■千尋最強伝説・46■
「確かめればいい。私が御方様に抱かれたのかどうか。ハク自身で確認すればいい」
宴の前夜、千尋はそう言った。
その場で水干を脱ぎ始めた彼女に、ハクは自分から言い出した事ながら戸惑った。
彼女の眼差しは嘘を吐いていない。
そしてまた己の愚かな想いのせいで彼女を傷つけている。
「すまない!千!止めてくれ!」
ハクは水干を肩から落とそうとする千尋の手を止める。しかし、彼女は制止されるその手を跳ね除け、水干を落とした。
水干の下に着込んでいた下着姿になる。しかしその姿は初めて迷い込んだ時の幼い体付きとは全く違う。細く今にも折れそうな細かった腕は柔らかな曲線を描き、膨らみも無かった胸元は柔らかな稜線を描いて彼女がいつか母となる為の準備を十分に整えていた。
それさえも外そうとする千尋の体をハクは我武者羅に抱き締める。
「すまない!千尋…。私が悪かった。そなたが嘘を言っていないのは分かっている。それでもそなたを疑う心根の狭い私の心をどうか許してくれ!」
突然抱き締められ、一瞬戸惑った様子を見せ、腕の中で暴れていた千尋は、すぐに大人しくなり、ハクに体を任せるように、彼の胸に頬を寄せた。
千尋の想いが触れる箇所から伝わるように、熱が電波する。
「……お披露目が終わったら、そうしたら、今度こそここを出よう。二人で暮らそう…」
「銭婆婆おばーちゃんとの約束は?」
「……もういいんだ…。私の妻となっておくれ…」
そう言って、ハクは千尋を強く抱き締めた。
そう言っていたはずなのに。
「……千尋。私は千尋と共に、千尋のいた世界へ、私たちの世界へ戻る事が出来る。けれど…その代償に、私はそなたを妻として抱く事は出来なくなる」
「どういう事?だって、昨日…」
「千尋自身を神の器として、私の器として共に帰る。だから、千尋は決して穢されてはいけないんだ。私が抱いたら、その瞬間私は元の世界で私の身を置く場所を無くし、今度こそ消えてしまう…」
「え…」
「折角そなたが二人一緒に帰る方法を作ってくれたのに、私はそなたと夫婦になる事はできないんだ」
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■千尋最強伝説・47■
ハクは神々の前で舞い始める千尋の姿を見た瞬間、全てに気付いてしまった。
彼女が雷神に毎日のように部屋に招かれ、していた事を。
神楽舞を舞う為に彼女の魂は彼の神によって磨かれ、人ととしての穢れを極力取り除かれる事で、誰の目にも特に神々の目に留まるような内からの美しさを放っていたのだと。
それも全て彼の神にとってはハクを困らせる為の戯れ。
彼の神にとって己は疎ましいのだろう。癇に障るところも多々あるのだろう。思い当たる点といえば幾らでも出てくる。
所詮己は神の末席であったとしても、その神の位から一度堕ちた身。しかも同族であるその元神が魔女の弟子になったとあれば己自身親族の事では無いとは高位の神ほど不快感を露にする。神という矜持を持つが故。
それが本当の理由かはハクに測ることは出来ない。それでも彼の神は彼を好ましくは決して思っていない。
ハクには神が己を害したとしても受け止めるのは最早仕方がないと思っている。今まで出会ってきた神もそうだったしこれから出会う神にもきっとされるだろう。
それでも。
千尋を巻き込んでの、いや、この世界で最も弱者と言ってもいい千尋を使っての嫌がらせは、流石のハクも傷となって彼の心を抉った。
いや、それも昨日までの痛みなら、まだ受け止める事が出来た。
今、この瞬間の痛みに比べたら。
「…私、ハクのお嫁さんになれなくてもいいよ?」
苦痛を噛み締めるように沈黙していたハクを、そんな彼をにやにやしながら見つめていた雷神を千尋は交互に見つめ、そしてきょとんとした顔であっけらかんとそう答えた。
「千尋?」
ハクには彼女が何を言っているのか分からなかった。
いつか千尋の元へ戻り、彼女と二人伴侶として暮らしていけたら。
ずっとそう思っていた。
いつか千尋と共にこの湯屋を出、そして彼女を妻とし、彼女の元の地でどんな形でもいい、寄り添い慎ましく暮らしていけたら。
彼女がこの世界に戻ってから、そう想いは変わった。
千尋がハクの器になる。
そういう方法がある事も分かっていたが、彼の中にその選択肢は無かった。
この数日の葛藤を思えば、それ以前以上にもう彼女を妻以外の何ものにも出来ない。
彼自身が彼女を女性として必要としている。己自身でもそんな劣情とも言える感情を彼女に抱いていたのだと驚くほどに彼女を必要としていた。
それを千尋はあっさりと否定した。
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■千尋最強伝説・48■
「だって、私がハクの器になれば元の世界にも戻れるし、一緒にいられるんでしょ?だったらそれでいいじゃない」
「それでは、私はそなたを妻に出来ない」
「一緒にいられればいいよ?私はハクを夫だと思うよ。だからハクは私を妻だと思ってくれればいい。それだけの事だよね?」
「妻とは契約、男女の契りを交わすことだ。共にいるだけでは夫婦とは認められないのだよ」
「それは困る事?別に誰かに認められる必要があるものでもないでしょ?まぁ、人間の世界でも家の問題とか色々あるみたいだけど、結婚してないけど夫婦として暮らしてる人なんて一杯いるし」
何が問題なのだろうか、二人の一番の望みであった、『二人で一緒に元の世界に帰る』という望みが叶うのに、ハクが喜ばない事の意味が千尋には分からなかった。
二人ともこの世界に残り、湯屋で湯女と従業員として暮らす。のでもなく、二人ともこの世界に残り、湯屋を辞めて暮らす。のでもなく、ハクがこの世界に残り、千尋が元の世界に戻る。という、どの選択でも無かったのに、納得のできないハクが理解できなかった。
「それであるならこの世界に残り、夫婦として共に暮らすのでも構わないだろう」
「そうだけど…ハクだって元の世界に帰るって言ってたじゃない?それって帰りたいって事よね?」
「そうだ。しかし、それは今の私にはまだ無理なんだ。二人で元の世界に帰るのなら、私がもっと別の方法を見つける。それであればもう少し待ってくれないか?」
「ねぇ。ハク」
優しく諭すように語り掛けるハクに向き直り、真っ直ぐな眼差しで千尋は彼を見つめると、静かに彼に問いかけた。
「それはいつのこと?いつになったら帰れるの?後どのくらいかかることなの?」
「千尋?」
今までハクの言葉に耳を傾け、全てを聞き入れ、反論も意見もしなかった千尋からの初めての率直な問いに、動揺と共に、彼女の眼差しと問いが彼の胸を刺す。
「ハク。私ね、人間よ?」
「そうだね」
「私はここの湯屋の人ほど、神様ほど長く生きられない人間よ。きっと神様からすればあっという間」
「――」
「私、――ハクを待ったわ。私が結婚できる年まで。でもハクは現れなかった。だから私は迎えに来たの」
「――」
「ハクからすればあっという間にお婆ちゃんになって、あっという間に死ぬの。私は寿命までの少しでも多くの間をハクと一緒にいたいと思ったからここに来た。だからハクと一緒にいられるのならどんな形だって、どんな方法だって構わないわ」
ハクは息を飲んで、ただ千尋を見つめる事しか出来なかった。
今も二人の前に座す雷神は楽しそうに笑っていた――。
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■千尋最強伝説・49■
ハクは己の愚かさを呪った。
千尋が様々なものと引き換えにこの世界で、己と共に生きる為にこの地を訪れた事は分かっていた。
だからこそ、彼女がこれ以上彼女の大切にしてきたものを失わせないように、彼女と共に生きていこうと思った。
千尋は『二人で一緒に元の世界に帰る』という目的の為なら、他には何もいらない。その覚悟があった。
二人で共に生きる。という覚悟。
ハクは――。
「…私は…愚かだ」
「ハク?」
「――御方様は全てを…本当に私の全てをご存知だったのですね」
顔を上げ、目の前に座す雷神は肘掛に肘をついたまま、その口の端を上げた。
それが彼の方の回答だった。
「……私は、真に、愚かしい」
胸の内に渦巻く自己嫌悪を吐き出すように、深く暗い息を吐き出し、ハクは俯く。
「答えは分かったか?」
問われる声に、ハクは俯いていた顔を挙げ、雷神を見据えた。
「はい――銭婆婆は最初から私と契約など交わす気は無かったのですね」
その言葉に、彼の方は満足そうに笑った。
「お前は何処までも愚かだ。答えが目の前に現れても気付かなかった、真の愚か者だ。滑稽無様な姿を曝し続けるそなた程これ以上に勝る余興などあるだろうか」
「――」
「そして、矜持ゆえ、そこの人間には何も話さぬか?」
「――」
「それで、どうして神格などに戻れるだろうか。だから私はそなたを疎ましいのだ。何処までも欲深い」
押し黙るハクの隣で、千尋は自分を責め続ける彼を察し、顔を上げ、雷神に食いかかった。
「どういうことですかっ!?」
「口出すな!人間!」
ぴしゃりと言い放たれて、千尋は一瞬震えるが、それで怯む事は無く反論を続ける。
「っ!黙ってられません!私が関わっている事なら私にだって聞く権利があります!」
「人間如きが権利を主張するな!」
「教えてください!」
きっと真正面から睨み付ける千尋、そして隣で俯くハクの姿に、雷神は心底呆れたように溜息を落とした。
「――そこの愚かな竜より、余程お前の方がマシだということだな」
「…どういう…?」
眉を顰める千尋の隣で、ハクは顔を上げて雷神を真っ直ぐ見ると、口を開いた。
「――銭婆婆様は、契約などするくらいなら、一刻も早くすぐにでもこの世界を出て、千尋を追えと仰っていたのですね」
「…ハク?」
千尋は振り返り、ハクを見た。
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■千尋最強伝説・50■
「私は愚かだ。名を取り戻し、湯婆婆との契約も解け、そのまま千尋の元へ向かえばよかったのだ。しかし――私自身のそれまで湯婆婆から得た魔法だけでは足りないと分かっていたので、銭婆婆に弟子入りを求めた」
隣に座る千尋を見て、ハクは目を細めた。
「そなたと共にいる為にできる限りの力を得ようとした。元の世界での私の器を求め、器が無ければ無いままでも存在していく為の術を求め、千尋と共に人間世界で生きる為の術、二人でいる為に障害なるものを取り除けるだけの力……」
「そんなもの!…私にはハクが元の世界で生きる為に必要なものは分からないけど、それでも二人で必要になれば一つずつ考えて乗り越えていけばいい!!」
千尋がそう言うと、雷神が笑った。
「お前には全て簡単な答えよのう」
「……全てを手に入れなければ、そなたには会えないと思っていたんだ。意味が無いと。そして、そなたが私の器になってくれると言ってくれているのに、それでも良いとそなたは言っているのに、そなたと共に元の世界に帰る術ができたというのに、それでも尚、私は今度はそなたと夫婦になる術が無ければ意味が無いと思っているんだ」
「…ハク」
「私は、何処までも欲深い」
ハクは俯き、正座する膝の上で握っていた拳に力を入れる。
「銭婆婆は契約をするのならその前に一つ問答に答えよと仰った。――『流れ尽きた果てに二度と戻らぬ現世にて最も尊きものとは何か』と」
「…命…」
すぐさま答える千尋に対し、ハクは自嘲するように笑った。
「私には分からなかったのだ。その答えが」
「……」
「千尋を迎えに行くつもりでいた。しかし、『いつか』という曖昧な言葉で濁し、そなたに会う事を望みながら、そなたをどんな事からでも守る術が無ければ共にいられないと思い込み。その為に時を費やし、そなたがもし魂だけとなり黄泉の国へ旅立ったとしても、今度は、呼び戻すだけの力、できなければそこで共にいられる力を手に入れられればいいと思っていたのだ」
「…ハク、それじゃきりがないよ?どれだけ万能な力を手に入れても、その分必ず不可能と思えることは起こるもの」
己の今まで抱えてきた想いを吐露するハクに対し、千尋は凛とした声ではっきりと答えた。
「その万能な力を手に入れる為の時間を考えたら、それよりもそれだけの時間を私はハクと一緒にいたいと思う。万能な力なんていらない。不可能な事が起これば二人でどうすればいいか考えればいいんだもの。二人が離れずに一緒にいられる方法を」
「……」
ハクは顔を上げ、千尋をもう一度見る。
「私が私のままでいられるのは、今の私の命が尽きるまで。私が死んだらどうなるのかは分からないけど、魂になっても生まれ変わってもハクを好きでいたいとは思うけれど、もしかしたら記憶にリセットがかかってしまえば覚えていないかもしれない。生まれ変わった私は今の私のままでいたいと思っても新しい環境で生きている私はきっと私じゃないもの。だったら私は今の私で、私の命が尽きるまで一分一秒でも長くハクの傍にいたい」
千尋はハクの正面に座ると、彼の強く握りすぎて白くなった拳を両手で包み込んで正面から見据え、そして笑った――。