■千尋最強伝説・16■
「坊。この間泣いた事ハクに言わないでくれてありがとう」
仕事の休憩時間、いつものように自室を抜け出し坊は千尋の元を訪れ、丁度休憩に入ったばかりだった彼女は、彼を自室へ戻す事兼ねて二人で坊の部屋に向かい、いつでも部屋一杯に積まれているお菓子を摘んで寛いでいた。
「坊。千と約束した。約束した事はちゃんと守るぞ!」
「うん」
千尋が嬉しそうに笑うと、坊も笑顔になったがすぐに心配そうに表情を変えた。
「本当に言わないでいいのか?ハクのせいで泣いているんだろう?ハクはちゃんとごめんなさいしなきゃ駄目なんだぞ」
「ううん。違うの。ハクは何も悪くないよ。私がちゃんと覚悟していたはずなのに、辛いって感じちゃったから駄目なんだよ」
「千が駄目なのか?千は駄目じゃないぞ!坊は千が好きだからな!」
坊には千尋の言いたい事の内容の全ては難しくて分からなかった。けれど、自分が好きな千尋が自分を駄目だと言うのは間違っているというという自信だけはあって、彼は胸を張って反論した。
そんな坊の姿に千尋は苦笑すると、「ありがとう」と嬉しそうに笑みを浮かべ、坊はそんな彼女の表情にほっとして笑い返した。
「…ハク、結局、話してくれなかったね…」
「そうだな」
クッキーを加えながら、呟く千尋に、坊もこくりと頷く。
銭婆婆の家から帰る日、迎えに来たハクに銭婆婆と彼が交わした契約を尋ね、一瞬答えてくれるかと思ったが、結局彼は、「己で答えを答えを見つけなくてはならないものだから。有難う」とだけ答えて、内容を教えてくれる事は無かった。
「一人で考えて分からないんだったら、三人で考えれば答えが出る事だってあるのにな」
「そうだね…」
最もな呟きに千尋も同意する。
「けど、きっと、ハクは自分が銭婆婆おばーちゃんと契約したから誰の手も借りないで自分の手で解決したいんだろうね」
「そうなのか?」
「多分…」
「坊なら分かんない事は分かんないってすぐにハクやばーばに聞くぞ」
「ハクみたいに誰にも頼らないで出来るだけ自分だけで解決するっていうのもいいと思うけど、坊みたいに誰かに聞く事で見つかる答えって言うのだってあると思うんだけどなぁ」
「そうだぞ!ハクは一人で頑張り過ぎだぞ!」
「もっと頼ってくれてもいいのにね…」
坊に相槌を打ちながら千尋は呟いた。
「私が私のままでいる事で、ハクは何に気付かなきゃいけないんだろう…」
ハクから契約の内容を教えてもらえない以上、周りから聞かされた内容から推測して考えるしかない。そしてそこから自分が出来る事を見出すしかない。
『うーん』
「推理小説一杯読んでおくんだった」
「坊は難しくてよく分からないぞ」
千尋は必死に頭を回転させてそれに合わせて首が右に傾いていく。それに倣って坊も首を同じ方向へ傾けていく。
二人で首を横に傾け、唸っていると、坊の部屋に設置されている電話が鳴った。
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■千尋最強伝説・17■
「また今日は厄介なお客様がお越しになられるものだ」
「北を治める雷神か。くれぐれも粗相の無い様に気をつけるのだぞ」
父役と兄役がハクの後ろで互いに打ち合わせを行う。彼らの前を歩くハクは、上客が宿泊する部屋の一つの前に立つ。
豪奢にあしらわれた襖の造りとそこに描かれた絵画は奥で休む神の存在感をより際立たせ自然と従業員達にも緊張が走る。
ハクは背筋を正し、中にいる人物に声を掛けた。
名を呼ぶとすぐに返事が返り、了承を得てから部屋に入る。
「失礼致します」
「久し振りだな。ハク殿。相変わらず女子のように麗しい見目だな」
「恐れ入ります」
中には人間の男の姿ををした神が緋色の座布団に座り、肘掛に腕を掛けて顎を掌に乗せ、気だるそうにこちらを見ていた。
人間で言うところの壮年に入ろうか位の顔に、短い黒髪に真っ黒な瞳、全体的に筋肉質な体付きをしているその神は油屋で用意している浴衣を纏うとやや窮屈そうな印象を受ける。
己とは対照的な姿形をしているハクを見ると彼は嘲笑うようにニヤリと笑った。
「いつも湯女ばかりでは飽きた。今日こそお前が相手してくれてもいいんだぞ。お前くらい綺麗な奴もいねーからな」
「申し訳ありませんが私の職務ではありませんので」
「上客の頼みも断るのか」
「いつもお断り申し上げているはずです。この店でお客様へご奉仕させて頂くのは湯女に限りと」
「そうか」
それはいつもこの神が来る際にやり取りされる会話。
神の中でも上から何位と数えるのが早いくらいの上位にいる神で、訪れた最初の頃こそ断ったらどんな仕打ちをされるかと父役・兄役は脅え、そんな二人の危惧に頓着する様子無くあっさりとハクが断る様を見て肝を冷やしたものだったが、最近は毎回同じやりとりの為にやっと少し慣れてきた会話だった。
それでも毎回心臓に良くないものは良くないが。
雷神はまたにやりと口の端を上げると、してやったりとした顔をして、告げた。
「では、最近新入りが入ったのだろう?しかも湯婆婆も何を思ったんだか、この世界で珍しい、人間が」
それまで無表情で顔色一つ変える事の無かったハクの表情がぴくりと動く。
それを雷神は見逃す事無く、けれど指摘はせずに、続けた。
「その人間は湯女なのだろう。今日はその者に相手をさせようか」
ハクの強くなる眼光を雷神は余裕の笑みで受け止めた。
「湯女ならよいのだろう?のう、ハク殿」
念を込めて、もう一度雷神は囁いた。
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■千尋最強伝説・18■
千尋は自分の置かれている状況が分からなかった。
坊の部屋に掛かってきた電話で突然呼び出されたかと思うと、いつもの小湯女の格好から姉さまたち湯女が纏う小袖と袴に着替えさせられた。
そしてあれよあれよという間に化粧を施され、促されるままに一つの部屋に連れて行かれた。
途中でリンが止めようとする姿が目に入ったが、父役や兄役に阻まれ、さらに湯女たちに囲まれ、状況を聞かされること無く、リンが何を言おうとしていたのか教えられる事無く、上階の間へ連れ出された。
彼女に分かるのは、この階が上客の中でも最上級の者しか入れない--その昔、カオナシが持て成された--部屋がある階であり、そして、その実際にカオナシが通された部屋の前に自分が再びいるという事だった。
「あの…」
「お前は黙ってただお客様の望むままにすればよい」
隣にいる兄役に問おうとしても、さっきからその返答ばかりだった。
促されるままにここまで来た千尋だったが、心の中では徐々に緊張感が高まっていた。
媚を売らず、床を取らない、そうやって今までやってきたが、そろそろ限界が来たのかも知れない。
もしかしかしたらこの部屋の中にいる客を接待しているのかも知れないが、周囲を見渡してもハクはいない。
兄役を見ても目を反らすばかりだ。
千尋はきゅっと唇を噛み締め、腹に力を入れ、そして、閉じられた襖を軽く小突いた。
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■千尋最強伝説・19■
「入れ」
中から男の声がして、千尋は「やはり」と思いながらも無意識に体を震わすと、取っ手に手を掛け、静かに襖を開ける。
中の客を確かめないまま、ただ深々と叩頭する。
「千、参りました」
「そうか。では、ハク。席を外せ」
男の声と共に、息を飲む音と衣擦れの音が響く。
「聞こえなかったのか?席を外せ」
「…私は…ここにおります」
「無粋な奴だな。それとも覗きが趣味か?そうだなぁ…お前も交ざるか?それでお前が相手を務めてくれるというのならそれもいい」
「!」
「お前はもういらん。外せ。おいそこの男、ハクを連れて行け」
千尋は頭を下げたまま上げてもいいと言われていないので未だ声の主の姿は確認出来ず、そこにハクがいる事は分かったが、彼がどんな表情でいるのか分からない。
ただ、彼女の後ろに控えていた兄役は渋々と立ち上がり、ハクのいる場所まで行くと、何も言わず、彼を引き摺るように部屋を出て行くのだけは感じた。
聞こえてくるのは衣擦れの音と足音。
その音からだけではハクの想いも表情も伺う事は出来ない。
それでも、彼が、どうか傷付かない事だけを今の千尋は願っていた。
ここに、油屋に来た時から覚悟は決めていたのだ。
己の身は己自身で守る。と。
優しい竜が傷付かない最善の道だけを選んで、彼と二人で元の世界に戻る事を。
「漸く、邪魔者はいなくなったな」
叩頭したままも千尋に再び声が掛けられる。
先程も感じたがそこには何の感情も含まれてない。
今まで幾度も接してきて触れてきた嫌悪も好奇心も慕情も労いも何も無い。
「面を上げよ」
やっとそう声を掛けられ、千尋は顔を上げ、初めて今日この部屋に宿泊する上客の姿を見据えた。
神を恐れず、真っ直ぐ己を見据えてくる瞳に、雷神はにやりと笑う。
「いい目だ」
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■千尋最強伝説・20■
「おい。ハク!お前ここで何してるんだ!?」
エレベータ降り、帳場へ戻ったハクに声がかかる。振り向けばそこには信じられないという表情でこちらを見るリンがいた。
「…御方様が席を外せと言われたから、戻ってきた」
「千は?」
問うリンの声色は震えている。それに対し、ハクは淡々と答えた。
「千は御方様が所望され、部屋に残っている」
そう答えると同時に、鋭い痛みがハクの左頬を走った。
ガツ!
骨を打つ衝撃音が響き、ハクはその衝撃に為されるがまま、床へ倒れ込んだ。
鋭痛の後にくる鈍痛に頬を抑えながらハクが体を起こしてリンに向き直ると、彼女はこちらを睨みつけていた。
「お前は言われてそのままのこのこと戻ってきたのか!千が何で呼ばれたのかくらい分かってるだろう!?その前にどうして千を一人にした!?千を呼んだ!?」
「…千は湯女だ。客が望めば断れまい」
「ふざけんな!」
「私だって御方様を止めようとした。しかし湯女なのだから相手をさせろと言われれば断る理由もない」
正論を反論するハクに、リンは彼の胸倉を掴む。
「お客様が所望されれば大事な女だって差し出すのか!?」
「…」
「お前にとって千はその程度か」
「そんな事はない」
「そんな事あるだろう!お前、毎日千の何を見てやがるんだ!?千がどんな思いでここに来たと思ってるんだ!?どれだけの覚悟でこの油屋に来たと思ってるんだ!?」
「お前に言われる筋合いはない!」
「あるね!ハク様がこれ程無能だとは思わなかったぜ!」
嘲るように鼻で笑うリンに、ハクは眉間に皺を寄せる。
二人が突然起こした騒動に気が付いた者たちが、「どうした、どうした」と一人二人と帳場を覗き込んだ。
その場にいた他の従業員たちはどうしたら良いか分からず、手を止め、二人の騒動を固まって見ていた。
騒動を聞きつけた父役と兄役が、二人の姿を見ると、驚いて駆け寄る。
「どうしたんですか!?ハク様!?」
「リン!何をしている!その手を離せ!」
兄役が駆け寄り、ハクの襟元を掴んだままの手を引き剥がそうとするが、それよりも先にリンが放し、立ち上がると、ハクを蔑んだ視線で見下した。
「千はお前を選ばなきゃよかったな」
それだけを言い放つと、その場から離れていく。
「リン!何処へ行く!」
「煩せぇ!」
父役の問いに、リンは怒鳴り返すと走り出した。
「千の所へは行くなよ!」
「オレの勝手だ!」
明らかに上階へ向かおうとしてるリンの足取りを見て、父役は兄役に止める様にと後を追いかけさせると、座り込んだままのハクが起き上がれるように手を貸した。
ハクは促されるまま立ち上がる。
帳場を覗き込んできた男たちや湯女たちは顔を見合わせると複雑そうな表情を見せた。
「…私たちの仕事はお客様のお相手だしねぇ。小湯女だってお客様にご指名頂いたらお伺いしなければならないし」
「けど、まぁ、ここまでよく床も取らないで頑張っていたものだ」
「あの子を見て、初めてそんな事もしようと思えば可能なんだと教えられたしねぇ」
「私たちは今更だけどね!」
そう言って男と大湯女たちは互いに笑い合う。
「床を取らないのを売りにしてなんて無理やりな方法を湯婆婆様に取り付けた事自体が元々おかしかったんだよ。幾ら坊様のご寵愛を受けているからって」
「確かに。この油屋では皆公平でなきゃおかしい話だ」
「そう言うけど、あの子はその分だけ努力をしていたじゃないか」
囁きあう従業員たちの声をハクは黙って聞いていた。
「ハク様。仕方がありませんよ。あれはあれなりにハク様の為に貞操を守っていたのでしょうけれど、千も湯女なのですから」
勝手な事を口々に囁きあう従業員の話に傷付いているだろうハクを労うように父役が声を掛けると、ハク自身は不思議そうに彼を見返した。
「…千は湯女としてここに来たのだから、その覚悟があってここに来たのだろう?」
全ての覚悟を決め、私の為に再びこの地に戻ってきてくれた千尋。その彼女が実際客を取る事についてどうしてそこまでリンが皆が困惑しているのかハクには分からなかった。
しかし、その問いがその場にいた者誰にとっても驚く問いだったらしく、皆一様に複雑な表情をして彼を注目した。