夢中で階段を駆け上り、リンさえも置いて千尋は逃げ出していた。
彼の声も彼の存在も空気も完全に絶たれる場所まで逃げると、千尋はほぉっと一息吐く。
随分遠くまで逃げてしまったらしい。窓の外を見ると、表玄関からでは見えず従業員部屋まで来ないと見えない隣町が見えていた。
もう一度千尋はきょろきょろと周囲を見渡し、ハクが近くにいない事を確認すると、はぁっと再度溜息を吐き、ずるずると廊下に座り込んでしまった。
「千」
「わぁっ!」
誰もいないと確認したばかりのところに声をかけられ、千尋はびくっと全身を震わせて激しく驚いた。
「…っリンさんっ!」
千尋の後を追ってきたのだろう、彼女の背後にリンが立っていた。
どうして追ってる事に気付かなかったのだろうと思うと同時に、ハクの気配しか気にしていなかった自分に千尋は苦笑し、納得する。
「突然逃げ出すなよ。流石のハク様もすんげー傷付いた顔していたぞ」
「うっ」
リンの言葉に千尋は返答できず、一瞬顔を歪めるが、すぐにぼっと真っ赤になると、泣き顔に変わった。
「うぇぇぇぇぇー。リンさーん…もぅ…だめぇぇぇ…」
「何が?」
余程恥ずかしいと感じているのだろう。何がそんなに恥ずかしいのだろうかとリンは顔を真っ赤にする千尋を見ながら、『お前の姿見ているこっちの方が照れてくる』と心でツッコミを入れながらも、いつものさっぱり分からない彼女の突然の叫びに、半ば呆れた感情を持ちながら聞き返してやる。
「だめぇぇぇ。もう死んぢゃうよぉ」
「どうしてそうなる?」
本当に辛いのだろう。泣きべそをかきながら千尋は懸命に堪える為に喉をしゃくりあげている。
「もう…ハクに会えないよぉ」
「はぁ?」
「もうね。もうね。ハクがいると思うだけで心臓がいつもばくばく言って、そのうち心臓止まって死んじゃうんじゃないかと思うの!」
はっきり言ってその手の恋話はこの油屋の裏の仕事である湯女のお客様へのご奉仕がある以上関わらない事がない。
リンは今はまだ小湯女で、そういった話は縁遠い方ではあるし、自分もそういった経験を多く持っている訳ではないから耳年増であると自負してはいるが、それでもその手の話を聞くと多少は話が見えてお子ちゃまな千尋にも助言が出来るだろうと思っていたのだが…。
流石のリンにも千尋が何を訴えているのか分からない。
(千が壊れた)
それだけを把握し、呆気とともに冷や汗を掻いていた。
『恋愛は駆け引き』。
そんな言葉をリンはお姉様方に聞いた事がある。
互いに互いを刺激し、押したり引いたりして男女関係を楽しむものだと笑っていた。
湯女は根本的に常に色事と縁を切り離す事が出来ない。
だからこそ長年の経験から、うまく恋愛を楽しむ方法を身につけている。
それが本気か、遊びかは、差し置いて。
偶に溺れて身の破滅を呼ぶ者もいるが、誰もが決して深くまではのめり込まない。
それが湯女の中での湯女になる暗黙の条件。
そんな既に手だれの者たちからの話を聞いていたリンには千尋の感情や行動がさっぱり理解する事も捕える事も出来ない。
何をそんなに脅えるのか。
何にそんなに喜びを感じるのか。
何故そんなに深く想えるのか。
想うが故の行動が、想う心が、読み取れない。
いつも答えは簡単なはずなのに、リンは彼女の話を聞く度に、目の前の少女は何故気付かないのか不思議に思う程。
ただ初々しい彼女の一喜一憂するその表情と仕草は愛らしく、時に女性であるリンでさえも綺麗だなと思ってしまう事があり、少し妬ましい気持ちもほんの少し心の隅にあった。
「…ねぇ…リンさん。…ぎゅっとしてもいい!?」
「はぁっ!?」
暫し俯いて黙っていたかと思うと、突然のお願いにリンは素っ頓狂な声を上げる。
「…だめ…?」
少しまだ頬を染めて潤んだ瞳のまま千尋はリンを覗き込んだ。
(上目遣いをするな。上目遣いを)
男でなくともノックアウトな千尋の痛恨の一撃の表情に、リンは内心先程に増して冷や汗を掻く。
「…ほれ…」
可愛らしい妹分の願いを聞き入れない事も出来ず、リンは渋々と胸を差し出した。
千尋はぱっと表情を明るくすると、彼女にぎゅっとしがみ付く。
しっかりしがみ付くと、千尋は擦り付くようにリンの胸に頬を寄せた。
「…リンさんだと安心できるのになぁ…」
千尋はリンの胸から伝わる心音と温もりに、自分の胸が温かくなるのを感じながら、暫し目を閉じた。