青々とした木々が風に揺れて、木漏れ日が、廃寺へ続く階段に降り注ぐ。
石を敷き詰められて出来た階段は既に崩れ始め、所々に日の光が当たる場所を求めて背を伸ばす草が僅かな足場を覆い隠していた。
ゆらゆらと葉が揺れる度に、緑で染められていた石段が白く浮き出ている。
陽が昇ってからずっと光を集め続けていた石は熱を持ち、その上に座る三人に仄かな温もりを与えていた。
「聞いてくれよ!みお姉!おいらずっと話したい事一杯あったんだ!」
目の前に座る薄紅色の着物を纏った少女に、どろろは満面の笑顔で語りかけた。
「うん。聞かせて。どろろの話聞きたい」
笑うみおにどろろの表情は更に明るくなり、懸命に自分の伝えたい事を話し始める。
みおが死んでしまった後の事。
百鬼丸の事。
鬼神の事。
百鬼丸の家族の事。
どろろが連れ去られた時、百鬼丸が迎えに来てくれた事。
百鬼丸と一緒に旅をして、学んだ事、感じた事。
嬉しい事。悲しい事。
どろろが決めた事。
百鬼丸が決めた事。
ただ、ただ、みおは彼女の話を促すように深く頷いて、そして、時折憧憬を感じさせるように深い眼差しを見せる。
時に涙を浮かべ、時に笑みを浮かべ、時に不安げな表情を見せ、時に強い意志を持った眼差しを見せ、そして、年頃の少女らしく笑うどろろに、みおは眩しそうに目を細めた。
「…どろろも、もう私と変わらないくらいの年になったのね」
そう言って、みおはどろろの長く伸びた髪を一房掬う。
幼い頃くせっ毛を一つに括っていた髪は下ろされ、艶やかに真っ直ぐに伸びた髪の中に時折混ざる跳ねた髪が懐かしさを残す。
少し茶色交じりの髪を梳くとするすると白い指先から零れていった。
目の前の少し気の強そうな眦をした瞳がみおの瞳を覗き込んだ。
「おいらなんて、大きくなっても全然みお姉に敵わねぇ。おっかちゃんは別嬪だったんだから素質はあるはずなんだけどなぁ」
「どろろは綺麗よ。女の子らしくて可愛い」
くすりと笑ってみおが言うと、どろろはぷくりと頬を膨らませた。
「そんなことねぇよ。だってみお姉みたいに真っ直ぐに伸びないでくせっ毛だから結局束ねとかないと邪魔だし、いくら大きくなっても乳はちっともでかくなんないし」
「そういう風に気にするところも、もう、十分女の子らしいわよ」
「…嬉しいけど、ほら、昔おいら、男みたいな格好してただろ。長い間それが染み付いてるから、どうも素直に喜べないんだよなぁ」
微妙に頬を歪ませ何処か自嘲するように笑うどろろに、みおも「そうね…」と小さく返した。
今の時代を生きるには、女性らしくある事は武器にもなるが、その分危険も多くなる。
「みお姉みたいに綺麗になりたいなぁ。綺麗で。強くて」
「私は別に…」
「みお姉は今も昔もおいらの憧れなんだ!おっかちゃんの次に尊敬してる!」
「ありがとう。けど、私は…」
「おいらはみお姉が大好きだ!」
頬を染めて笑うどろろに、みおは俯きかけた顔を上げて、屈託無く笑う彼女に、微笑んだ。
「私もどろろが大好きよ」
そう応えると、また無邪気に嬉しそうに笑うどろろに、みおは目頭が熱くなるのを感じた。
「私は、どろろこそ尊敬しているわ」
みおの仕事を知っていたように、百鬼丸に会うまで母と死別してから幼い子どもが一人で生きていた。決して綺麗なものだけをその瞳に映して生きてきたはずではないだろうに、少しも翳る事の無い、別れたあの時から変わらない真っ直ぐな意思を持つ少女。
そして誰もを俯かせないで、顔を上げさせ、自尊心を奮い立たせる強い芯を瞳に宿す少女。
ふわりとまだ幼さを残す柔らかな頬を撫でると、どろろはくしゃりと頬を緩め、その掌に己の頬を摺り寄せた。
それまで生きてきた経験故に、警戒心を持ちながらも、自身は人の心に簡単に入り込む。
きっと、そんな少女だから。
「百鬼丸も貴女の事が大好きよ」
そっと囁く言葉に、どろろはぱちくりと瞬いた。
「何であにきが出てくるの?」
瞳の奥に少しの動揺が見えて、みおはふふっと笑った。
「百鬼丸。そんな顔しないでも、私はどろろを取らないわよ?」
どろろの後ろでずっと二人のやり取りを見ていた百鬼丸はずっと不貞腐れていた表情をしていたのをみおは気付いていたが、声を掛ける事でその表情が歪み、顰め面に変わった。
「あにき?」
温かい両腕がどろろの腹に回り、ぐいと百鬼丸の胸元へ身体が引き寄せられた。
「つまらない」
「あ?おいらにみお姉取られて不貞腐れてるのか」
「……」
どろろの問いに、眉間の皺を深めて黙秘する百鬼丸に笑って、腕に閉じ込められたまま彼女はみおを見た。
「みお姉!この通り、もうあにきの腕も足も全部あにきのものに戻ったんだぜ!目も見えるし!みお姉がどれだけ別嬪かも分かるんだ!」
「みお。綺麗」
己の腕の中で尚、みおに話しかけるどろろに不満気な表情を見せながらも、顔を上げ、百鬼丸は真っ直ぐみおを見つめると、曇りの無い眼差しでそう言葉にする。
出会った頃は生まれたての赤子のようであった百鬼丸。
彼も全てを取り戻し、齢を重ね、世を知り、沢山の経験を積み重ねてきたはずなのに、その眼差しは変わらない。
己の性別を今は自覚しているはずなのに。
全てをありのまま真っ直ぐに見据える。
だから、彼の言葉も素直に受け止められる。
みおはどろろを見つめ、そして、百鬼丸を見上げた。
「ありがとう」
心からの言葉が、零れる。
木陰から降り注いだ日差しが、二人の間に降り注ぎ、眩しさにみおは目を細めた。
赤子のように感情を表す術を知らなかった百鬼丸が笑っている気がした。
それは彼の腕の中にいる、大切な少女のお陰。
みおにとっても少女が大切であるように、彼にとってもとても大切。
それはきっと、彼が異性を知って、別の意味を含んでの大切もそこにある。
どろろが百鬼丸に注がれる眼差しは、みおに向けるものと似て、異なるもの。
深く、甘い。
いつか何処かでみおも憧れていたもの。
「あ!そうだ!みお姉が大事にしてた種籾から出来た米!今年も豊作だぞ!」
「え?」
二人のやりとりに嬉しそうに笑うどろろは、思い出したように言葉を上げた。
「みお姉が武士どもから手に入れてきた種籾!最初に蒔く時も大変だったんだ。あにきが稲の作り方も種籾も知らないから、放さなくて、放さなくて…」
「どろろ」
少し強く咎める口調で百鬼丸はどろろを制す。
それに懲りた様子も無く、にししと笑うと、どろろはまたみおを見上げた。
「いつか一緒に見よう。みお姉たちが夢見ていた稲穂の海。今、おいらたちの村一杯に広がってるから」
「――うん」
あどけなく笑うみおの頬にどろろは百鬼丸の腕から逃れ、そっと触れた。
その頬からはぽろぽろと大きな涙の雫が止め処なく溢れ、零れ落ちていた。
熱く、柔らかい、涙。
「みお姉」
「どろろ。ありがとう」
緑で染められた世界が少しずつ光に飲み込まれて。
出会った頃から何処かずっと大人のような憂いを帯びた表情を見せていた、みおが、年相応に笑う姿に、どろろはほっとして。
そして――。
目が覚めた。
目を覚ますと、最初に映る世界は群青色で。
窓を見上げると、朝焼けに染まる前の藍色の世界がそこにあって。
隣には百鬼丸が寝転がっていた。
「…みお姉」
吐き出す呼吸に漏れる言葉。
ぴくりと百鬼丸の方が揺れたかと思ったら、ゆっくりと起き上がり、どろろを振り返った。
「あにき。早いな。おはよう」
息に含まれた哀愁を悟られないように、呼吸し直すと、明るい声でどろろは百鬼丸に挨拶の言葉をかけた。
「おはよう。どろろ」
そう言うと同時に、腕が伸ばされ、夢の中とは逆に今度は正面から彼の腕の中に閉じ込められた。
「何だよ。夢の中でおいらばっかりみお姉と話してたから焼餅でも焼いてるのか…なんてな」
「みおばっかり。どろろ俺を見ない」
「はぁ?えっ!?」
どろろは呆れたように溜息を吐いてから、驚いて顔を上げた。
「俺もどろろとみおといた。きっとどろろと同じ夢を見た」
「そんな事もあるんだな」
「どろろとみお二人きり」
「違うだろ。あにきもいたろ」
「俺を無視する」
「してねーって!」
百鬼丸の不満に反論ばかりするどろろに納得がいかないのか、彼は少しだけ体を離すと、どろろの長い髪を一房掬う。
そして、ゆっくりと口付けた。
「!?」
「どろろ。綺麗だ」
「そっ!そうかよっ!」
慌てて百鬼丸の掌から己の髪を引き抜くと、照れくさそうに頬を染め、ふいっとどろろは横を向く。
「どんな姿でもどろろはどろろ」
夢の中でどろろが漏らしていた不満を百鬼丸は聞き逃していない。
「俺はどろろが好きだ」
そこまで夢の中で聞いてたのかよ。とどどろは恥しくなりながらも、口の端が上がっていくのを感じた。
「ありがとよ」
「うん」
笑うどろろに、百鬼丸も微笑む。
陽が昇れば、稲刈りの一日が始まる。
何度も失敗して、少しずつみおの種籾を消費していって、何とか辿り付けた収穫の日。
安定して収穫するにはまだまだ時間がかかるけれど。
家の戸を開ければ、そこには黄金色の稲穂が視界一杯に広がっている。
みおの願い。想いを少しずつ昇華していって。
それはいつしかどろろと百鬼丸とみおの想いと重なり合って。
どろろと百鬼丸はこれからも生きていく。
終