「ハクー!!」
自分を呼ぶ、愛しき少女の声。
何よりもかけがえなく、何よりも尊いもの。
己の全てをかけて慈しむ存在。
唯一の、自らが今ここに存在する意味の全てが、まどろみにいた彼の目を覚まさせる。
あの頃の少女はいないけれど。
千尋は今、私の側にいる。
秋は深まり始めているが、未だ緑の葉が多い茂る深い森に残した一筋の山道を、少女は息を切らしながら走っていた。
少しでも早く会うために。
待ち合わせの約束をしている訳では決して無いのだけれど、ただ少しでも多くの時間を一緒に過ごしたいと望むひとの元にひたすら向かっていた。
獣道に近い、コンクリートで整備もされていない山道の最終点まで辿り着くと、いきなり視界が開け、葉が生い茂る木々の緑から、目の前に巨大な朱色のモルタル製の門が視界全体に焼きつく。
ここがいつもあの人と出会う場所。
ゆっくりと足を止め、緑多い茂る木々たちを見渡すと、大きく息を吸い、そして少女は呼びかける。
心の奥にある小さな想いを込めて。
「ハクーーーー!!」
彼女の声を乗せて風か舞い上がる。
かの人に届くように。
何処にいても自分に気づいてもらえるように。
見つけてもらえるように。
風が声を乗せ、彼女の想いを運ぶのを手伝う。
声が空に舞い上がり、溶けていくのと同時に、新しい風が、彼女の横を吹き抜ける。
巻き上げられた砂埃に、少女は思わず目を閉じてしまうが、心は喜びに満ちていた。
これはいつものこと。
知っている。
だから不安は無い。安心感と喜びだけが、彼女の胸を満たしていた。
目を閉じ、そして目を開いた次の時には、待ち望んでいた、かの人は、もう彼女のすぐ目の前にいた。
「千尋」
その人は、優しい穏やかな笑みをたたえると、大切なものを扱うようにゆっくりと少女の名前を言葉に紡ぐ。
少女はその微笑みにほっと息をおろし、そして微笑み返した。
(今日もまた会えた)
これが彼女の日課だった。
彼女の住む家のすぐ横には大きな森が広がっている。
そこは人が入るために、いくつか道は作られていたが、どれも人が入る足跡によってできた道で、未だコンクリートで整備されていない道が多々あった。
その中のひとつにこの彼女の今、目の前にあるモルタル製の朱色の門が構える場所に続いていた。
何気なく入ったその道。
きっかけは覚えていない。
森は深く、普段は子どもが一人で入る事は止められ、大人でさえも滅多に入る事が無かった。
その森の奥には、不況のあおりを受けた工事途中のテーマパークの残骸があり、道に迷う人間が多かった事もあった為、人が近づく事は少なかった。
元来、子どもたちは、大人に止められると入ってみたくなるという好奇心が疼くものだったかが、不思議な事に、少女の通う学校の子どもたちには少なくともテーマパークに関してそうした好奇心を持つものは全くいなかった。
だから、千尋も何か特別興味を持っていた訳ではない。
ただ。
何となく引かれたのだ。
何かに。
心が。
気が付いたら、足が動いていた。
森に入る道は少しも怖くなかった。
森の際奥に辿り着いたとき現れたモルタル製の門は逆にーーーー懐かしかった。
今まで一度も来た事が無いはずなのに。
そして。
そんな不思議な感覚を感じていたとき。
出会ったのだ。
竜の姿から、姿を変えた不思議な衣装を身にまとった少年と。
当たり前のことなのだが、それまで物語の中だけに存在していると思っていた竜が、彼女の目の前にいて、千尋は驚いた。
けれど驚きよりも。何よりも。
初めて出会ったはずなのに。
何故かーーーーーー嬉しかった。
今まで会えなかった人に会えたような、不思議な感覚、嬉しさが込み上げてきたのだ。
しかも、彼は。
「千尋」
自分の名前を知っていた。
その時の少年の表情は言葉では表現できないくらい。
竜の姿でありながら。表情読み取る事は難しいはずなのに、それを感じるくらい喜びで溢れ、人の姿をとった少年は。
目を細め。慈しむように彼女を見つめ、その瞳の中には。
喜びで溢れていた。
千尋は、自分の名前を呼ばれた事を、少しも怖いと思わなかった。
初対面にも関わらず、喜びに笑みを浮かべ、自分の名を呼ぶ竜を、怖いとは思わなかった。
逆に、彼が自分の名を呼んでくれたことに、嬉しくて、懐かしくて。
気が付いたら、涙が溢れ、頬を伝うくらいに。
幸せだった。
良く考えてみれば、不思議な出会いだった。