千尋は戸惑った。
目の前に立つ、青年は。
あの時と異なる音質の声で、物腰柔らかに、そして笑顔を見せる。
あの時の仕事に向き合う彼からは想像できなかった異なる仕草や表情を見せる。
それでも、彼は。
まるで。
「ハク・・・」
千尋はやっとその二文字の言葉を発した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■きのうときょうとあしたと・7■
「・・ハク」
千尋は呆然と、彼女がずっと再会すること望んでいた人物の名を呟いた。
会いたくて。会いたくて。
けれど言葉にしてしまえば夢になってしまいそうで。
他人に話せば話すだけあの時の思い出が拡散されてしまいそうで。
神隠し以降からずっと両親にも、友人にも、誰一人話さず、じっと心の奥に仕舞い込んでいた思い出と、大切なひとの名。
それを彼女は人前で初めて口にした。
千尋は固く閉じ込めていた思い出とその時一緒に仕舞い込んだ感情がゆっくりと温かさを帯び、再び流れ込んでくるのを感じた。
目の前の人物は、彼女に視線を向けると、瞳の光を優しく湛え、微笑んだ。
「どうされたんですか?」
「!」
掛けられた言葉に、千尋は心が一気に闇に落ちたような気がした。
彼にとって『ハク』という言葉はただの音でしかない。
名でもなければ、固有名詞としても捕らえられていない。
返される言葉で彼女はその事を悟らされてしまった。
神主は笑みを湛えながら不思議そうに千尋を見て、首を傾げる。
何でもないですと返さなくちゃ不審に思われる。
何でもないですと・・・。
そう頭の中で思うが千尋は上手く声を出す事が出来なかった。
「荻野さん!?」
後ろにいた同僚の彼は動かないままの千尋の顔を覗き込むと、ぎょっとして声を上げる。
神主も湛えていた笑みを崩し、驚いた表情を見せる。
心配を掛けちゃ駄目だ。
何か言わなきゃ。
声を出して、笑って、誤魔化さなきゃ。
そう思うのに、千尋は何一つ行動を起こす事が出来なかった。
ただ。
ただ。
瞳から涙が零れるのを抑え切れなかった。
涙は今まで守り続けていた記憶の分だけ。
嗚咽はずっと名を呼びたいと望み続けていた想いの分だけ。
一度堰を切った感情は理性なんかでとっくに抑えきれるものではなくなっていた。
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■きのうときょうとあしたと・8■
思い出すのは、最後に別れたあの日の風景。
夢じゃなかったと伝えるのは、繋いだ手の温もり。
ただ一つ、千尋の想いを支えるのは、今も腕で光る髪飾り。
もうあの街には行けないだろう。
あの賑やかで楽しい人たちに会う事は出来ないだろう。
自分に沢山のものを与えてくれたあの柔らかで愛しい時を得る事は出来ないだろう。
それでも、一つだけ、叶うかもしれないと思った約束が胸にある。
----きっとあの少年に会えると。
机に向かい、目の前にある数字の羅列と電卓と睨めっこし、キーボードに数値を入力していく青年。
彼のデスクの横に、小さな箱が置かれた。書かれているロゴから分かるのは、チョコレートで有名なメーカーの名前。
パソコンから顔を上げ、箱を置いた主を見上げると、千尋が笑顔でこちらを見ていた。
「昨日はごめんなさい。ありがとう」
青年は慌てて立ち上がる。
「大丈夫?」
千尋は笑みを浮かべているが、その瞳は未だ赤く、瞼もやや腫れぼったくなっていて、それは確実に昨日帰った後も泣いたのだろう事が容易に想像できた。
心配そうに自分を見つめる彼に、千尋は頭を振って、また笑う。
「本当に心配かけてごめんなさい。一度泣いたら涙腺緩んじゃったらしくって、家に着いても、ずっと泣きっぱなしだったんだよね。あの神社の神主さんにも迷惑掛けちゃって・・・」
「そんな事はいいんだよ!辛かったら泣いていいんだ!他人を気遣ってばかりしないで。そんな風に無理に笑っている方が辛い」
笑う千尋と対照的に苦しそうに声を吐き出す青年に、千尋は少し驚いた表情を見せる。
「何があるのか分からないけど、オレなら幾らでも話を聞くよ。人に話す事で楽になれる事だってあるし」
どうにか彼女を励まそうと語りかける青年に、千尋は少し憂いの表情を見せ、そして顔を上げると、笑う。
「ありがとう」
そう一言、いつもの張りのある声を少し和らげて、伝えると、千尋は箱を指差し、
「これ、昨日神社に連れて行ってくれたお礼。大した物じゃないけど食べてください。ここのお店のチョコレート美味しいからお薦めなんだよ」
と、トーンをいつもの調子に戻しておどけて言うと、千尋はその場を離れた。
青年はデスクに置かれた箱を手に取り、顔を上げて、千尋の後姿を見つめる。
「ちょっと、昨日千尋とデートしたんでしょ!何があったの?」
背後から声を掛けられ、振り返ると、いつも千尋と一緒にいる女友だちの一人が彼を睨みつけていた。
「・・・・」
彼は応える事が出来ない。
「千尋、今日、朝会ったら目を真っ赤にして笑ってるんだもの!千尋に聞いても答えないし。貴方は関係無いって言ってたけど、昨日貴方と会ってたんだから貴方が関係無いはずないじゃない」
自分を責める最もな理由だと青年は思ったが、彼はただ横に首を振るしかなかった。
「何も知らないんだ。オレには彼女に教えてもらえる資格はないらしい」
「?」
首を傾げる彼女に、青年はそれ以上どんな例えをして良いのか分からなかった。
彼は聞けなかった。
千尋は昨日、神主に出会い、そこで、まるで悲鳴を上げるかのように泣いた。
あんな泣き方を今まで彼は見た事が無かった。
体の中のものを全て吐き出すような、心が壊れてしまうのではないかと思うくらいの感情を曝け出した泣き方。
声、表情、目に焼き付ける全てが初めてで。
いつも笑顔でいた彼女がまさかあんな風になるとは思わなかった。
正直、怖かった。
それでも、その感情を自分が受け止められればと思った。
けれど、彼には彼女にその許可を得る事は出来なかった。
彼女は誰にも人当たりが良い。
素直で、明るくて、活発で、優しい。
それだけが彼女の全てだとは勿論思っていない。
彼女は弱さを見せない。
強いのだとは思う。
いつかそんな彼女が見せられる存在になりたいと思った。
けれど、
自分では駄目なのだ。
それを今、はっきりと彼は突きつけられたのだ。
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■きのうときょうとあしたと・9■
「うううううう」
千尋は神社の鳥居の前で、行ったり来たりを繰り返していた。
手の中には、今日、ここを案内してくれた職場の友人にも上げたチョコレート。
何も知らない人たちの前で、しかもここにいる神主に至っては、初対面の人の前で、思いっきり泣いてしまった。
泣いてしまってからの記憶ははっきりしないが、その分自分がどれだけ彼らに迷惑を掛けたのかは想像出来る。
意識を取り戻した時、彼女は家の中の一室へ案内されていて、そこで神主にがっしりとしがみ付き、しがみ付いていた単をぐっしょりと濡らしていた。
その間彼はずっと千尋の背を擦り、自然と彼女が泣き止むまで抱き締めていてくれた。
それがつい昨日の事。
恥ずかしさで穴があったら入りたいくらいだ。
そして、同時に、自分を包んでくれていた温もりを思い出し、居た堪れなくなる。
「ああああああ」
千尋はがばりとその場にしゃがみ込み、そのまま自分の体を消すように小さく丸くなる。
全ての事に気が付いた後、彼女はその場で、何度頭を下げたか分からない、何度も何度も頭を下げ続け、半ば逃げるように早々と家を立ち去った。
やはり、自分のした事を考えると、改めてお詫びをしたい。
そう思って、立ち上がり、鳥居を仰ぐが---。
またすぐその場にしゃがみ込んでしまう。
もう何度その行動を繰り返した事か。
(私ってこんなに優柔不断だっけ?)
自問自答するくらい、千尋は二の足を踏み続けた。
何度目の往復だろうか、突然、くすくすと笑い声が彼女の頭の上から降ってきた。
鳥居の向こうの階段を仰ぐと、千尋はぴしりと固まってしまった。
昨日散々迷惑を掛けた神官が、階段から降りてくる途中で、こちらを見て笑っていたのだ。
千尋は慌てて立ち上がると、深く頭を下げる。
「きっ。昨日はご迷惑をお掛けしました!」
頭を下げたまま上げられないでいると、階段を一段一段降りてきた足音が、千尋の前で止まった。
「もう大丈夫?」
昨日も感じた心地良い声音が千尋の耳に入り込む。
「はい!」
「・・・顔を見せてもらえると安心するんだけど」
そう言われ、千尋は焦って勢いよく顔を上げる。すると、ほんの数歩の距離にいた彼と目があった。
彼は千尋の顔を覗き込むとにっこりと笑った。
「良かった。少しは元気が出たようで」
「・・・ありがとうございました。本当に突然会っていきなり泣き始めて・・・ごめんなさい」
眉を八の字にしてもう一度千尋が謝ると、彼の目元を優しくなり、彼女を見つめた。
「そうだね。少し驚いたけど。けれど私を見て誰かを思い出したのだろう?」
千尋は思わず息を飲む。
「大切な人なんだろうね」
そう言って、彼は手を伸ばすと、千尋の頬に触れ、彼女の瞼を拭う様に擦った。
「帰ってからも泣いたのだろう?私がいなければ良かったのだけど。ごめんね」
「私が君の想う誰かだったら良かったんだけど」、そう真剣に呟く彼に千尋は大きく首を振った。
「そんな事言わないで下さい!私こそ本当に失礼をして!」
簡単に自分を否定させてしまうようなくらい、彼に心配と迷惑を掛けていたのだと思ったら、千尋は申し訳無い気持ちで一杯だった。
今、まだ手の中にあるチョコレートなんかじゃ足りないくらいだ。
「気にしなくていいよ。・・・この顔が嫌じゃなければまた神社に遊びにおいで。昨日一緒だった人と一緒に」
彼はにっこりと笑うと、それ以上お詫びはいらないとでも言うように、千尋の横を擦り抜け歩き始めた。
きっとこのまま別れても本当に彼は気にしないだろう。けれど、このままではちゃんとしたお詫びが出来ていない。そう感じた千尋は咄嗟に、彼の後ろを追いかけていた。
「あの!何処かへ行くんですか!?」
今までまず謝らないとと焦ってばかりいて、彼の姿をちゃんと見ていなかったが、よく見てみると、昨日のように神官の衣装ではなく、シャツにパンツとラフな格好をしている。
彼は笑って答える。
「買い物に。もう夜だから、夕御飯の材料を買いに行くんだ」
「一緒に行ってもいいですか!?」
次いで無意識に言葉が出ていた。千尋も自分で自分の言葉に吃驚していたが、彼もまさか言われると思わなかったらしく、驚いた表情を見せると、その後すぐ笑って、「いいよ」と答えた。
彼は自分に追いつき、横を歩き始める千尋を見下ろし、「そう言えば名前をちゃんと聞いていなかったな」と呟く。
言われて初めて、千尋もその事に気が付き、慌てて答えた。
「千尋です。荻野千尋」
「荻野さん。宜しく。私は速水琥珀です」
告げられた名に、千尋は彼を顔を仰いだ。
そこにあるのは優しい微笑み。
----私の名はニギハヤミコハクヌシ。
彼のひとの声が聞こえる。
どうして。
どうしてこんなにもこの人は、あのひとに似ているんだろう。
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■きのうときょうとあしたと・10■
どうして私は今ここで料理をしているんだろう?
それが千尋がずっと抱いていた疑問だった。
右手にはお玉、左手には鍋。目の前には玉葱やジャガイモがぐつぐつと煮えている。
「すまない。料理をさせてしまって」
申し訳無さそうに、千尋の後ろで琥珀が料理を装う為の器を並べている。
「気にしないで下さい」
千尋は笑顔で返事を返す。
夕飯の買い物をするというのでスーパーまで付き合った。そこで幾つかの材料を買って神社に戻ってきた。
お礼をするいい機会だからと思って、自分が料理をすると申し出たが、予測はしていたが、お客様にそんな事はさせられないと丁重に断られ、逆にもてなさられる事になった。
そこまでは良かった。
「何か料理が出来ればいいんだが、私は買ってきた食材を煮込んで盛り付ける事くらいしか出来なくて・・」
恥ずかしそうに琥珀は苦笑する。
「出来合いのお弁当とかを買えばいいんじゃないんですか?」
「それが、ああいうコンビニのお弁当とかは化学調味料が入ってるから。私はあの味がどうしても駄目で食べれないんだ」
「・・・でも野菜を丸まま煮込んでも、逆に消化に悪そうな気がするんですけど」
千尋は顔を引きつらせながら、どうにか笑顔を返す。
料理を始めた琥珀は、驚異的だった。
---兎に角、野菜を丸ごと鍋に入れ、水を入れて煮込むだけだった。しかも、野菜は洗いはするが、一切切る事も皮を剥く事も無い。言っておくが包丁が無いわけではない。きちんと磨がれた包丁が流し台下に置かれていた。
調味料は、彼の話す通り化学調味料は苦手らしく一つも無く、辛うじて塩、味噌、醤油がある位で、普段は使わないそうだが、今日は千尋がいて特別だからと言って、目分量でそれぞれを適当な量を入れようとした時に、千尋が耐え切れなくなって制止した。
彼はいつも何を食べていたのだろう。
そう思わずにいられない。
本当に、野菜を丸まま味をつけずに食べていたんだろうか。・・・きっとそうだろう。
何処かハクとダブらせて見ていた琥珀に人間臭さを感じ、苦笑してしまう。
ハクが料理が出来たかどうかは分からないけれど。
自分の為に作ってくれたおにぎりが彼の唯一の手料理。
それにハクは神様だから、きっと料理をするとかその前に、食事をするイメージが沸かない。だから琥珀とハクのギャップが妙に笑えてしまった。
こんなにも似ているのに。
丁寧に皮を剥き、切り揃え、煮込まれる食材を見つめ、千尋は自然と笑みを浮かべていた。
「そろそろ出来上がりだよね?」
琥珀が微笑んで、千尋に声を掛ける。
ふと千尋は顔を上げ、我に返ると、彼を見つめた。
何となく、千尋は感じた。
今、琥珀は、彼を見てハクの事を思い出した事に気付いていた。
それは彼とハクを比較している事になるのだからきっといい感情であるはずでないのに。
彼は何も聞かない。
申し訳無いと思いつつそれでもそれが今の彼女には有難かった。
千尋は、笑顔を返す。
「後は味を付ければ出来上がりです。御飯も丁度炊けました」
言って、野菜の煮込みの入った鍋の横にもう一つ用意していた、鍋の蓋を開ける。
鍋で御飯を炊くのは学生時代の課外事業以来だと思いながら。