よい

神も正月となれば、年の初めの祝いだと宴を催す。
勿論己が守護する社を持つ者は参拝者の為に常世に降りる者が殆どだが、変わり者の神や社を持たない神は懇意にしている神たちと互いに連絡を取り合い集う。
そしてそれにはやはり集う場所を必要とするものだ。
ここ油屋でも年の暮れと始めは大繁盛で、従業員は皆深夜まで走り回り、早朝には今度は朝餉の準備に追われ、眠る暇も無い程の忙しさに追われる。
しかし年一番の稼ぎ時。ここで弱音を吐いたものならすぐに石炭送りにされるので誰もいえない。というよりそんな事をぼやく余裕さえなかった。
「あーっ!」
ざっぱーん!
盛大な音が湯殿に響く。
幾つかに間仕切られている湯殿で、その一箇所に響いた悲鳴と水音に周囲の従業員や客が何があったのかと集まり始めていた。
「何があった!」
その騒ぎを聞きつけたハクは悠然と、しかし早足でその現場に訪れると、目の前の光景に絶句してしまった。
「あ。ハク様いいところでぇ」
湯船に入ったままの神の横で困り顔をしたままこちらを見るリン。
そして湯船の縁に背を預け、くたりと座り込んだ千尋を見つけた。
「どうしたんだ!?千」
ハクは慌てて千尋の元へ駆け寄り、肩を揺らすと、彼女はゆっくりと目を開け、そしてにっこりと笑った。
「ハクだぁっ!」
喜びの声を上げ、千尋は勢いよくハクに抱きつく。それをしっかりと受け止めながらも事情を求め、リンを見上げた。
「…あのなぁ。この神様の今入ってる風呂、酒風呂なんだけどなぁ…」
「…分かった」
そこまで聞いただけで、後は先程の悲鳴と水音で予測できた。
恐らく、その酒風呂の湯を継ぎ足している途中に千尋が足を滑らし、湯船に落ちてしまったのだろう。
今年始めた催しで、祝い酒かねて、酒湯をしようと提案したのは湯婆婆である。それ自体は客へのアピール方法としてよい手段であり、了承したのだが。
大湯女ならまだしも小湯女を酒風呂に配置するのは浅慮だった。とハクは今更後悔する。
目の前の千尋は元々酒の匂いに酔っていたところを、湯船に落ちて大量に飲んでしまったのだろう。体全体が酒臭い上に、酔いが回って呂律が回らなくなってしまっている。
「私れぇ。よってらいよっ!ひっくっ」
「千~。そんな事言ってる奴ほど酔ってるんだぞー」
リンが湯船の縁からけらけらと笑う。
「取り敢えず…リン後は任せた」
「あいよぉ~!」
ハクは自分の首に腕を巻きつけたままの千尋を横抱きにすると、目の前で困惑顔の神に一礼をし、その場を去る事にした。
「千に変な事するなよー!ひゃっはっはっ!」
リン自身も大人びた口調とそれなりに酒を嗜む年齢になり始めているが、まだそれでも子どもと呼ばれる年齢であり、小湯女だ。
「…あいつも自分が酔っている事気づいていないのだろうな…」
そう呟くと、彼の後を付いて来た男の一人に声をかけ、リンと交代するように指示を出してからその場を後にした。
千尋が目を覚ましたのは既に朝方になる頃だった。
日の光が空を赤く染め始め、その一方でそれまで闇の世界で徐々に冷却されていた空気が最高潮に冷え切り、その分澄んだ空気が鼻を通り刺激する。
肩まで包まれていた温もりで暖を取るには物足りなくなり、身震いをすると同時に千尋はゆっくりと目を覚ました。
「…あれぇ?」
いつもと違う景色に、千尋は思考が固まらないまま体を起こす。
雑然とした湯女部屋とは違う、趣のある部屋。
かけられている布団も自分がいつも寝ているものよりも上等の物だった。
「起きた?千尋?」
聞き慣れた声に振り返ると、ハクがこちらを見てにっこりと笑った。
「あれ?…あれ?ここハクの部屋っ!?」
「そうだよ」
「ええ!?私どうして!?確か…お客様のお風呂の用意してて…」
そう呟いて、千尋は俯くと、はっと顔を上げてハクを見た。
「お酒の湯船に落ちちゃったんだ!」
「思い出した?」
苦笑するハクに千尋は赤くなって俯く。
「大人のヒトって何であんなのおいしいっていうのかなぁ…だってすっごい熱くって…口の中焼けるみたいで…おいしくないのに…あれならお菓子の方が美味しいよ…」
「そうだね」
喉が渇いていないかと渡された水を手にしてゆっくりと飲み干す。
口の中がカラカラで喉の奥にひっかるような感覚に不快さを感じていた千尋は水が喉を通る事で無意識にほっと安堵の息を吐いた。
そうして段々と冷静になっていく思考の中で、千尋ははた。と今自分のしている格好に目を向けた。
そう言えば今の自分は腹掛けも付けていないし、水干も着ていない。よくよく見ればハクの寝巻きを一枚羽織って眠っているだけだった。
何処かもぞもぞと着心地の落ち着かない寝巻きが直接肌に触れ、下着も何も着けていないことが分かる。
「…え…っええええぇぇぇ!?何で!?何で私これしか着てないのっ!?」
水を飲み干した湯飲みを床に置き、慌てて襟を押さえると、布団を肩まで持ち上げる。
それでもハクを前にして心許無かった。
「あんな酒でびしょ濡れの姿で眠らせる訳にはいかないだろう?」
ハクはそんな千尋の様子を少しも気にせず、何を今更とでも言うように首を傾げる。
「もっ…もしかしてハクが着せてくれたの?」
「ああ」
「…お酒の匂いもしない…のはまさか拭いてくれたの…?」
「そうだね。千尋覚えてない?拭いてる間もずっと擽ったいって逃げ回るし、笑ってヒトの肩叩いて来るし、大変だったんだから」
「――何でそんな事するのー!?」
千尋は真っ赤になって悲鳴を上げる。
「千尋だって嫌がっていなかったよ?気持ち悪いから服は脱ぎたいって言うし、拭いたら拭いたで気持ちいいからもっと拭いてくれって言うし」
「!」
笑うハクに千尋はその場で落ち込んでしまう。
全く記憶には残っていないし、自分からそんな事言っただなんて信じられないからだ。
きっとその時の自分は素っ裸だったのだ。その姿で平然とハクにおねだりをしていたのか自分と思うと居ても立ってもいられない。
いっそ自分には記憶は無いのだからハクの悪い冗談であればいいのに、目の前の彼の瞳と表情を見れば事実であること以外の答えは無い。
「…ハク…は…平気だったの…?」
「何が?」
平然と笑うハクに千尋は益々落ち込む。
この湯屋で仕事をし始めてから結構経った。
年齢だって重ねている。
もう二、三年前の自分だったら父親と平気でお風呂も入ってたし、きっとハクとだって入ろうと思えば平然と入っていただろう。
けれど、日々聞かされる男女のいろはを姉様たちに教えられると、それまでの自分がどれだけ恥ずかしい事を平気でしていたのだろうかと知りと穴があったら入りたくなったのだ。
そのくらい千尋の今の心境は変わっている。
ましてや異性として意識し始めているハクに素肌を見られ、そしてその肌を拭かれるだなんて。
「…うぅぅっ!ハクのばかっ!ばかっ!リンさんでも誰でも頼めばよかったのに!何て事するのよ!」
「リンは既に千尋と同じように酔っていたし、他の者は皆、正月の宴で手が離せないって分かっているだろう?」
「そうだけどっ!そうだけどっ!ばかぁっ!」
「何を怒っているか分からないよ?千尋」
行き所の無い怒りをぶつけ、冷静に答えるハクが千尋は憎い。挙句に彼には千尋が何故怒っているのか分からないというのだ。
少しも自分を異性の対象として見られてない事を突きつけられる言葉に、また悔しい。
真っ赤になって嗚咽を漏らし始める千尋に、ハクは困った表情で笑う。
「それだけ喋れるならもう大丈夫だね?」
そうして、千尋に近づいて屈み込むと、そっと頬に手を触れた。
「ここ最近の忙しさで疲れも溜まっているだろう。どうせだからこのままここで休みなさい」
「うぅ…ばかぁ」
未だ顔を真っ赤にし、彼を非難し続ける千尋にハクはくすりと微笑む。
「あのね。いつかは千尋の全てをもらうのだから、今触れても同じだろう?」
「!?」
「大丈夫。千尋の心が定まるまで待つから。安心なさい」
それだけを言うと、ハクは千尋の頬から手を離し、立ち上がると部屋を去っていってしまった。
「…っ!?っ!っ!?」
残された言葉の意味に惑わされて、千尋はその後中々寝付く事が出来なかった。

2013.01.03