ゆるり2

千尋は覚えていない。
あの日の出会いも。
再会の喜びも。
油屋のことも。

あの日の約束のことも。

「ハク。あのね。今日はね・・」
頬を紅潮させ、無邪気な笑顔で千尋は様々な事を話す。
学校の事。友人の事。家族の事。今日あったこと。事細かに語る。
どんなに話しても話したり無いかのように、水のようにこぼれる言葉は止まることが無い。
「千尋。そんなに慌てて話さなくとも、私は何処かへ行ったりはしないよ」
息をつく暇も無いほど喋り続ける少女に、ハクは苦笑して、落ち着かせる。
彼の指摘に、千尋ははっと言葉を綴ることを中断すると、今まで足りなかった酸素を一気に補おうと、喉が勝手に呼吸を早め、肺が酸素を求めている事に気づく。
そして、高揚感で赤く染まっていた頬は、さらに赤くなっていった。
「・・だって、いっぱいいっぱい話したい事があるんだもの・・」
「大丈夫。ゆっくり聞くから。ずっと千尋の側にいる」
呼吸を整えながら訴える千尋の言葉。その言葉の奥にある彼女の不安を取り除くように、ハクは彼女の瞳を見つめ、微笑み、彼の想いを伝える。
「・・・うん・・・」
彼の綺麗な微笑と何処までも優しい声に、千尋は頬を染めると、俯き、小さく返事を返す。
彼女の返答にほっと息をつくと、未だ俯く千尋に、「それで、その話の続きが聞きたいな」と、促す。途端、千尋はぱっと顔を上げ、また話を始める。

愛しい少女。
覚えていないはずなのに、彼女は時折、不安そうな表情を彼に向ける。
彼がいつか自分の側から離れていってしまうのではないかと。

彼は、あの日、草原で誓った言葉を果たした。

『いつかまた会える?』
『うん。きっと・・』
『きっとよ・・』

繋いでいた手を離す瞬間。
いつ果たされるか分からない約束。
いつか何処かで再び出会う彼女は覚えていないだろう。
それは予感していた。
己の世界と異なる世界の記憶はとてもうつろいやすいものだから。
まどろみの中で見る夢のようなものになってしまうから。
けれど、あの時、あの世界にいる間、千尋が自分が側にいる事を望んでくれた。
ハクは自ら望んで千尋の側にいた。
しかし、いつか出会った時の千尋が、彼が側にいる事を望んでくれるか分からない。
ただの彼の傲慢になるだけかもしれない。
それでも、あの時、あの別れの瞬間、彼が側から離れることを不安がり、彼を必要としてくれる千尋が。
------とても愛しかった。

ハクはたった一つの誓いを果たすために、彼自身の望みをかなえるために、一度は追われた地へと戻ってきた。
ただ一人の少女の元へ。
風を巻き上げ、小さなそれでいて何よりもかえがたく、愛しい少女の元へ、竜の姿で降り立った。
彼女は目を見開いて、彼を見つめていた。
そんな彼女の前で、彼は人の姿をとり、そしてじっと注いでくる眼差しを見つめ返す。
「千尋」
何度言葉に紡いだことだろうか。
どんなに言葉に紡いでも、愛しさを声に乗せても、伝わる相手はいない。伝える術も無く、何度深い慟哭に落ちた事だろうか。
今、目の前に何よりも大切な言葉を名に抱いた少女がいる。
心を言葉に乗せ、想いを伝えることを望む相手がいる。
ハクは愛しさと喜びで全身の熱が上がるような感覚を感じながら、名を呼んだ。
「あなたは誰・・?」
千尋は突然の出来事に驚いていたが、彼が声をかけると、不思議そうに首を傾げ、呟いた。

声が出なかった。

しかし彼女は不信そうに呟くというのではない。
本当に、今、目の前にいる彼の存在を彼女は不思議に思っているのだ。
「あなたは誰?」
もう一度呟く。

ハクは言葉を返す事が出来なかった。
忘れられていることが悲しくて。痛くてではない。
そんなことは覚悟していた。それでもやはり忘れられていたら胸が痛むだろうとは思っていたが、そのために声が出なかったのではない。

-----千尋が泣いていたのだ。
嬉しそうに。愛しそうに。微笑みながら。彼を見つめて。
とても懐かしそうに笑みを浮かべながら、その瞳から涙が零れ落ちているのだ。
ぽろぽろと。
「あれ?何で私泣いてるんだろ。ごめんなさい」
止まることなく零れ続ける涙を、千尋は何度も拭うがそれでも止まる事は無い。
「どうして?」「どうして?」と呟きながら、彼女は涙を拭い続ける。
そんな彼女を暫くの間見つめ続け、ハクはすっと手を差し出すと、未だ止まらず流れ続ける涙を優しくすくう。
「あれ・・・止まった・・」
千尋は自分の中の感情に意識が反応しきれず、ハクが何かしたのだろうかと不思議そうに彼を見上げる。
ハクは苦笑する。
「・・・・私の名は・・・・・」
一瞬彼は何かを思い、躊躇すると、優しく笑みを浮かべ、己の名前を告げる。
「ニギハヤミコハクヌシ」
「ニギハヤミ・・・?」
千尋は顔を上げ、首を傾げる。
その仕草に、ハクは頷く。
「ニギハヤミコハクヌシ。それが私の名」
己の真名。
普段、神が人間に真名を明かすことは無い。
例え、神同士であっても。
余程の事がなければ、己の伴侶になるものにしか名を明かすことは無い。
しかも、ただの人間に知らせることなど無かった。
けれど千尋だけは違う。
彼女にだけは知っていて欲しかった。
一度忘れた名を取り戻してくれたのは、何より、彼女なのだから。
いや。それはただのこじつけた理由かもしれない。
ただ、千尋にだけは知っていて欲しかった。
それは彼の望みだった。
聞きなれない名前に、千尋は首を傾げたが、急にぱぁっと笑顔になると、
「すごい名前!神様みたい!」
と、笑った。

『・・・ニギハヤミ・・・?すごい名前!神様みたい!』

かつての少女がそう叫んだ。
ハクは戸惑いを隠せずにはいられなかった。
そんな彼の動揺を知らないまま、千尋は何を思ったのか、一人でうんうん唸り始める。
「うーんと・・・じゃあ、ハクね!」
唸り続けていたかと思うと、ぱっと顔を上げ、声を上げる。
ハクは一瞬、心臓が止まるかと思った。
そうした胸の動機を、千尋に見せないように抑えながら、にこにこ笑いかけてくる少女に「何故?」と問う。
「ニギハヤミコハクヌシって長い名前だよね。だからもっと呼びやすくしてみたの!・・・駄目?」
千尋にしてみればこれ以上無いくらい、しっくりとはまった名前だと感じただけに、ハクの反応を不安げに伺う。
そう・・・とても呼びなれているような感覚だった。
その名前と共に、とても胸の中が喜びで一杯になるのだ。
ハクは苦笑し、そして、柔らかな笑みを浮かべる。
「いや、嬉しいよ」
その言葉に、千尋はぱぁっと明るく笑みを浮かべると、ぎゅっとハクの手を取る。
「ねぇ、ハク!また会える!?」
「会えるよ」
「明日も?」

「明日も」

「明後日も?」

「明後日も」

「ずっと、ずっと!?」

「ずっと・・・・・ずっと、千尋の側にいるよ」