■千尋最強伝説・31■
最初の違和感は何気無い会話からだった。
「ハク」
その日も雷神の部屋を辞し、湯女部屋へ戻ろうとしていたのがだ、もう何日もハクに会う暇も体力も無く部屋に戻って爆睡していたので、久し振りにまだハクがいるであろう帳場に顔を覗かせた。
彼はいつも誰よりも早く起きて、全てが終わった後、一番最後に全てを確認してから部屋に戻っていたから。
千尋がひょっこりと入り口から顔を覗かせると、ハクが顔を上げ、一瞬微笑むと、どうしたのかすぐに無表情に変わった。
仕事をしている時の『ハク様』の顔つきに。
「どうしたんだ?…千尋」
いつもなら優しく微笑んで手招きをしてくれるはずの彼は少し困ったような顔をして彼女を見上げた。
「ん。まだハク起きてるかなぁと思って…」
「そうか。……御方様の部屋からの戻りかい?」
「うん」
「いつもならここに寄る事も無く、真っ直ぐ寝に戻っているじゃないか。今日はどうしたんだい?」
「…ハクの顔が見たくて…ダメ?」
千尋がこの湯屋に来たのはハクの為だ。
仕事中はこんな風に会う事も、話す事も出来ないのは仕方が無いと思っている。
それでもほんの僅かな時間でもいい、大切に想うひとの傍で、ほんの少しでも言葉を交わせて、心を通わせれば、それだけでまた次の日も頑張れる。
働く事を頑張れる。
だから、千尋はハクの元へと訪れた。
そう想いを込めて呟くと、ハクは目を見開いて、それから目を伏せ、口元をきゅっと結んでから一呼吸置くと、また顔を上げた。
「そうか」
返ってくる言葉はそれだけ。
「うん…。それじゃ、戻るね。おやすみなさい」
結局千尋は帳場の中に入る事無く、入口越しに話しかけるだけで、その場を離れた。
いつもならもっと柔らかい笑顔で、千尋を招き入れてくれ、微笑みながら仕事の話や、今日一日起こった出来事を聞いてくれるのに。
ハクも疲れているんだろうか。
そんな日もきっとある。
偶々今日はハクもとても疲れていたのだろう。
元々いつもそんな疲れているハクに自分は甘えすぎていたのだ。
千尋はそんな事を思いながら湯女部屋へ戻り、眠りについた。
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■千尋最強伝説・32■
「最近は疲れを見せなくなったな」
「お陰様で。スパルタ先生のお陰で大分体力も付く様になりまして、湯女部屋に戻っても少しだけゆっくりできる時間を持てるようになりました」
扇子を開き、口元を隠して目だけ覗かせる雷神に千尋は膝を折り、丁寧に頭を下げる。
「ふん。口の利き方は相変わらず小生意気だな」
「御方様に鍛えられましたから」
「もっとスパルタしてやろうか」
「是非、お願いします」
そう千尋は言うが、雷神も千尋もそれ以上厳しくするつもりもなる事が無い事も互いに分かっていての会話だ。
雷神は不快そうに片眉を上げ、それから思い出したように口を開いた。
「それはそうと、余裕が持てるようになったからと言って、言ってないだろうな」
「それはお約束していますから」
「ハク殿にも?」
「はい」
最初の日にある事を目の前の神に約束させられてから、千尋はそれを守り続けていた。
「それで、ハク殿には聞かれたか?」
「…ハクは…最近私を避けているみたいなんです」
一度帳場を訪ねてから、その次の日も同じように覗いたがハクはおらず、その日以降それまでは何処かしらで目の端にだけでも映っていたハクの姿を全く見る事が無くなってしまった。
千尋が少し寂し気にそう呟くと雷神は何が楽しいのか身を乗り出して、「そうか!」と珍しく声質を高くした。
「…何かあるんですか?この間からハクの事聞かれますけど。」
「いや。お前は知る必要はない」
「…もしかして、ハクにも何か意地悪をしてるんですか」
千尋は目を細め、雷神を睨みつける。
「ハク殿はお前と違って私のお気に入りだ。お前如きが私の真意を詮索するな」
「御方様が何を考えていらっしゃるなんかなんて私如きが分かる事だと思っておりません。ただハクに何かをするおつもりなら私は全力でハクを守ります!」
「人間如きが神を守ると」
「はい!」
真剣な瞳で返答する千尋に雷神は思わず噴出し、嘲笑交じりの大笑いをする。
「身の程を知れ!私はお前を呼んでいるが、それは私の余興の為だ。お前もハク殿もただ私の掌の中で踊っていればよい」
千尋は笑う雷神をきっと睨みつけるが、反論はしなかった。
確かにその通りだったからだ。
彼女には何の力も無い。
目の前の人間嫌いの神はただ己の楽しみの為に暫くの間彼女をこの部屋に招き入れた。
「私がハク殿とお前を思い遣って施しをしてやっているのだとはお前だって思っていないだろう」
千尋は迷わずこくりと頷く。
分かっていても、千尋は神に踊らされるしかなかった。
きっと雷神の機嫌を少しでも損ねたら、千尋は今この場で八つ裂きにされるだろう。
そして、それに対して誰も非難する事も糾弾する事も出来ない。
雷神はそれ程の存在であり、千尋はその程度の存在でしかなかった。
「人間如きが、私に踊らされている事を自覚していながら、私を出し抜こうと考えているのを気付いていないと思ったか?」
今度は千尋は首を横に振る。
千尋ができる事は、自分が踊らされる事しか出来なくても、その中で自分にとっての最上の選択をする事。
どんな状況になっても、決して後悔しないように。
「そうか。そうでなくてはな」
雷神はにやりとまた、いつもの人を嘲る笑みを浮かべる。
「せいぜい楽しませてみろ」
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■千尋最強伝説・33■
千尋は久し振りの小湯女の装束に袖を通し、帯を巻くと、くるりとリンを振り返った。
「何だかこの姿になるのも久し振りだね!今日からまた働くから宜しくお願いします!リンさん!」
「あ…ああ」
久し振りの小湯女の仕事にはりきる千尋と裏腹にリンは戸惑った様子で千尋を見下ろした。
「どうしたのリンさん?」
リンは何かを聞きたそうに口を開き、それからすぐに閉じるといつもの小ざっぱりした爽やかな笑みを返す。
「よし!今日からまたどんどん働かせてやるからな!覚悟してろよ!」
「はい!」
前を颯爽と歩き始めるリンの後ろを千尋は付いていく。
従業員用入り口で自分の名前札を出勤していると示す為に返し、そしてその日指示される仕事をこなしていく。
湯屋の主に雑務、小さなな仕事をこなして行く上で様々な場所を巡るのが小湯女の仕事である。
廊下の床拭き。
階段の手摺磨き。
畳の掃除。
調度品の整理整頓。そして客人に合わせての配置。
従業員用廊下から、客室まで湯屋の隅々まで、もしかすると従業員の全てが把握していないような場所まで走り回る。
その本来小湯女である千尋が色んな場所を巡る度に向けられる視線に彼女は首を傾げた。
「?」
今まで付き纏っていた侮蔑や嫌悪の視線ではない。
何処か同情のような、好奇のような視線が常に背中に付き纏う。
しかし、振り返り、視線の元を手繰ろうとすると、皆一斉に彼女から眼を背け、其々の仕事に専念する。
小湯女だけなら。大湯女だけなら。まだ分かる。
その集団の間だけで広まる噂か何かが広まっているのだろう程度の事ならよくある。今までもあって嫌がらせも散々受けてきた。
しかし、その視線に分類は無い。
小湯女、大湯女、男たち、誰もが彼女を注目するのだ。しかも皆が皆、千尋に気付かれないように。
「…気持ち悪いんだけど…私何かやったかなぁ」
昼休憩の時間、賄から質素なご飯を受け取り、磨き途中の階段ので食べながら千尋はずっと纏わりつく視線に辟易しながら呟いた。
「え?」
その日は小湯女の手伝いとして借り出され、千尋と一緒に仕事をしていたリンはまるで言われるまで気付かなかったとでもいうように顔を上げて、千尋を見た。
けれどあれだけの視線が向けられてて、彼女が気付いていないはずがない。
知っていて、態と知らないふりをしている。それは分かった。
しかし、いつでも大らかに思った事をすぐに口にするような性格の彼女が、何故彼女が知らないふりをしているそれがまた謎の一つだった。
「リンさんだって気付いているよね。ずっとずーっと朝から見られてるの。何だと思う?」
「あ…あぁ」
「元々人間の娘が油屋にいるってだけで睨まれたり、疎まれたりはしたけど、今日は何か違うんだけど…」
「それは…あれだ。お前が雷神さんのお気に入りになったからだろう」
何処か歯切れ無く答えるリンに千尋は首を傾げた。
「御方様に人間の娘が気に入られたのが気に入らないって事?」
それだけであれだけの注目を浴びるのか。
いや。それくらい大物な方なのだろう。と千尋は納得する。
「…まぁ…そうだな…」
リンは相変わらず歯切れの悪い回答をし、視線は千尋と合わせない。
「別に御方様は私を気に入って毎日部屋に呼ばれてる訳じゃないのに!唯のハクに対して嫌がらせをしたいだけなのに!誤解だよっ!」
憤慨する千尋に、リンは目を丸くした。
「お前…冷静なんだな」
「冷静?」
「いや。俺たちの仕事柄そういう事が起こっても大して気にしないっていうか覚悟を決めているっていうか、冷静だけど。人間の娘もそういうものなのか?」
いつに無く会話全てにおいて歯切れの悪い口調のリンを千尋は訝しむ。
彼女は本来そんな性格じゃないはずだ。
「…?リンさんが何を言っているのか分からないよ?」
「嫌がらせで毎日部屋に呼ばれて、それでも平気なのか?お前は。前は伽をしない事を売りにしていたのに…ってそんな事オレが言えた義理じゃないか」
「リンさん?」
千尋はもう一度リンの名前を呼ぶと、彼女の瞳を覗きこんだ。
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■千尋最強伝説・34■
「リンさん…何か誤解してる?」
千尋は手に持っていた茶碗を自分の座る同じ階段の段上に置いて、一段下に座るリンを覗き込んだ。
「何か誤解って…お前は望んで御方様のお相手をしてるんだろう。だったら誤解も何も無いだろう」
「お相手って…私、伽のお相手はしてないよ?」
「してないって…はぁ?そんな事あるか!」
リンは千尋が呟く言葉に、目を剥くと勢い良く振り返り、初めて千尋と視線を合わせ、真っ直ぐな瞳で彼女を見上げた。
「だって、していないもの」
「だったら…だったら毎日お前は何してるんだ!?」
リンの問いに千尋は困ったように眉を八の字にし、少し頬を染めながら答える。
「それは言えないけど…」
「言えないってどういうことだよ!」
「御方様との約束だから今は言えないの!でも、伽のお相手はしてないよ!誰がそんな事言ったの?」
「誰って…」
あの状況で、千尋が連れて行かれ、ハクが追い出され、雷神の身分の考えれば当然そうなるであろう事は予測がつくだろう。
今まで信じて、そうだと思っていた事が本人から全てを否定され、思考が混乱したリンは呆然として目の前の少女を見つめる。
「…リンさん?」
「お前…本当に伽のお相手してないのか?まだ未通女なのか?」
「えぇ?…おぼこって何?」
言葉自体を知らないのか、その行為自体を知らないのか、千尋の不思議そうにリンを見る表情では図れない。
しかし、彼女が『伽』のお相手をしていないという言葉は嘘を吐いているようには見えなかった。
「じゃあお前毎日お部屋に呼ばれて何してるんだよっ!」
「えぇっ!?」
「皆そうだと思ってるぞっ!」
「何がっ!?」
「お前が御方様のお手付きになったと思ってるぞ!」
「えぇっ!それって…つまり…」
「御方様に抱かれたと思ってる…って言えば通じるのか?」
「えぇぇぇっ!?も…もしかしてハクも…?」
「…思ってる…多分…」
「!」
そう言われて、千尋は初めてハクの態度に合点がいった。
御方様の部屋を訪れた翌日から、己を見て、それまでの柔らかい表情から一変して何処か労わるような表情を見せるようになった事。
触れなくなった事。
そして、夜、帳場を訪問して会話を交わしたあの日、何処かぎこちなかった彼の様子。
それ以降今まで全く姿を見せなくなった彼。
「――」
ハクは自分が雷神の夜の勤めをしたと思っているのだ。
雷神に身を委ね、それから毎夜彼の方に抱かれていると思っているのだ。
揺るがなかった心に、初めて軋む音が聞こえた気がした――。
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■千尋最強伝説・35■
人間が油屋のあるこの世界に訪れる事はリスクを背負う。
湯屋では働かない者は石炭にされる。
千尋の住む世界とは似て非なる法則を持つこの世界で生きるには覚悟が必要だった。
幾つもの捨てなければならないもの。
幾つもの大切に抱かなければならないもの。
様々な決別を経て、本当に大切なものを手にする為に千尋は選択した。
「御方様が何をしたかったのか、やっと分かりました」
いつものように部屋に招き入れられ、接待が終わると、千尋は、今日も目の前に座し、肘掛に肘を突いて詰まらなさそうにこちらを見る神をねめつけた。
「ほう」
雷神は片眉を上げると、嘲笑う様に口端を上げる。
「――正直に言いますと、ハクがそんな手に引っ掛かると思っていなかったので、予想外でしたが」
そう呟くと、雷神は今度こそ声を立てて笑った。
「やはりな。その辺はお前の方が余程腹を据えているからな。それで。私を憎むか?」
「いいえ。私は最初から御方様の掌で踊るしかありませんから、それについて何を言う事も出来ません」
「そうさなぁ。しかし、ハク殿に誤解されたままでは過ごしにくいだろう。愛しいハク殿の為にこの世界に来た愚かな人間の娘。最早戻る事も出来ぬからなぁ」
にやにやと笑う雷神に千尋は心底溜息を吐く。
本当にえげつない方法を使う御仁だ。
千尋は今まで彼女が知り得た知識、情報を総括し、その上で、こうして会話を交わしても尚、未だ推測でしかないがそれでも、彼の方の笑みと言動に、確実性のある答えを得た気がした。
彼の方はハクを気に入っている。
それは、決して好意的にではなく、嘲りの対象として、だ。
元々は神であるくせに悪魔と契約する事で仮初の力を得ただけの魔女如きの弟子に成り下がり、その上愚かにも人間の娘に入れあげている、そんな神として恥じるべき行為を幾つも重ねた愚かな竜神として見下し、そんな彼が今も尚生き永らえ、しかも人間の娘と生きる為、現世に戻ろうとしている、そんな姿が滑稽に映るのだろう。
はっきり言えば玩具だ。
雷神は頻繁にここに訪れては、ハクを呼ぶ。
そして、満足するまでハクを嘲り、そして去っていくのだという。
しかし、毎回嘲笑し、去っていくのでは飽き始めていたところに、その嘲笑う竜が入れ込んでいる人間の娘が現れた。
これで遊ばなくてどうする。
そこで思いついたのが今回の流れなのだろう。
雷神にとって、千尋がどうなろうと、ハクがどうなろうと、それは余興の一つでしかない。
一人の人間の命の重さも、竜神の命の重さも、その命一つ一つが抱える想いも、全てがちっぽけなもので、余興を盛り上げる道具の一つにしか映らないのだろう。
神故。
といえば、全てがそこまでだが。
神とはそういうものなのだろう。と何処か冷めたな思考が千尋を冷静にさせた。
人にも様々な思考を持つ者がいる。神も同じだ。――八百万の神とはよく言ったものだ。
「それでハクが私を見限るのなら仕方が無いです。最初からここはそういう場所なのだと知って私はここに来ていますし、その覚悟もしています。ハクにここに来た時に話をしました。――…」
そこまで言葉を紡いで、千尋はその先の言葉を詰まらせた。
「泣くか?人間の娘?」
「それとも、本当に私に抱かれるか?」
そう言って笑う雷神を、千尋は顔を上げて睨みつけた。