恋文

拝啓 ニギハヤミコハクヌシ様
お元気で過ごしていらっしゃいますか?
あの夏、まだ貴方が川の神様だった頃、初めて出会ってから。
それから数年後の、あの夏、再び貴方とあの橋の上で出会ってから。
もう随分と経ちました。
私も大人になって、あの頃より随分と逞しくなりました。
毎日が目まぐるしく過ぎていって、新しい事の連続で、時折貴方と過ごしたあの日々が、一時の夢だったようにさえ感じる事があります。
それでもあの日、おばあちゃんにもらった髪ゴムが、確かに私と貴方は出会っていたのだという事を教えてくれます。
今も常に身に着けている、大事な大事なお守りです。
貴方は今どうしていますか?
貴方は今もあの不思議な街の湯屋で働いているのでしょうか?
いつかこちらの世界に戻る為の準備をしているのでしょうか?
年月が過ぎるに連れて、貴方がこちらの世界に戻ってくるのが難しい事なのではと思い始めています。
それでも貴方は約束してくれたから。
いつか、必ず、こちらの世界に戻ってきてくれる事。
私に会いに来てくれる事を信じています。
貴方は私にとって大切な人。
かけがえの無いとても大切な竜です。
どうか。
どうか。
いつか再び会える事を願って。
―――荻野千尋

「千尋?何を見ているんだい?」
千尋は湯女部屋の欄干に一人もたれ掛かり手紙を読んでいたところを、背後から声をかけられ慌てて振り返った。
咄嗟に後ろ手に手紙を隠しながら。
「なっ。何でも無いの。ハク」
「何でも無い割には随分な慌てようだね」
後ろから千尋の手元を覗いたハクはにっこりと笑って、彼女の横に並ぶように座った。
「どうしたの?リンさんなら今賄いを取りに行ってるよ?」
「いや。ただ、時間が空いたから千尋に会いに来たんだ」
「そ…そうなの?う、れしいな」
縺れる言葉とぎこちない笑みを返す千尋にハクはまた笑みを浮かべると、袂から包み紙を出した。
「坊からまた千尋に上げて欲しいと、お菓子を貰ってきたよ」
「ありがとう」
千尋は嬉しそうに笑顔を見せると、片手を背後に回して紙を握り締めながら、もう片方の空いた手でお菓子の入った包み紙を受け取ろうとした。
しかし、ハクはそのまま手渡そうとはせず、自分の手の平の上で包み紙を開くと、中に入っていたクッキーを手ずから千尋の口元に運ぶ。
「んっ!」
まさかのハクの行動に、千尋は赤くなりながらも、既に口に入ったクッキーをどうする事も出来ずに、そのままもごもごと噛み砕く。
意識がそちらに行ったと瞬間をハクは見逃さず、紙を握り締める千尋の手の力が緩んだのを見て、透かさず、それを引き抜いた。
「!」
慌てて千尋はハクの手の中に納まった紙を取り返そうとするが、後の祭り。
今度はハクが千尋に背を向けて、その紙を読み始めた。
「読んじゃダメー!」
必死に彼の背に乗りかかり上から、もしくは彼の脇から入り込み横からと取り戻そうとするが、その度にハクは丁寧に全てをかわし、黙々と読む。
そうして暫くその攻防を続けていたが、彼が全てを読み終えたのを感じた千尋は力無く、彼の膝に突っ伏した。
「…どうして読んじゃうのー」
「…てっきり千尋に恋文でも来ているのかと思って…」
膝に千尋の頭を乗せたままハクは少し頬を染め、苦笑して答えた。
「そんなはずないじゃないー」
「私は知ってるんだよ。この間宴会に呼ばれた神様のひとりに頂いていただろう?」
「うっ」
「千尋は子どもの頃から、おしらさまといい、神々には人気だからね」
「……」
確かに湯屋に来る神様には気に入って頂いている方だとは思う。確かに恋文も頂いていた。――丁重にお断りしたが。ので反論できない千尋は頬を膨らませた。その彼女の頭にハクは手を乗せると、優しく撫でた。
「この恋文、早くくれればよかったのに」
嬉しそうに呟くハクに、千尋はかっと赤くなると、慌てて頭を上げた。
「違うのっ!それは恋文じゃなくって!」
「恋文じゃないの?こんなに情熱的なのに」
「…そんなんじゃないもの」
揶揄するように笑うハクに、千尋は恥ずかしくなって彼の膝にそのまま額を乗せ顔を隠した。
「まぁ、私がいざ会いに行こうとトンネルを抜けたら、千尋がトンネルに入ろうとしていた所で驚いたけどね。私が不甲斐ないから千尋を待たせ過ぎていたみたいだし」
「そんな事無い!…っその…不安だっただけで…」
「不安にさせるほど待たせてすまなかった。…ありがとう…待っていてくれて…」
耳まで赤くしてまだ顔を上げてくれない千尋の髪をハクはもう一度優しく撫でた。
「本当はね。もう一つ千尋に渡したいものがあって来たんだ」
そう囁くと、千尋はおずおずと顔を上げ、ハクを見た。
「なぁに?」
「これ…」
ハクはまた袂を探ると、一つの髪ゴムを取り出した。
それは蒼い海の色のような空の色のような鮮やかな糸を使ったゴム。
「綺麗…ハクの鬣みたい…」
「そう。私の鬣を混ぜて編んである」
「えっ!?」
驚く千尋に、ハクはふふっと笑って、彼女の髪ゴムをそっと外した。
「これは銭婆婆と坊たちのまじない入りだろう?再び会えるように。と。それは叶ったからもういいだろう。というのと、ずっと少し嫉妬していたんだ」
「嫉妬?」
「千尋が銭婆婆のものみたいで」
「だってこれがあったから、ハクとまたこうやって会えたんだよ」
「それはそうなんだけれど」
眉間に皺を寄せ、ハクの言う事が分からないと首を傾げる千尋を起こし後ろを振り向かせると、ハクは自分の編んだ髪ゴムで彼女の髪を結ってやる。
「これからはこれを使っていて」
「うん…」
「ずっと私の傍にいてくれるように。私だけの千尋でいてくれるように。とまじないがかけてあるから」
「ハクっ!?」
驚いて振り返る千尋の額に、ハクは軽く唇を寄せた。
「ずっと、これからもずっと傍にいてくれるように」
「…うん」
千尋が小さく頷くと、ハクはまた微笑んで、今まで彼女が付けていた髪ゴムを弾いた。
まじないが成就した髪ゴムはあっさりと切れ、キラキラと月の光を浴びて空に解けていった。
「今度は私が千尋に恋文を書くよ」
「はっ!ハクっ!?」

拝啓 荻野千尋様
あの夏から幾つもの夏を越えたでしょう。
幼かった貴方と二度も出会えた奇跡に、私は幾度歓喜したか知れません。
ずっと待ち焦がれていました。
貴方に再び会う為に。
貴方の為だけに。
私は再びあの世界に戻りました。
貴方は私さえ傍にいてくれるのなら何処で暮らそうが構わない。そう言ってくれた。
一度死の淵を渡った私に、一緒に生きようと言ってくれた。
どれ程心が震えたか。貴方は知らないでしょう。
貴方に出会えてよかった。
大切な。大切なひと。
どうか。
どうかこれからも私の傍にいて。
これからの私たちもどうか幸いで包まれますように。
―――ニギハヤミコハクヌシ

2012.05.07