■ 千尋最強伝説・11■
「ふん。千もそれなりに売り上げに貢献しているようだね」
湯婆婆はここ最近の売上の載った票を見て呟いた。
「はい。徐々にではありますが、お客様の中にはやはり今も人間と触れ合う事を好む方もいらっしゃいますので、そのお客様の再予約率が高くなっています。現世ではもう神と人とは全く交流できなくなってしまっているそうで、特にまだ幼さを残した容姿と穢れの無い心を持つ千尋はお客様の望みを体現した存在だったようです」
淡々と報告するハクに、湯婆婆は溜息を吐く。
「まぁ…あの年齢になってあれだけ擦れていないのも珍しいねぇ。随分と世渡り上手になったくせに、芯は変わらない」
「確かに千は強くなりました」
しみじみとそして嬉しそうに少し笑みを作りながらハクが答えると、湯婆婆は普段滅多に笑うことの無い部下の表情の変化に目を見開き、そして呆れを含んだ溜息をまた吐く。
「…強くなった…ねぇ…。確かに強くなったもんだ」
湯婆婆の呟きの意味が分からず、ハクは顔を上げると、上司を見るが、彼女は彼の問い掛ける瞳に答える事は無かった。
代わりに問いが返る。
「お前はこれから千をどうしてやるつもりだい」
「いずれ、私の嫁にと」
「ああそうかい。それは結構な事だ」
率直に返答するハクに、湯婆婆は分かりきった答えを自ら聞いておいてあっさりと流す。
「それで、お前はいつここを出るつもりだい」
「いずれ。今はまだ許しを頂いていないので」
「…銭婆婆め…。私もあんな契約するんじゃなかったよ。今はお前の代わりだって出来る奴幾らだっているんだからね」
「それは私がいつでも辞められる様にと、私が教育したからです。あの時点では湯婆婆様は契約する以上の選択肢は無かったでしょう」
「くそっ。忌々しい」
湯婆婆は悪態を吐いて、怒りの捌け口を求めて、傍にあった葉巻を銜えると火をつける。
「本当は私も千がこの街に来た時点で、直にでも現世に戻ろうと思ったのですが」
「ですが?」
「未だ銭婆婆にお目通りを願う為の約束を果たしておらず、断念しました」
「ああ、そうだろうね。今のお前ではまだまだ無理だろうさ」
煙を吐きながら呟く湯婆婆に、ハクは眉を上げる。
「失礼ながら湯婆婆様は既にご存知なのですか?」
「本当に失礼な奴だ。私はお前なんかよりずっと長い間この油屋を取り仕切ってきたんだ。あの時はあの女が何故お前に今更そんな事を言うのを不思議に思ったが。今なら納得だ。お前には到底辿り着けないだろうよ」
「何故」
少しでも湯婆婆が銭婆婆が己に求めるものの答えの欠片を掴もうと、ハクは湯婆婆に答えを教えろと睨みつける。
湯婆婆にとってただの若い竜の凄みなど効く筈も無く、寧ろ蔑む様に見下した。
「お前は千尋の何を見ている」
それだけを言うと、彼女はそれ以上答える事は無く、追い払うように手を振った。
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■千尋最強伝説・12■
油屋から6番目の駅。
そこに、一人の「銭婆婆」と呼ばれる女性と一人の影に似た存在の「カオナシ」と呼ばれる存在が暮らしていた。
湯婆婆と本当に姉妹かと思うほど質素な生活を好み、穏やかで、気さくな女性の銭婆婆。
そして「足りないもの」を埋める為に沢山のものを求め失うカオナシ。
元々銭婆婆が一人で暮らしていたが、カオナシが一緒に暮らすようになったきっかけを与えたのは千尋。
千尋がこの世界を去った後も、二人は一緒に慎ましく暮らし、時折遊びに訪れるようになった坊をいつも持て成してくれた。
「電車に乗っていくのは千と一緒に乗った時以来だぞ!」
坊はそわそわしながらも座席にちょこんと座り、隣に座る千尋に笑いかけた。
「私も坊と一緒に乗った時以来だよ」
「そうか!」
千尋と坊は千尋の休みの日に合わせて銭婆婆の家へ遊びに行く事を決めた。
坊は元々しょっちゅう遊びに行っていたし、千尋は幼い頃元の世界に戻る事を手助けしてくれたお礼をもう一度きちんとしたかったからだ。
二人が座る座席の前には、以前と同じように影の人が席に腰掛けている。
そして一つ一つ駅を越える度に、人数は減っていった。
朝早くから油屋を出ても電車で行けば、辿り着くのは夜遅く。
坊は普段は湯バードに送り迎えをしてもらっているらしいが、流石に千尋と二人を運ぶ事は難しいらしく電車に乗る事になった。
本来は千尋の休みは一日だけだったが、そこは勿論坊の我侭で余計に延長された。千尋自身もそんな事で甘えられないと断固として反対したが、坊の我侭に勝てる者などいない。普段彼の教育係についている従業員にも「自分たちも偶には坊から解放されたい」と泣いて縋られ、渋々千尋は承知した。
リンに聞くと、今油屋で一番の厄介な人物は坊らしい。成長するにつれて神出鬼没に色んな所、時には客室にまで現れては従業員を困らせるので坊がいない日は精神的開放感に感動するらしい。
だからリンにも、千尋と坊が一緒に出かけると聞いていた姉さま方にも「行って来い何日でも行って来い」と諸手を挙げて見送られた。
そんな人物が将来は経営者となるのだろう。油屋の先は恐ろしい。
「ハクも来ればよかったのに」
千尋は呟く。
どうせなら彼と一緒に礼を言いたかったし、彼となら油屋と銭婆婆の家の往復だってそんなに時間の掛かるものではない。
「ハクは来れないんだぞ」
彼女の呟きに、坊は自信満々に答える。
「え?どうして」
「ハクは銭婆婆の弟子で、約束してるから会えないんだぞ」
「約束?」
初めて聞く話に、千尋は驚いた。
油屋に勤めてそれなりに経っているが、そんな話は一度も聞いた事が無い。
ハウが銭婆婆の弟子になった事さえも初耳だ。
「そうだぞ。約束が終わるまで会っちゃダメなんだぞ」
「何の約束?」
「うーんと…坊は知らないんだぞ」
「そっか…」
がっくり肩を落した千尋に、坊は慌てる。
「坊が聞けばきっと湯婆婆教えてくれるぞ!」
「ううん。いいよ。これから銭婆婆おばーちゃんに会うし、その時聞いてみる」
「そうか」
自分が役に立てる事が無く凹んだ坊に、千尋は苦笑すると声を掛けた。
「坊。ありがとう」
すると、坊はまた嬉しそうに笑った。
こんなに素直で可愛いのにどうして皆そんなに嫌がるのだろう、と思いながら。
千尋は知らなかった。
坊が素直で無邪気に子どもらしく振舞うのは、千尋の前だけだという事を。
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■千尋最強伝説・13■
ぽつんと降車場だけがある沼の底駅。
周囲は千尋が数年前訪れた時と何一つ変わらず、深い森が広がっていた。
あの時と同様、事前に察していたのだろう銭婆婆の使いである足のついたカンテラが千尋と坊の二人を迎えた。
既に空は夜空に変わり、明るい月が浮かんでいた。
森を抜け、突然開けた平地に一軒の家が建っている。
畑を耕し、薪を積み、慎ましくささやかな毎日を送る為の質素な飾り気の無い家。
それでも、千尋にとっては煌びやかな湯屋よりも、その慎ましさが逆に安心感を与え、ほっと心に一息吐かせた。
ドアノブをノックすると、中から声がし、木の扉が独特の音を鳴らして静かに開く。
迎えてくれたのはカオナシだった。
「カオナシっ!久し振りっ!」
勢いよく抱きつく千尋に、カオナシも嬉しそうに「あ…あ…」と声のトーンを上げる。
「よく来たね。千尋」
奥からは、既に少女を持て成す為に用意していた料理を並べた銭婆婆が立っていた。
「おばーちゃんっ!」
千尋はカオナシから離れると、今度は一目散に銭婆婆に抱き付く。銭婆婆も嬉しそうに彼女を抱き返し、己の懐に収めた。
「大きくなったねぇ…それに見違える程綺麗になった」
「本当?」
「本当さ。容姿もすっかり大人になって綺麗になったが、魂の輝きには敵わない。本当に綺麗になった」
「嬉しいっ!」
千尋はもう一度銭婆婆に抱きつく。銭婆婆も彼女を抱き締めると、優しく声を掛けた。
「さあさ、千尋が来ると知って今日はカオナシと二人で沢山ご馳走を作ったんだよ。食べておくれ」
「うん!」
やっと千尋が振り返ると、先に席に着いていた坊が既に料理に手を伸ばし始めていた。
「こら。坊。お行儀が悪い。千尋も席に着いてから皆で一緒に頂くんだよ!」
銭婆婆に叱られた坊は首を竦めるが、反論する事も癇癪を起す事も無かった。
それは彼女がちゃんと愛情を持って彼を叱ってくれている事をその身で感じていたから。
「千!早く座るんだぞっ!」
そう催促する坊に、千尋は苦笑した。
この世界は千尋のいた世界よりずっと時の流れが遅くて、彼女が少し不在だった間から何も変わらない。
不思議の町に戻ってきて、湯屋に戻ってきて、それは変わらず帰る場所があると少し安心していたけれど、自分だけがやはり時の流れが違うのだと悲しくもなった。
けれど、時折こうして垣間見える変化に、矛盾しているがそれもまた千尋を安心させた。
銭婆婆はそんな複雑な気持ちのまま笑う少女をただじっと見つめていた。
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■千尋最強伝説・14■
持て成される料理をお腹一杯食べ、食後に差し出された紅茶を一口含むと、千尋は銭婆婆を見上げた。
「ねぇ。おばーちゃん。ハクと約束しているんだよね?」
「そうだね」
銭婆婆は表情一つ変えず、何ともなしに応える。
「私ね、私が大人になってもハクは元の世界に戻ってこれなさそうだったから迎えに来たの。その約束は私がハクに手伝える事はある?」
「あるよ」
「本当!?」
この世界で契約は一対一のものだった。解約する時は他人が手を貸す事は絶対出来ない。必ず本人が自力で解決しなくてはならなかった。
だから、坊が言う『銭婆婆とハクの約束』も同等のものだと思ってた。
けれど、まさかそこに自分がハクに手助け出来る事があると解答されるとは思わず、千尋は身を乗り出して銭婆婆に詰め寄った。
しかし銭婆婆はやはり動じた様子無く、カップに入った紅茶を啜る。
「千尋がそのままでいることさ」
「私が私のまま?」
意味が分からず、千尋は銭婆婆の言葉をそのまま反芻する。
「そうさ。本当を言うのならお前がこの世界に来ただけでもハクにとっては大きなチャンスを手に入れたんだ」
「私が来ただけで?」
「そう。お前がハクの傍にいて、ただ自分のやるべき事を果たせばいい。それだけで十分ハクにとって価値のあるものだ」
「私もっとハクの役に立ちたいの。あのひとが早く元の世界に戻れるように」
千尋が懸命に訴えると、銭婆婆は顔を上げ、彼女を見ると、大きな溜息を吐いた。
「千尋。お前は本当に強い子だよ。あの頃よりまた随分と強くなった。けどね……」
そこまで言って、一度言葉を切ると、銭婆婆はまた溜息を吐く、そして、座っていた椅子から立ち上がると、テーブルの対面に座る千尋の横に立ち、そっと彼女の頬を撫でた。
「偶には甘えたっていいんだよ。弱音くらい吐きなさい。お前だって一度は訪れた世界だからといってもあの頃とはまた勝手が違うだろ。そこまで強く心を保たなくていいんだよ。仕事場である湯屋で甘えられないというのならせめてここでくらいは気を抜きなさい」
囁かれる言葉に、千尋は大きな円らな瞳を瞬くと、次第に潤み始めた。
それに気が付いた千尋は、慌てて湯婆婆の手から顔を背けると、暫く俯いて、すぐさま顔を上げると一瞬見せた潤んだ瞳はそこには既に無く、再び強い強い眼差しが銭婆婆に向けられた。
「私は大丈夫。ハクと一緒に元の世界に帰る為に頑張るのっ!」
千尋は力強く銭婆婆を見上げるが、向けられる眼差しは慈愛と悲哀に満ちていた、千尋の瞳はまたすぐ潤み始めた。
その一部始終を見ていた坊は、千尋を庇うように、銭婆婆の前に割って立つと、彼女を睨みつけた。
「千を苛めるなっ!千を苛めると坊怒っちゃうぞっ!」
普段甘えてばかりの坊のそんな姿に銭婆婆は目を丸くすると共に、また一つ溜息を吐く。
「苛めてなんかいないさ…。あんたにはまだ早いだろうけど…湯屋の人間もハクも何やってるんだろうね…」
「止めてっ!ハクも湯屋の皆も悪く言わないでっ!」
すぐさま反論する千尋を銭婆婆は真っ直ぐ見据え、そして、静かに言葉を放った。
「だったらここですぐお泣き。泣けるところでしっかり泣くのも強さだよ」
その言葉に、千尋は今度こそ嗚咽交じりに涙を零し始めた。
銭婆婆は人間の少女を優しく抱き締める。
坊はもう何も言わなかった。何も出来ずにただ傍にいた。カオナシと共に、心配そうな表情をして。
「…千尋が傍にいるというのに、あの竜は何を見ているんだろうね…」
千尋が現世に戻った後、真っ先に銭婆婆の元に現れ、自分も元の世界へ戻ると宣言した白い竜を思い浮かべ、銭婆婆は溜息を吐いた。
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■千尋最強伝説・15■
銭婆婆の家に一泊をし、次の日いざ帰ろうと思った時に、突然突風が吹き付けたように窓ガラスがガタガタと響き、千尋が外に出ると、そこには以前現れた時は竜の姿を取っていたが今は人の姿をしたハクが立っていた。
「ハク!」
千尋が駆け寄ると、ハクは笑みを浮かべる。
「迎えに来た。千尋の事だから線路を歩いて帰ってくるだろうと思って」
「そのつもりだったんだけど。ハク、お仕事はいいの?」
「ああ。湯婆婆様に坊も一緒に連れて帰ってくると言ったら、了承してくれた」
「そうなんだ…」
千尋がふと、不安になって後ろを振り返ると、そこには見送ってくれるはずの銭婆婆の姿は無かった。
彼女が何に心配しているか気付いたハクは苦笑して、声を掛ける。
「銭婆婆様は家の中で見送ってくださるはずだ。私がいるから出て来られないだけだよ」
「ねぇ。ハクの銭婆婆おばーちゃんの約束はそんなに難しいものなの?」
千尋の問いに、ハクは何故その事を知っているのか一瞬訝しんだが、すぐに坊が伝えたのだろう事に思い至り、柳眉を下げ答えた。
「…そうだね。今の私にはまだ銭婆婆様に会える資格が無い…」
「私に何か出来るって聞いたら、私が傍にいるだけでいいって言っていたんだけど、それだけでいいの?私に出来る事があったら言って!」
「…銭婆婆様がそう言ったの?」
必死に訴える千尋に相対してハクは目を見開くと、驚いたように彼女を見て、そして、家の中にいるだろう銭婆婆に目を向ける。その姿を確認する事は出来なかったが。
「--銭婆婆様がそう言うのならそうなのだろう。ありがとう。千尋。私にはその言葉の意味は分からないけれど、その気持ちだけが嬉しい」
「ねぇ、ハクは銭婆婆おばーちゃんに何を約束したの?」
「それは--」
果たして、千尋に分かるだろうか。
彼女になら自分には分からない答えが見つけられるだろうか。
一瞬期待して。
そして首を振る。
これは自分の問題だから。
「ハク!私たち一緒に帰るんだよ!おばーちゃんはハクに何を約束したか聞いちゃ駄目とは言わなかったよ!それは聞いてもいいって事でしょ!」
言われて、ハクはまた驚く。
本当に千尋は、いつの間にそんな発想の転換を出来るようになったのだろう。
真剣な眼差しで自分も射抜く瞳。
ハクは暫し唇を噛み締め。
そして、口を開いた。
共に帰る為に。あの場所へ。