風に揺れる草原。
流れる雲が、一面真っ青な草原に濃い影を落とす。
夜風が吹き抜け、空に舞い上がる。
ハクは草原で一人佇んでいた。
ほぼ一日中といってもいいだろう、休み無く営業している油屋で、唯一彼が、彼だけのために持てる時間。
彼は夜風に当たるために店を抜け出していた。
本当にわずかな時間なのだから、睡眠を取り、すぐにでも体を休めればよいのだろうが、とてもそんな気にはなれなかった。
眠ろうと布団に入ると、思い出してしまう。
仕事中にも浮かんでは消える事の無かった一瞬。
目を瞑ると、より鮮明に思い出す。
自分を見て脅える千尋の表情。
そして、それは消えることなく彼の胸に大きなガラスでも刺さったかのように、胸が痛くなるのだ。
ずきずきと疼く。
誰かに傷つけられた訳でもない。体の何所かに傷を負ったわけでもない。
ただーーーー。
疼くのだ。
今までに無い痛みが。
対処の仕方が分からなかった。
何故痛むのか。どうしたら癒えるのか。原因は何なのか。
考えは巡り、答えを見出せない。
答えの無い自分にハクはまた苛立つ。
足音が聞こえてくる。
草を踏む軽い足音。
こんな夜中に外へ抜け出す者が自分の他にもいたのかと、自嘲気味に苦笑し、足音の主を確認するために振り返る。
驚いた。
そして、目を見開いて、ハクは足音の主の名前を呼ぶ。
「千尋ーーーーー?」
「・・・・・何となく、ここにいるのかなぁと思って・・・・・」
余程懸命に走ってきたのだろう。息を切らし、頬を赤く染めながら千尋は笑う。
ハクを心配して探しに来たのは明らか。
ずっと深く沈んだハクの表情も思わず綻ぶ。
千尋が自分を心配してくれる事の嬉しさ。
千尋に心配をかけてしまったことへの悲しさ。
それでも、今、すぐ目の前で、彼女が自分のために、この一瞬だけでも、自分への自分のためだけに笑顔を見せてくれることが何よりも彼は嬉しかった。
「・・・隣、座ってもいいかな?」
おずおずと尋ねる、千尋。
そんないちいち断る必要ないのにと苦笑しながら、「どうぞ」と、ハクは自分のすぐ隣の場所をすすめる。
座る千尋の視線の位置。
ハクの目の位置より、少し高い。
だから自然とハクは千尋を見上げる形となる。
何か重いものがハクの胸の奥にのしかかる。
昔は彼女を少し見下げる形だったのに。
ちりちり燻っていた痛みが再び疼きだす。
そんなハクの苦しみを理解することは、当然千尋にはできなく、ただ悲しそうな表情を浮かべるハクを辛そうに見つめる。
千尋に心配をかけている自分。
そんな自分に、ハクはまた苛立つ。
千尋にはそんな顔させたくないのに。
心配かけたくないのに。
千尋が何かを告げようと口を開こうとする。
-----慰められたくないのに。
「・・千尋・・笑って・・・?」
喋りだそうとする千尋の声を遮って、ハクはやっとのことで言葉を紡ぎ出す。
しかし、彼の願いは叶わず、千尋はただ呆然とした表情を浮かべ、彼を見つめ返していた。
言葉を紡ぐ、彼の表情。
苦痛の表情。
今にも引き裂かれそうなくらい痛恨の表情。
何が彼をそこまで苦しめるのか。
「・・ハク・・何所か痛いの?どうしてそんなに苦しそうなの?私じゃ役に立てない?相談相手にはなれない?」
かえって千尋を心配させるのに拍車をかけてしまった。
千尋が自分を心配する。
いつかもあった。
----彼女が初めてこの世界を訪れた時。
自分が瀕死の状態の間、彼女は自分を助けるために、一人戦っていたと聞いた。
自分が銭婆婆の家に彼女を迎えに行った時の、千尋のあの嬉しそうな表情。
嬉しかった事のない。
けれど、同時に。
あれほど辛かった事は無い。
「・・・・私は千尋に心配をかけてばかりだな・・・」
情けない。
そんな感情が胸につかえ、取れる事が無い。
逆にどんどん重みが増してくる。
そうなるともはや、千尋の顔を正面から見つめ返す事も出来ず、ハクは俯くしかできなくなっていた。
「どうして?心配して当たり前でしょ?心配しちゃ駄目なの?ハクはいっつも辛い事一人で抱えて、少しも私に話してくれない。私じゃ頼りにならない?私じゃハクの役に立てない?」
千尋は今にも泣き出しそうなくらい瞳を潤ませ、捲くし立てるように訴える。
ハクはいつも一人で重いものを抱えるから。
できることは少ないかもしれないけど、それでも。
少しでも自分も一緒に背負いたいと思う。
けれど、彼は少しも自分を頼る事はせず、誰も頼る事をせず、いつの間にか一人行き詰るのだ。
自分じゃ彼の役に立てないのか。
彼の支えにはやはりなれないのか。
自分は必要とされていないのか。
どんどん不安だけが胸に一気に溢れてくるのだ。
本当に私はハクの側にいてもいいの?ーーーーーーーー
ハクを心配しているのは本当だ。
けれどその中には、彼の中での自分の存在を確認せずにはいられなかった。
自分が彼の支えになっている事。
彼の側にいることを許されている事。
不安だから余計に。
彼の気持ちを言葉で知りたい。
そんな気持ちを千尋は無意識の中で感じていることに気づいていなかった。
不安な表情で問いかける千尋の言葉にハクは驚き、否定する。
「違う!そんな事は無い!そなたは・・・いてくれるだけで・・私の側にいてくれるだけで・・・それだけで・・・私の救いとなる・・・・・」
そして顔を挙げ。懇願するように彼は、千尋を見つめる。
「・・・いつも側で・・・・・・・笑っていて欲しい・・・・・」
「そんなの無理だよ!」
ハクの痛切な表情での訴えを、千尋はあっさりと拒否する。
「私だって怒るし、泣くよ!ハクが・・・ハクが笑ってくれなきゃ、私だって笑えないよ!ハクが辛ければ私だって辛いし、ハクが幸せだったら私だって幸せなんだから!」
捲くし立てるように千尋は一気に叫ぶと、一息で言ったため上がってしまった呼吸を整える。そして、冷静になると、自分の言った台詞がまるで愛の告白をしているようで、一気に恥ずかしさが頭の中を駆け巡り、顔を真っ赤にした。
とん。
ハクは千尋の方に額を寄せる。
いつのまにか自分の体より、頭半分大きくなった少女の体。
自分の姿の年齢をいつの間にか越して、そしてこれから大人になっていくのだろう。
自分自身も成長はするけれど。
時の流れは、竜と人間では異なる。
きっと自分は少年のまま、千尋は大人になっていくのだろう。
それは当然のこと。
理解している。
けれど。
ちくちく痛むのだ。
「・・・・私はずっと・・この姿のまま・・・」
口に出して、言葉にして呟くと、一層痛みが強くなる。
何故?
「・・・・でも、ハクはハクだよ」
胸の痛みがすっと消える。
ハクが顔を上げると、千尋は
------笑っていた。
ハクは気づいていない。
顔を上げた自分が満面の笑みを浮かべていた事を。
私が幸せだと、そなたも幸せ。
あなたが幸せだと、私も幸せ。
そなたが好きだと言ってくれるのなら。
私はそなたの好きな自分を少し好きになれる。