千尋最強伝説11

■千尋最強伝説・51■

神は時折時の流れの速さを、命というものがいつか費える時が来る事を忘れる。
それほどまでに永い時を神は生きるから。
それでも、一度は力を奪われた竜神は、己の命の最後を感じたはずなのに、神々が訪れる湯屋と湯屋のある世界に身を寄せ、共に永久とも思える時を過ごしていると、その事を忘れてしまう。
己の命の短さを知っている人間故の覚悟。
一つの命の中で生きる、『個』。
変わらない。けれど変わっていくもの。
繰り返し繰り返し一つの命を生きる中で変わっていく。
一つの魂そのものは変わらなくとも記憶も体も全てまっさらにし、一つの命を生きていく。
それをハクは永い時の中で見つめてきたはずなのに。
千尋もハクの一つの命の中で何度も繰り返す存在である事を本当に理解してはいなかった。
寧ろ千尋の方が全てを理解して、彼の傍にいる事を望んだ。
命は短いからこそ。
本当に大切なものだけを選び取って。その他の全てを切り捨てて。
千尋は――ハクの為だけに今傍にいる。
「――私は千尋を器に元の世界に戻っても良いだろうか?」
ハクがそれまで見つめ返す事の出来なかった千尋の瞳をまっすぐ見つめ、静かに問う。
千尋は、そんな彼に苦笑し、握ったままの拳をぎゅっともう一度握り締めると、笑う。
「一緒に帰ろう。ハク」

――千尋と共に現世に戻り、千尋の命尽きるその時、共に黄泉に渡る。
それこそ、己が望んでいた事では無いだろうか。
契りこそ無くとも――それは夫婦として幸せな形ではないだろうか。

ハクはそんな事を思った。

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■千尋最強伝説・52■

「御方様お呼びになられた方がお越しになりました」
いつからそこにいたのか、扉の向こうから父役の声がする。
「入れ」
雷神には既に扉の外にある気配に気付いていたのだろう、気の無い様子で応えると、呼んだ人物を招き入れる。
「失礼致します」
スッと扉が開くとそこには、まず揃う事が無いはずの双子が座していた。
「湯婆婆おばーちゃん」
「銭婆婆様…」
千尋とハクが二人で、そこにいる双子の魔女の名を呼ぶ。
「面を上げよ」
雷神に許され、湯婆婆と銭婆婆は顔を上げる。
両者ともその表情は目の前の神に畏怖して強張るということも無く、凛とした眼差しで、彼の神を見据えていた。
千尋がそろりとハクを覗き見ると、寧ろ彼の表情の方が強張っていた。彼が銭婆婆に直接面するのは恐らく彼女から問答の答えを求められた時から。
「して、――聞いていただろう?事の顛末を」
湯婆婆も銭婆婆も返答はしなかった。それでも既に全てを知っている雷神はにやりと笑った。
「どうする?そこの小者は幾ら答えを誘導されても気付く事も出来ず、挙句の果てに執着していた人間の娘に答えを紡がせた。さて、これは果たして問答に答えたと言えるかな?」
「――言えませぬな」
銭婆婆が溜息交じりに答えた。
「それでは弟子にする事も出来ぬな」
「そうですね」
雷神はにやりと笑う。
「湯婆婆。そなたはハク殿の代わりが育つまでハクをこの湯屋に留めていると前に言ったな。まだ育っておらぬか?」
「――いいえ。もう十分に父役も兄役もこの湯屋を運営していけます」
「では、もうハク殿は不要だな」
「はい」
雷神はまた楽しそうに笑う。
「ハク殿。さて、どうする?全てを掴む為に望んだ魔女の弟子にもなれず、今まで縛られそして解放された後も必要とされていた湯屋にも身の置き場は無くなった。現世に帰れば人間の娘を嫁には出来ず、その現世に帰る力も無い。そなたの為に哀れな人間の娘も巻き込み、この世界を二人流離うか?それとも人間の小娘だけ現世に戻してやろうか?久々に面白いものを見せてくれたしな。その位の褒美は与えてやろう。まぁ、この世にいても現世にいてももう神の器と知られている小娘はここを出れば直ぐに力ある神に攫われるだけだろうがな。そなたの望むものは何一つ手の中に残らぬぞ」
満足気に笑むと雷神は声を立てて笑った。
「神から堕ちた竜の末路は欲に塗れ何も手に入れられず、朽ちていく。これ程滑稽なものはない。人間の小娘にくれてやる時間は苦痛であったが久々の良い余興であったわ」

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■千尋最強伝説・53■

雷神の余興は完成した。
それを喜び彼の方は声を立てて笑う。
「――それで。御方様は楽しんで頂けましたか?」
一人笑う神の前で凛とした声が響く。
誰も何も反論できず、何も申し出る事も、何かを言い出す事も出来ず、笑い声が響く中、それを遮る声は広い部屋に大きく響いた。
「ぬ?」
笑うのを止め、雷神は己の充足感を遮る人物を見やる。
「楽しんで頂けましたか?」
何度も神に対する態度を窘めては、それを物ともせず決して屈せず、常に強い瞳で真っ直ぐ見据えてくる人間の少女は、彼女が己の全てを投げ打ってまでこの地に来たにも関わらず何一つ愚かさを覆す事が出来ない憐れな竜の隣で雷神を見据えた。
「そうさな。愚かな竜を貶めるという余興は久し振りに楽しかったな」
「そうですか」
人間の少女は満足そうに、にこりと微笑む。
「では、褒美をお願い致します」
「何?」
「褒美でございます」
「そなたを元の世界に戻すと言う事か?まぁ、もうそこの竜と共にいる意味も無かろう。その位の願いは叶えてやろう。お前の言動は不快極まりないものであったが、よい駒となってくれたしな」
「私の褒美はそれで十分でございます。けれど、私が今申し出ている褒美は私のではありません」
「――どういうことだ?」
「貶められたハクに対する余興の褒美を頂きたく」
「何故私がハク殿に褒美をやらなければならぬ」
「先程御方様はよい余興だったと仰ったじゃありませんか?」
「それは言った。が、しかし、それとハク殿は関係ない」
「関係無くありません。ハクは御方様の余興の為にその身を投げ打ったのです。それに対する褒美があってもしかるべきではないですか」
「これは私が自ら作り出した余興。ハク殿には何も協力を求めてなどおらぬ」
「いえ。ハクが銭婆婆様から言い渡された問答を答えられなければ、私がこの湯屋に来なければ、ハクがこの湯屋に留まらなければ、ハクが己の望みに強欲に鳴らなければこの余興は完成しません。ひとえにハクの身一つでこの余興は完成されたのです。強欲な神を貶めるその余興の為の布石に偶々なったそれらを、ただ御方様は利用されただけ。では強欲な竜から全てを奪い利用するだけの対価を必要とするのが通常でしょう」
「――」
「望むのはハクの現世へ戻るだけの力。それだけ」
「神に戻せというのか!」
「そんな事は望んでおりません。どんな形でもいい。ハクが現世で私と共に過ごせればそれでいいのです」
「それでは全ての余興が無い事になるではないか」
「強欲な竜が堕ちる姿を十分楽しんだのですから、今度は強欲な竜が現世に戻りどう人間の娘と、短い『命』を共に過ごすのか。それを見るのも一興だと思いませんか?」
「――そなたは。…何処までも強かな…流石人間の娘だ。汚い」
「それをお褒めの言葉だと受け取らせて頂きます」
雷神は暫し沈黙をし、思考を始めた――。

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■千尋最強伝説・54■

雷神が思いに耽る間、ただただしんとした無音の時間をその場を流れていく。
それは数秒のようで、とても長い時間のように思えた。
千尋にとっても。ハクにとっても。二人の後ろで控えていた双子にとっても。
目の前の神が沈黙をする事で緊迫感がどんどんと深く濃くしていった。
一瞬にして消されるかも知れない恐怖の中、ハクが背後に座る双子の気配を感じ取れば、戦慄で震えている。
湯婆婆と銭婆婆が千尋の神に対する行動を目の当たりにしたのはこれが初めてだ。これ程までに真っ向から対等に千尋が交渉しているとは思っていなかっただろう。
対等に会話をしているだけではなく、交渉。
隣の千尋を感じれば、彼女は怯まない。揺らがない。
己に望みを叶える力が無くとも。
己に望みを遂げる方法が無いのならば。
己に出来る事を全力で成し遂げて。
不可能を可能にする糸を手繰り寄せる。
何処までも真っ直ぐで――強い。
その強い彼女の芯の元はハク。
何一つ覚悟も、何一つ選択する事も、何一つ行動を起こす事も、彼女が窮地に陥っても尚何も為す事もしようともしなかったハク。
愚かしい元竜神だが、それでも。
己が壊れてしまえば、――千尋が壊れてしまう事くらいは分かっていた。
彼女をハクが捕らえてしまっていた。
だから、彼女が強い彼女でいてくれる為に、ハクは生きなくてはならない。
今、この状況においても、ハクは目の前の神に身を委ねる事しか出来ない、自ずから選択肢を提示する事もできないけれど。
どんな状況に置かれても。
千尋を守る――。
それだけは、譲れない。

「ハク殿」
長い間の沈黙が破られた。雷神が静かに口を開く。
「はい」
「元の世界に戻る力をくれてやろう」
その言葉に、隣に座る千尋の肩から力が抜けたのを感じて、ハクも少しだけ緊張が抜ける。
人間嫌いの雷神であったが、これまでの千尋の努力を認めてくれたのだ。と、安堵した。
だから、続けられた言葉の意味とその真意をハクは上手く汲み取る事が出来なかった。
「但し、人間として生まれ変わるのと、神として己の生を全うするのとどちらを望む」

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■千尋最強伝説・55■

「但し、人間として生まれ変わるのと、己の生を全うするのとどちらを望む」
雷神の問いかけに、ハクはその問いの真意が何処にあるのか思考を巡らせるが一瞬理解できなかった。
どちらにせよ、元の世界に戻れるのであれば、それは千尋と己の望みが叶う事に他ならなかったからだ。
しかも千尋が器になる必要なく婚姻ができるのだ。まさかそれ程の好待遇をしてくれるとは思わなかった。
しかし、そう思っているのも一瞬の事だった。
隣の千尋も笑みを浮かべているが、余興と称して今まで散々ハクを貶める為に自らの手まで下してきた雷神が素直に褒美をくれるとは思えないのだろう、首を捻らせた。
ハクは一瞬の思考の後、余りにも皮肉な選択肢に笑ってしまった。
「どうだ?ハク殿」
「――神として生きましょう」
提示された選択肢の答えに、迷いは無かった。
「ほう」
今まで散々に揺れ続けていたハクがすんなりと出した答えに、雷神は小さく笑う。
「私が望むのは私が私のままで元の世界に戻ること。人間に生まれ変わるという事は、即ち今までの記憶を全て失うという事でしょう?」
「そうさな」
雷神の肯定に千尋はハクを振り返った。
「私が今から一から生まれ変わるとすればそれは千尋と一度別れもう一度巡り会わなくてはならないと言う事。一人で立ち上がり言葉を覚え千尋を求めるまでにどれ程の時が必要になりましょう。そして千尋を覚えていない私が千尋を求める確証さえも無い」
「でも私がまたハクを探すよ!?ハクが覚えて無くても私が見つけ出す!」
力強くすぐさま答える千尋は頼もしい。
けれどいつでも彼女に委ねたままではいられない。
強いからといって何もかも千尋に委ねていては彼女を守ることにはならない。
彼女の強さは平気で己の大切なものを切り離してでもハクを望む自己犠牲の元にあるものでもあるのだから。
ハクは全てそれを拾ってみせる。
「そうやってまた私は千尋の限りある命を刻む時を奪う事になるのだけは嫌だ。そなたと結縁を望む年齢までにどれだけの月日がかかる?そなたと同じだけの寿命を生きるのは望ましい。けれど私はもうこれ以上千尋を待たせる事は望まない」
「…」
「それに、彼の方はもしかしたら、私の命を宿す胎をそなた自身にする可能性さえある」
「っ!」
千尋が雷神を振り返ると、彼は口の端を上げるだけで肯定も否定もしない。
「更に、さっき御方様が仰っていたように、例え千尋が元の世界に戻ったとしても神の器になれるそなたは直ぐに神々に攫われてしまうだけだと思う。そなたを守る力は何処にも無い」
「…そんな」
そんな事になるとも、そんなつもりも無かったのだ。雷神と対峙しながら揺らがなかった千尋が己の選択に戸惑いを見せる。
彼女を弱くする選択肢をハクはもうしない。
「千尋。千尋が言っていたじゃないか。生まれ変わって私を忘れた自分は自分じゃない。千尋が私の記憶を持ったままもう一度出会いたいと願ってくれたから全てを投げ打って今ここにいてくれている。と」
「そう…だけど…でも、神様のままだったらハクはっ!」
千尋は既に神と人間の命の長さに覚悟を決めていた。けれどハクは違うかもしれない。だったらそれは千尋が望まない未来だ。
「私は千尋が去った常世も生きてみせるよ。私の命を精一杯生きてみせる。私が黄泉の門を叩いた時、そなたに笑顔で迎えてもらえるように」
千尋が常世を去った時に己も去ればいい。そう思っていた。
神から堕ちたハクにとって、彼女のいない世界など、最早その場にいる意味など無かったから。
けれど、千尋を守る為に、ハクは生きる。
どんなに辛くとも。どんなに悲しくとも。どんなに空しくとも。
千尋を守る為に。
「神でいられれば今よりも少なからず神の器でもあるそなたを守り続けられる。そして――そなたを花嫁に迎える事もできる」
「…それは…」
「千尋。そなたの望みは『二人で元の世界へ共に生きる』。私の望みは『千尋を私の花嫁に迎え共に生きる』だよ」
真っ直ぐ千尋を見つめ、微笑むハクに、千尋はほっと息を落とし、ぽとりと涙を零してくしゃくしゃの笑顔で笑った。
この湯屋に来て、いや、この世界に来て、初めて肩の力を抜いて心からの笑顔を見せてくれた。
ハクはそんな事を思う。

そんな二人を見つめ、雷神は溜息を吐く。
「――つまらん。今になって覚悟を決めおって」
「私への褒美。どうぞ宜しくお願い致します」
ハクは深々と頭を下げ、どんな理由であれ己の愚かさを教えてくれ、選択肢を与えてくれた神に感謝した。
「せいぜい生き足掻け。愚かな竜よ――。己が最後まで我を楽しませてみよ」