ハクの体あったかい・・・。
抱きしめられながら、そんな事を思う。
とくとくと心臓が一定の調子で鳴り続け、それが千尋を安心させ、心地よい。
温かい。
ハクはいつだって柔らかく千尋を包んでくれる。
・・・・だから好き。
段々と心が落ち着いてくるのを感じると同時に、千尋は重要な事を思い出す。
「ハク!お仕事は!?」
「抜け出してきた」
千尋の驚きにあっさり答えるハクに、彼女は次の言葉が出なかった。
働かなければ石炭にされる。それは油屋で当然のこと。そんなことは分かりきっているはずなのに、何事も無いかのように答えるハクを千尋は呆然と見つめる。
「千尋の方が大切だから」
すると、ハクは笑みを浮かべ、言葉を続けた。
その言葉の中には少しも焦りも揺らぎも無く、耳元で真摯に囁くようにして伝えられる言葉に、千尋は体温が急上昇して、熱くなるのを感じる。
一旦ハクを意識してしまうと、今抱きしめられていること自体がとても恥ずかしくなり始め、体の奥がくすぐったくなるような気持ちになり、いたたまれなくなり始める。
抱きしめられているのが堪えられなくなり、もぞもぞと体を動かし、離れようとするが、逆に強く抱きこまれてしまった。
「は・・はくぅ・・」
「放して」と言いたいのだが、心の何処か奥にまだこうしていて欲しいという気持ちも見え隠れしており、それを自覚することにより、頭の中が沸騰する。ぎゅっと抱きしめられる理由も分からず、恥ずかしさはピークに達し、半分パニックを起こしながら、もぞもぞも、もぞもぞと千尋は動くしかなかった。
「千尋・・・くすぐったいよ・・」
だったら放してー!
と千尋は思うのだが、声にはならない。
それでも、もぞもぞ動くと、頭の上でやがてくすくすと笑い声がする。
「はっ、ハクっ!」
千尋が困っているのを分かっていて、彼は抱きしめているのだ。
そのことに彼女はやっと気づき、声を上げると、ハクはするりと腕の中から解放する。
そして千尋を見つめ、目を細めると、優しい笑みを浮かべる。
「・・・よかった・・・」
一瞬、千尋は「何が?」聞き返そうとしたが、自分がついさっきまで持っていた暗い感情が、体から抜け出ているのを感じ、「ああ、気づかれていたんだ」と納得する。
千尋はハクを見上げると、心配をかけたことに対して謝罪する。
「・・・ごめんなさい・・・」
「・・・・もう少しここで、座っていようか」
千尋の謝罪の言葉について、ハクは何も触れず、ただ、座り込み、彼の隣に座る事を勧める。
だから千尋も続ける言葉も無く、彼に従い、階段の上に腰を下ろす。
何か聞かれるだろうか。
心配をかけたのだし。
けれども。
今は聞いて欲しくない。この暗い感情を言葉にしたくない。
自分が怖くなる。
何より。
こんな暗い部分を持っている自分を、ハクに話して、彼に嫌われたくない。
様々な心が混在し、不安ばかりが千尋の胸を駆け巡る。
しかし、ハクは彼女がいくら構えようとも、聞いてくる気配が無かった。
それどころか話しかけてくることさえも。
どうして座ろうって言ったの?
何で何も聞いてくれないの?
どうして側にいるだけなの?
不安だけが煽られ、胸が一杯になる千尋に少しも気づいていないのか、ハクは遠くを見つめ、そして、ふいに呟いた。
「千尋・・。星が、綺麗だね・・」
ハクの視線の先を追い、見上げると、空には満天の星。
千尋の世界ではもう見る事ができなくなってしまった無数の星が空を埋め尽くしている。
ただ見上げるだけ。
それだけで、彼はその後何も言葉を続ける事は無い。
高台にいるため、常に強く冷たい夜風が吹きつける。
そのままぐらりと揺らされ、飛ばされて、闇色の海に落ちてしまいそう。
側にはハクがいる。
足元は頼りない板一枚。
それが今、壊れて無くなれば、千尋はこの黒い空に放り出され、そして落ちていくしかないだろう。
落ちたその先に待っているものは・・・・。
側にはハクがいる。
今ここで、私が消えたらどうなるんだろう。
リンさんは悲しんでくれるかな?
おじいちゃんは泣いてくれる?
坊は寂しがってくれる?
ハクは・・・・。
側にはハクがいる。
ふと、手を伸ばし、千尋はハクの腕に自分の手を絡める。
ハクは少し驚いて、千尋を見たが、「駄目?」と尋ねると、「いや」と微笑みを返す。
とくとくとくとく。
ハクの腕に頬を寄せると、心臓の音がかすかに伝わってくる。
温かい。
不安も、悲しさも、全部、全部溶かしていく。
柔らかさを、温かさを与えてくれる。
だから、-----落ち着く。
「・・・ハクは・・・死ぬの怖いと思ったことがある?」
「・・・・・・・ないよ」
少し沈黙し、ハクは千尋に言葉を返す。
チクンと胸が痛む。
「そっか・・・」
そう呟くと、千尋は黙ってしまうしかなかった。
やはり自分だけなのだ。
生きるとか死ぬとか、そんな事を考えるのは。
皆前に向かって生きていく。
ただまっすぐに。
自分は後ろ向きに生きているから、そんな事を考えてしまうのだ。
ハクは・・・・・。
ハクはきっと・・・・・私が死んでも悲しまない。
胸の中に黒くて重いものが流れ込んでくるようだった。
重くて。重くて。そのまま自分が押しつぶされてしまいそうだった。
ハクが口を開こうとする。
千尋は何を言われるのか、次の言葉に脅え、構えながら、それでも制することなく、彼の口から紡がれる言葉を待った。
これ以上、こんな気持ちを深くさせたくない、傷つきたくないと願いながら。
「私は・・・自分がいなくなることの方が怖い・・」
死ぬのは怖くないのに、いなくなるのは怖い?
発された言葉の意味がつかめず、千尋は首を傾げる。
「・・・・川が無くなる時、死を覚悟した時、不思議と恐怖は無かった。私はあの地に生まれ、あの地に、川で暮らすものをずっと見守ってきた。時の移り変わりを見守り続けてきた。時は必要なものを残し、必要ないものは存在を押し流してく。私も時の流れの中で、必要とされないものであったのなら仕方が無い。死を求められるのなら、受け入れる事ができた。しかし私があの時、あの場所から存在が消えようとした時、私を認めてくれたものは果たしていたのだろうかと不安になった。そう考えると怖かった。消え行く私を誰も認める事はしない。このまま消えても、時は変わらず移り変わり、生あるものはその生を謳歌する。私の命が消える事など、時の流れの一瞬の些細な出来事に過ぎない。当然のこと。・・そう当然の事なのかも知れない。けれどもそうすれば私という存在は一体なんだったのだろうか。私という生は一体何のためにあったのだろうか。
そう思った瞬間、とても怖かったよ。死を恐れるよりも、その場から、私という存在そのものが消える事の方が何倍も怖かった」
俯き、ハクは呟く。
「・・・・いや・・むしろ・・・悲しかったかな・・・・・」
川を埋められ、躰は捩れ、軋み、千切れるかと思った痛み。
人間の手で、人間の都合によって、その命を消されようとしていた、心の痛み。
苦痛ばかりが全身を駆け巡り、己の死を感じていた中で、死に恐れは感じなかった。
他者に消される命を惜しむよりも。
己の存在を忘れられる事の方が怖かった。
影を落とすハクの顔を見つめ、千尋は自分の迂闊さを呪った。
彼は一度死にかけたのだ。
自分が不安になっていたからといって、聞いても良い言葉ではなかったのだ。
彼を本当に想うなら、聞くべきことでは無かったのだ。
「・・・・・ごめんなさい・・・・」
半分涙声になりながら、千尋は謝罪する。
そんな彼女をハクは微笑んで見つめる。
「千尋・・・。生がある以上死がある。それは誰にも覆す事はできない。千尋は今を生きているのだから、体験した事の無い死を恐れるのは当然だよ。私だって死後の世界は分からない。だから不安だよ」
不安。
不安なのかもしれない。
ハクの言う通りかもしれない。
死ぬのは怖い。
けれど、もっと怖いのは、千尋という存在を誰も見てくれなくなること。
いなくなることの方が怖かったのかもしれない。
ハクも同じ気持ち。
「私は・・・私が消えたら、千尋には泣いて欲しくはないと思う・・・。けれど、悲しんで欲しいと思う。・・・違うな・・・。千尋の中で過去のものにしてなりたくない。ずっと側にある存在でありたいと思う」
千尋の中で、暗くて塞がった心の闇に、ぽぅと灯りが燈ったように、心が暖かくなる。
そうすると、無性にハクが愛しくて、そして胸が痛くなる。
「・・・私も・・・ハクのずっとずーっと・・・・・・側にいたい・・・」
恥ずかしさが先立って、ハクのようにするりと言葉は出てこない。けれど自分も同じ思いを持っているのだと彼に伝えるために、精一杯の勇気を振り絞り、声に出す。最後には本当に小さな掠れた声になってしまったが。
「私たちは同じだね」
くすくすとハクは笑う。
あんなに心が暗くて、穴が空いていて、気持ち悪かったはずなのに。
ぽっかり空いた隙間を、ハクの暖かい心が埋めてくれる。
暖かさが広がっていく胸に、千尋はそっと手を当てる。
「千尋・・・・。きっとね。死ぬことが怖いのは、生きていることを愛しいと思うからなんだと思う。草も木も風も神も・・・そして人間も。生きている全てを、精一杯生きている自分自身を愛しいと思うからだと思う」
優しく、風がそよぎのように柔らかく、囁くように綴られるハクの言葉。
ことりと落ちた。
はずれていたパズルのピースを埋めるように。
ぴたりと穴に埋まる。
ああ。そうか。
あの時と同じ感覚。
理屈でも、言葉でもなく。
心に落ちた。
その響き。