■千尋最強伝説・21■
何故、そんな哀れむような、労わるような眼差しを自分は受けるのかハクには分からなかった。
だから自分の問いに対して、また複雑そうな表情を向けられる意味も分からなかった。
「…ハク様…お伺いしますが……今まで千に手を出されてはいないんですよね?」
従業員の男の一人が恐る恐るとハクに問い掛ける。
「当たり前だ」
「…千は…自分で言ってるのだから…初物ですよね…?」
「それを売りにしているのだから、本人が言うのだしそうなのだろう。私がそれを価値の無いものにしてどうする」
「……ハク様は、他の男が千の突き出しの相手でも構わないのですか?」
湯女の一人がまさかとの意味を込めて問うと、ハクは目を細めた。
「構わなくはないが、それが仕事なら仕方が無いだろう。出来るだけそうならないようにと努めてきたが今回ばかりはどうしようもない」
「……」
その言葉に、今度こそ父役を含め、その場にいた者が皆絶句した。
ハクは凍りつく空気が理解が出来ず、周囲を見たが、その答えをくれる者はいなかった。
ふと、誰か一人が呟いた。
「…千が可哀想だ…」
その途端凍りついていた空気が一気に千への同情に変わった。
「…千が不憫すぎる…」
「本当に…ハク様は何も分かっていらっしゃらない…」
「幾ら湯女だとは言え、千は頑張っていたのに…」
「リンが怒るのもわかる」
一人の言葉がきっかけに、次々と吐露される言葉にハクは眉間に皺を寄せる。その彼の肩に父役は手を乗せ告げた。
「…ハク様。出過ぎた事を申しますが…千を大切に思われているのですよね?」
「当然だ」
「将来的にはあの子をどうされたいのですか?」
「私の嫁にと思っている」
そう告げると、父役は一つ息を吐いた。
「そう思われているのなら、ハク様もお覚悟をお持ちください。今のままでは千ばかり覚悟しなければならない負担が大きくて不憫です」
「私だって、千と共にいる為に覚悟を決め、湯婆婆様と銭婆婆様、二人と契約を交わしている」
「それはいつ成し遂げられるのですか?貴方はいつまでここにいらっしゃるおつもりですか?」
「いつかは…」
「いつかとは、いつの事でしょうか?」
「それは…」
「千の事を真に想われるのなら今すぐ御方様の元へ行かれ、手を出される前にあの子を元の世界へ帰すべきです」
「そんな事をすれば!」
「構いません。あの子はこの湯屋の恩人です。私が責任を取ります」
「!」
「だから今すぐ、あの子を迎えに行って下さい」
静かに、諭されるように、それでいて反論を許さない強い語尾にハクは、いつもは軽くあしらっている父役に対して始めて気圧され、踵を返した。
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■千尋最強伝説・22■
許可と共に千尋は顔を上げると、目の前に座す神を見つめた。
この湯屋に訪れる神は人の姿でない神の方が多く見られる。だから千尋は今目の前にいる自分と全く同じ人の姿をした神に少し驚きながらも、一方でその神に向けられる瞳が少しも彼女を映していない事に警戒した。
まるでその辺に落ちている石や塵のようにしか見ていない。
目の前の神は笑みを浮かべているが、その瞳は全く笑っていないのだ。
「お前が人でありながらこの油屋で働く娘だな」
「はい」
「そうか。では伽を務めよ」
「申し訳ございませんが、私は伽のお相手をしておりません」
「お前は湯女だろう?」
「その通りでございますが、湯婆婆様に許可を得て、伽を務めず、芸事のみでお客様のお相手をさせて頂いております」
一つ一つが相手の気質を探るような問いかけと、わざと怒気を誘う口調に、千尋は乗らないように腹に力を溜め、淡々と答えた。
神は少しも笑っていない瞳で、「はっ」と鼻で笑う。
「芸事のぉ…聞いておる。神楽舞だそうだな」
「はい。お披露目させて頂いて余興にして頂いております」
そう言って千尋が立ち上がろうとすると、神は持っていた扇子を彼女の額に投げつけた。
パシリという音と共に、千尋の額が赤く擦りむける。
「誰が舞ってもいいと言った。神に捧げられた巫女でもないただの人の娘の猿真似を見せられて満足するほど私は落ちぶれていない」
叩きつけられた扇子と共に浴びせられた中傷に千尋は顔を一瞬歪めたが、すぐに笑みに変え、再びその場に座り直した。
「神の間で噂になっていてな、たかだか人間風情が神の伽の相手もせず、大した技能も無いくせに舞を見せられ、それを余興として持て成しているつもりの知れ者がいるとな。湯婆婆も気でも狂ったか。格が落ちたと。な」
「--」
「そんな者を宴に起用し、我々神を馬鹿にしているのか。とな」
千尋は何も言い返す事が出来ず、それまで懸命に目の前の神を見つめていた顔が徐々に俯きかける。
反論は何一つ出来なかった。
彼女は正式な巫女ではない。神社に通って出来るだけ巫女として神に捧げられるものをとお願いをし学んだとはいえ、神楽舞の真意を全て継承されている訳ではない、見る者が見れば形だけを学んだ中身のからっぽな舞と思われるだろう。
元々人間を好み、多少の事を大目に見てくれる気質の神なら目を瞑ってくれるだろうとは思っていたが、高位になればなるほど見抜かれる事は覚悟が出来ていた。
それでも、面と向かって否定されたのは初めてで、千尋自身は神社で祈りを捧げるのではなく、常に神を目の前にし捧げるものなのだと、常に気構えを持って舞ってきただけに、その指摘は心に深く突き刺さった。
しかし、すぐさま千尋は顔を上げる。
すると、目の前の神は少しむっとしたような表情を見せ、そしてまたすぐに詰まらなさそうに千尋を見下ろした。
--目の前の神は、私を屈させる事を目的にこの場に呼んでいる。
そんな気がした千尋は、もしそうであれば逆にこの場で負ける訳にはいかない。
「私が至らないばかりにお客様へ不快な思いをさせていた事、油屋の品格まで落としてしまっていた事気付かず、思い上がりもいいところでございました。申し訳ございません。ご指摘頂きありがとうござます」
そう言って千尋は、再び深々と叩頭する。
己を恥じ、屈するかと思えた人間の少女の返しに、目の前の神は苛立たしそうに頬杖を付いていた手と反対の手を遊ばせ、畳を鳴らした。
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■千尋最強伝説・23■
「そう言うのならすぐにここを去れ。目障りだ」
畳を不快そうに打ち鳴らしながら、神はじっと目の前の少女を見据える。
「もうお役目を果たしたという事でしょうか?」
「お前は頭が弱いのか?すぐにこの油屋を辞めろ。出て行け」
「申し訳ございません。それを決めるのは湯婆婆様でござます」
「私が言えばすぐにでもお前は解雇だぞ」
「そうですね。そうしたらその時考えます」
「同じ屋根の下にいるとと思うだけで不愉快だ」
「そうしましたら、お客様がご滞在の間だけ、私はお客様の前に姿を現さないように対処致します」
「そういう問題ではない。同じ空気を吸っているだけで不愉快だ」
問答を繰り返す度に大きくなる、畳を打ち鳴らす音に、脅えることも無く千尋は表情を変えず、笑顔のまま、まっすぐ神を見据えていた。
「申し訳ございませんが、この油屋にいらっしゃるのはお客様だけではございません。私は他のお客様にお声掛け頂きましたら参上しなければならないので、そのご希望は受け入れられません」
「上客である俺の言う事が聞けないと言うのか!」
「申し訳ございませんが、お越し頂きましたお客様には皆様平等に接待をさせて頂いております。お客様によって接待方法を変える事の方が店の信用が落ちます。お客様ご自身もそうでございましょう?お客様より上級のお客様がいらっしゃってそちらの方の方がより持て成しが良ければご不快でございましょう?」
「お前、俺に意見するのか!」
「いえ。ただ私の中での信念をお伝えしております」
「何が信念だ!人間風情が!」
「その人間風情の世界では神の世界のように能力に上も下も無いからこそ出来る接遇もあり、私は弱い人間だからこそどのお客様にも自分が出来る最上の接客をさせて頂いております」
ピシャリ!と雷来が千尋の目の前に落ちる。そして次の瞬間、彼女の目の前に神が立っていたかと思うと、その場に引き倒され、千尋は両腕を畳みに押し付けられた。
「何も出来ないで口ばかり達者な人間風情が。大人しく伽の相手だけしていれば良いのだ。無能だが女としてだけの機能はあるのだからな」
雷神の顔がゆっくりと近付いてきた。
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■千尋最強伝説・24■
近付いてくる男の姿をした神の顔。
呼吸で吐き出される息が千尋の唇を震わす。
「聞いておるぞ。初めてなのだろう?もっと脅えて見せろ」
そう言うと初めて雷神は楽しそうに口の端を上げて笑った。
千尋はそんな神の挑発に乗る事無く、瞳が潤む事も揺らぐことも無く、じっと真っ直ぐ見据えた。
そんな彼女に雷神はまた不満そうに唇を歪めると、ふと、彼女の両腕を掴んでいた左右の手の片方を放し、彼女の太ももに手を伸ばすと、おもむろに袴を捲り上げる。
しかし、千尋はぴくりとも動かなかった。
「ハク殿の為にこの油屋にいるのだそうだな。ハク殿にはもう抱かれたのか?だからそんなに冷静なのか?」
袴が捲り上げられ、露わになった太ももを撫でるようにごつごつとした手の平が触れる。
「ハク殿はどんな風にお前を抱く?人間の女風情が竜神を楽しませる事等出来ないと思うがな」
そう言うと、雷神の手は袴がそれ以上捲り上げられない所まで、千尋の足の付け根まで手を差し込んできた。
「--人間風情を抱く気も無いのに、それ以上触れるのを止めて頂けますか?」
押し倒されてから初めて発せられた千尋の言葉に、雷神は目を見張った。
次の瞬間、抵抗を全くしなかった為開放されたままの手と、押さえつけられなかった足を捻り、雷神を横倒しにして、転がすと、千尋はその場に立ち上がった。
「ハクの為に私はここにおります。お客様をお慰めする方法が他になければ抱かれる覚悟もあります。けれど、嫌っている人間を抱く気も無いのに、ただ脅かす為だけに振りだけするのは悪ふざけにも程がございましょう。そんな事で私がこの湯屋で生き残る為に価値をつけた売りを捧げる覚悟はございません」
為されるがまま横に転がされた雷神は起き上がると、千尋の目を見て、唖然とする。
「己の商品価値が下がるから、私には抱かれたくないと申すのか?」
「はい」
「ハク殿の為でもなく、己の貞操の保身の為でもなく」
「はい」
「普通人間の女なら好きな男に抱かれたいだの、初めてなら惚れた男以外は嫌だと女々しい事を思うのでもなく」
信じられないという瞳で雷神は千尋を見る。
彼が初めて感情を乗せた表情だった。
だからこそ、千尋もそれまで頑なに感情を見せようとしなかった表情を崩し、寂しそうに苦笑する。
「…本心を言うと、そういう思いが無い訳ではありません。けれど、私はこの世界でこの湯屋で生きていくと決めたんです。その為に決めなくてはならない覚悟は全て決めて、今ここにいるんです」
「ハク殿の為に」
「はい。ハクと一緒に元の世界に戻る為に」
「そんな人間の娘がいるものか」
「……ここにいるんです」
もう、雷神は自分に無体な事をしない。
そう感じた千尋は、彼の前に座ると、笑った。
雷神は己の心情を見抜かれた事に気付いて、首を振ると、溜息をついて、体を起こすと、その場に胡坐をかいた。
「そうか。---だから、お前はここにいられるのだな」
その意味が分からず千尋が首を傾げると雷神は苦笑した。
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■千尋最強伝説・25■
「先程までの事を私は詫びるつもりはない。そう思う者も確かにいる。だが、お前は異なるのだな」
彼の過去に何があったのか分からない。ただ千尋と同じ人間の女性と何らかの蟠りがあって、彼は今こうして彼女に無体ばかりを強いる事をしたのだという事だけは伝わってきた。
そして、千尋だけは彼の持つ価値観とは違う存在なのだと認められた事も。
「私はお前を抱くつもりはない。己が穢れるとしか思えない。しかし、他の神の中には嫌っているからこそ屈辱を与える為に先程の私のように無体を強いる者もいるだろう」
「はい」
返答する千尋の凛とした声に、向けられる眼差しに、雷神が言うまでも無く、先程の回答通り彼女は全てを覚悟しているのだろう。と彼は悟る。
「そのハク殿は、お前の覚悟に対して何も見返りを与えていないと思うが」
現に、千尋がこの部屋に招かれても、雷神が一喝をすれば彼はすごすごと部屋を出て行った。
どうなることかは分かっているだろうに。
神々に流れる噂から、実際に会った彼の様子から、千尋に想いが無いとは思えない。
大切な娘なら、心配で戻ってくる事や、客に顰蹙を買ったとしても無理やり押し入ってくるような態度を見せてもいいはずだ。
「ハクに見返りなんて求めていません」
「しかし、お前が私に抱かれても何も思わないのだろうか」
「それがお仕事だからと思ってると思います」
「ほう」
「私は、ハクと一緒に元の世界に戻る為にここにきた。一緒に帰る事ができればそれだけでいいんです」
「そうか」
雷神は顎に手を当て、少し考え込む様子を見せると、顔を上げた。
「お前の神楽舞が見たい」
「--先程、猿真似の人間の小娘の舞など見たくないと仰っていたのでは?」
千尋が不思議そうに問う。
「気が変わった。舞とはその者の気質がそのまま表れる。人間の中では異質なお前がどんな舞を舞うのか見てみたくなった」
先程の己を見ながらその瞳の中に映そうとしなかった雷神の瞳が、真っ直ぐ己を見つめてくる様に千尋は嬉しくなって笑うと、「はい」と答えた。