千尋最強伝説6

■千尋最強伝説・26■

千尋は襖の前で座し、静かに頭を垂れると、客間を辞す。
そうして、襖の取っ手に手を掛け、きっちりと戸を閉めると同時に、くたりと座ったままその場で脱力した。
「はぁ…っ」
「千尋」
「ハクっ!?」
ほっと一息吐いた千尋の前には、心配そうに彼女を見下ろすハクが立っていた。
きっと自分を心配してくれ、ここまで再度来てくれたのだと思うと、自然と抜けていた力を取り戻し、嬉しさに笑みが浮かんだ。
「……大丈夫かい?」
全身の力が抜け、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ彼女を見て、ハクは何と声を掛けて良いのか分からず、戸惑いながら、無難な言葉を掛ける。すると、千尋は今見せた疲れた表情から一気に力の漲った笑顔に戻ると大きく頷き、そして立ち上がった。
「ありがとう。ハク。大丈夫よ」
「…そうか…」
にっこりと笑う千尋に、ハクは手を差し伸べ、そしてすぐに引いた。
「御方様は…ご機嫌だったかい?」
「うん?うん。最初は不機嫌でどうしようかと思ってたけど、途中からご機嫌になられたから、ほっとしたよ。…多分、少しは気に入って頂けたのかな…と思うし」
何故か目を逸らしながら状況を尋ねるハクに、千尋は首を傾げ、苦笑した。
「御方様暫く滞在されるそうだから、それまで毎日お呼び頂けるって言ってたし」
「毎日?」
目を逸らしていたハクは、顔を上げると、驚いた表情で千尋を見た。それに対し、千尋はまた首を傾げると、頷く。
「うん。きちんと学んで、慣れるまでお付き合いしてくださるって。物凄く厳しいんだけど」
そう言って、千尋は己の脹脛に手を当てると、自身で労うように揉み、へらりと彼に笑いかけた。
「……そう」
ハクは言葉を詰まらせ、そして、それだけをどうにか言葉にした。

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■千尋最強伝説・27■

「最初はどうなるやらと思ったけれど、すっかり御方様のお気に入りだねぇ」
「そうだな。毎日磨かれているんだろう。最近雰囲気が変わった。あの千にも艶が出始めたからな」
「それだけじゃない。高位の神に直接触れているせいか、人間臭さが無くなって、普段から纏う空気も変わり始めた」
「ああ、それ分かる。神々が嫁として巫女を連れてくる事あるけど、あの巫女の空気と一緒だ」
ハクは宴の采配をしながら、時折聞こえてくる会話を、何処か意識の片隅で聞いていた。
分かっていた事だ。
己も納得して、その上で千尋を一人あの方の部屋に置いてきた。
そのはずなのに。
彼に聞こえないようにしているつもりなのだろうが、其々の持ち場で交わす従業員たちの会話は否応無く彼の耳に入り込んできた。
そして、会話を聞く度に、何処とも言えない臓腑の奥がしくりと痛む。
「今日も千は御方様のところか?」
帳場へと歩いていたハクと擦れ違ったリンが彼に声をかける。
彼女の姿を見ると、すぐに視線を逸らし、歩みを進めた。何故か答える気にはならなかった。
リンはそんな彼に溜息を吐く。
「なぁ、他の男に磨かれて綺麗になってく自分の女を見て、何も感じないのか?」
挑発するような言葉に、ハクはぴたりと歩みを止め、彼女を振り返った。

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■千尋最強伝説・28■

「…まだ、それは千の仕事だから。とでも言うか?」
「……」
「仕事だからと言えば。千の奴、毎日昼から呼び出されて、夜遅くまでずっと御方様の部屋から出てこねぇ。そしてどれだけさせられてるのか部屋に戻ったら、ぐったりした顔して布団に入ったら昼まで爆睡だ。最近他のお客様のお呼びにも応えられねぇ。あいつもあいつで意気揚々と何よりも優先して部屋に行くし」
何も答えないハクに、リンは肩を竦めて、更に言葉を続ける。
「…ただでさえ媚びない人間ってーのが売りだったのに、それに加えて一人の客に付きっ切りじゃあ千の評判が落ちちまう。元々小湯女としてここにいるんだがその仕事もできねぇ、色んな客に金を落とさせる事もできねぇときたら仕事無くなるからな。アイツの居場所が無くなるからそろそろどうにかしてほしーんだが」
「……」
「…何とか言えよ。ハク様。お前、何の為にいつまでここにいるんだ?お前さえ早く辞めて、アイツを迎えに行ってりゃ、今こんな状況にならずに済んだんだぞ!」
「……千は選んでここに来たんだ。そして御方様のお相手をする事だって自ら望んだ」
心臓が抉られるような痛みにハクは思わず胸元を抑えながら、どうにかそれだけを言葉にする。
リンに言われずとも、何度自分に言い聞かせたか。
「御方様には他の仕事がままならないのを見越されて、その分だけお代を上乗せして頂いているんだ…」
毎回、にやにやと人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、雷神はハクに金を渡す。
ついさっきも宿泊の延長と、千尋の呼び出しを受けた。
湯婆婆は既に懐柔され、神の意の為すが侭に任せている。
ハクに入り込む余地など何処にも無いのだ。
「お前っ!」
かっとなり、胸倉を掴むリンにハクは抵抗する事は無かった。
「…私は未だこの湯屋を抜け出す術を、答えを持っていない。千尋を束縛する術を持っていないんだ…。あの子がこの世界で生き抜く為に助力する事しか出来ない」

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■千尋最強伝説・29■

「お前は馬鹿かっ!お前が行くからって言うからオレはあの日乗り込むのを止めたのに、結局お前は部屋に乗り込む事もしなかった!やっぱりオレが乗り込んどきゃ良かった!部屋に戻ってからもアイツはオレには何も言わねぇし!強いって言っても程があるだろ!」
ハクの胸倉を掴みながらリンは俯く。
「…オレも何にも出来なかった…」
彼女はハクを攻めながらも、一方で自身も責めているのだ。そう感じたハクは彼女の憔悴した様子に、またちくりと胸が痛む。
「……千尋は覚悟を決めていた。だから私は彼女の覚悟を受け止めて彼女の心を守ろうと思っていた…のに…彼女が他の誰かに身を委ねたのだと思うと…御方様の部屋から出てきた彼女にかける言葉も…触れる事も出来なかった……」
幾度と無く込み上げる吐き気と何処が原因かも分からぬ痛みがふとした瞬間に彼を襲い、苛む。
あの日から襲う苦しみを、誰にも言わずに思わずにいた己の感情をぽつりと吐露し始めたハクに、リンは顔を上げた。
「…知らなかったんだ。こんな感情を抱く事になるなんて。…私以外の者に肌を許したあの子を憎く思うなんて…こんなにも後悔する事になるなんて…。自分はもっと割り切れると思っていた」
その言葉に、リンは目を見開き、噛み付く。
「馬鹿だろ!お前!」
「ああ。馬鹿だ。本当に途轍もなく己が愚かだった事に気付かされた…。けれど、元に戻す事も出来ない。あの子は毎日…あの御方に抱かれているんだから…」
「今すぐにでも行って、自分のものだから触れるなって言えばいい!」
「言えない」
「どうしてっ!?」
「……あの子が大切だけれど…仕事だと思うとどうしても…止めてくれと言えない…」
本当に千尋の事を大切に思っている。
一方で、長年己の中で染み付いた『仕事』という割り切りが、彼の中で渦巻く本能と理性を両断するのだ。
そして、いつも合理的で現実的な理性が彼の感情を諭す。
そうしてそれを繰り返し、この世界で生きてきた。
それが、どうしても彼の中で渦巻く感情を後一歩吐き出させる事を抑制する。
「いつかは御方様も帰られる……そうしたらこの感情もいつか霧散すると思うんだ…それまでは耐えるしかない…」
時の流れがいつかこの痛みを和らげてくれる。
いつかの川を失った痛みも、今はあの頃よりも冷静に受け止められる。
今までもそうやって長い時を過ごしてきた。
だからこの痛みだって乗り越えられる。今だけなのだ。
「…そう思ったら…私も越えられる…」

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■千尋最強伝説・30■

千尋は雷神の前に座り込むと、差し出された飲み物に口を付けた。
「最近のハク殿の様子はどうだ?」
いつものように肘置きに片腕を立てて頬を乗せ、にやにやと笑みを浮かべながらこちらを見る神を千尋は睨み付けた。
「私なんかより、御方様の方がよっぽどご存知ではないでしょうか?毎日クタクタでお陰様でハクと話す時間も、湯女部屋で他のひとと話す時間もありませんよ。戻ったら爆睡ですから」
「そうか」
「…同情して下さるなら、少し呼び出す回数や時間を減らしてくださいませんか?こうも毎日だと他のお客様ともお会いする事もできません」
「そのままで他の客の相手をするというのならそれでもいいがな」
「うぐっ…」
痛い所を突かれた千尋はそれまでの悪態を口篭り、恨めしそうに雷神を見上げた。
「まぁ、後少しだ……お前はな」
「私は?」
意味深に呟く神に、千尋は首を傾げる。
「なぁ、お前は魔女がハク殿に出した約束の内容に興味は無いか?」
唐突に聞かれた問いに、千尋は首を傾げる。
「…興味はあります。私が知って答えをハクに教えて上げられるのなら、知りたいです」
「そうだな。お前はそうだろうな。ハク殿はお前が共に解く事を拒んだけれどな」
「はい…。ハクが自力で約束を果たせるならそれが一番だと思います。でも、私が少しでも助けになれるならなりたい。それでハクが自由になれるなら私はどんな事でもします」
真っ直ぐ雷神を見上げる瞳が、揺るがない意思と、今この場で答えを貰えるのならそれさえも要求する貪欲さを伝える。
それを見返し、神は鼻で笑う。
「お前は既に知っているから、気付かんだろう。お前自身がハク殿の答えだからな」
「銭婆婆おばーちゃんにも私が傍にいればそれだけでいいと言っていました」
「そうだろうさ。俺でも同じ事を言う。それに気付かないハク殿が愚かだ」
「ハクを悪く言わないで下さい!」
大切な竜の事を揶揄するだけですぐに反論する人間の少女に、神は声を上げて笑う。
「本当にお前は真っ直ぐだな」
ハクはいつ、気付くだろうか。
この少女の行動が態度が纏う空気が全てハクにとっての答えをまざまざと見せている事に。
その時を思うと、雷神はまたにやにやと笑った。

―――下手すると、全てが終わっても気付かないかもな。