胸が痛かった。
傷つけたくない。
自分の側では、常に笑っていて欲しい。
そう願っていたたったひとりのかけがえの無い少女をーーーー。
怯えさせてしまった。
油屋にわざわざtご来店頂いた神々に、店主にご挨拶に行く。
湯婆婆は店を開けることも多く、ハクはその清廉さと、元々神であるために持つ彼独特の空気のせいか、位の高い神から低いものまで、彼は気に入られることが多かったため、本来なら店主が行くところなのだが、彼は湯婆婆の代わりに、常連客にはこれからもご来店頂けるよう、新客にはこれから常連客になって頂けるようおもてなしさせて頂くその一番初めの重要な仕事、ご挨拶に行くことが彼の仕事にいつの頃からか加わっていた。
彼はそんないつもの仕事をこなすため、客室に向かっていた。
客室へと続く廊下を歩く途中、向かう先から女性の声が聞こえてくる。
いつも聞いている、自分にとって何よりも心地よい音質。
すぐに誰の声か分かった。
彼が最も大切にしている存在。
仕事のために張り詰めていた緊張が解れる一瞬。
彼女と会える。それだけで彼の心は温かくなる。
常に同じで、固まった石のように動くことは無いと思っていた心が、波打つ水面のように揺れ始める。
顔を合わせた瞬間、声をかけようと思った。
少しでも言葉を交わしたい。そんな淡い願い。
「仕事中なのだから、無駄に喋ることなく、次の仕事にさっさと取りかかれ」という仕事上の言葉と、「会えて嬉しい。もっと一緒にいられる時間があればいいのに」という心の言葉が、頭の中に浮かび上がる。
顔を合わせた時。
心の言葉を出そうと思った。
その瞬間までは。
けれど、その大切な少女が目の前に現れ、声を出そうと思った時。
-----千尋は怯えた。
叱られると思ったのだろう。
つまりハクが仕事上の言葉を出すと思っていたのだ。
確かに普段仕事上で、やもえず叱ることもある。しかし、いつもでは無い。何気なく言葉を交わすだけの時だってある。
しかし、とハクは思い出す。
最近の自分の噂は彼女の耳にも届いているだろう。
『ハクの機嫌が悪い』
だから余計に、びくびくと、今、自分の目の前でそんなににも怯えているのだろう。
彼がかけようと思った言葉は全く別のものなのに。
彼女の自分に向けられた言葉、声が聞きたかっただけなのに。
自分の側では常に笑っていて欲しい。
そう願っていた少女に。
胸が痛かった。
そして彼女から少し視線をずらすと、そこには彼女がいつも頼る少女がいる。
ハク自身が、千尋にそうするように言ったのだけれど。
『またリンと一緒にいるのか』
そんな溜息が心の中でこぼれる。
別にリンが嫌いな訳ではない。好きな訳でもないが。
文句も多く、大抵の者がハクに対して、敬意を持って話しかけてくる中、彼に向かって堂々と対等に話しかけてきて、尚且つ、反抗してくる数少ない存在であり、自分の方が上司なのだけれどと不快に思うこともある反面、彼女は与えられた仕事は確実にこなす、頼りにすることができる存在でもあった。
千尋に頼りにされている。
千尋にも同性で頼りにする者がいれば、少しは心が安らかになるであると思うーーーーのだが。
胸が痛い。
千尋が、リンの服をきゅっと掴み、反射的に彼女に縋りついて、身を竦めている。
リンよりも、頭半分小さい千尋の体。
彼女の姿は、リンに覆われればすっぽり隠れてしまう。
-------。
苦しかった。
何に対して?
何故?
何が苦しいのか?
どうして自分はこんなにーーーーーー泣きそうな気分になるのか。
分からない。
瞑っていた瞳を開き、何が不思議なのか、千尋は不思議そうにハクを見つめてくる。
叱られると思った?
私は怖い?
千尋にとって私は恐れられる存在?
リン方がーーー。
リンを頼りにするのか?
私より。
何一つ考えがまとまらず、感情が言葉にならず、声も出ない。
胸の奥がもやもやし、むかむかする。
少女を。
千尋を安心させる言葉をかけたいと思うのに。
言葉が気持ちに追いつかない。
最近、彼はいつもこうだった。
愛しい少女なのに。
自分の側にずっといて、笑っていて欲しいと願う少女のはずなのに。
彼女に会うと。
彼女を見ると。
喜びと、苛立ちが、同時に胸に湧き上がってくるのだ。
そして、少女の笑顔を失わせる。
泣きそうになる。