千尋は小さな溜息を一つ吐く。
「はぁ」
廊下の窓の外から見える景色にぼんやりと目を向けると、無性に物悲しくなって首を落す。
「どうした?疲れたか?」
隣を歩いていたリンが心配そうに千尋を見る。
空はまだ澄んだ青い色をしていて、無数の雲が風に流されながらゆっくりと泳いでいる。太陽の位置は高く、油屋が開店するにはまだ幾許かの余裕がある時間だ。
それでも開店準備は既に始まっており、昨日の団体客の宴会で片付け終わらなかった皿洗いを調理場で助っ人として一仕事し終えたばかりだった。
力を入れなければ落ちない汚れもあるから自然と肩に力が入り、ガチガチに固まった腕や肩を解しながら、幾らか貰った休憩時間を取る為、二人は女部屋に向かっていた。
千尋は暫く無言でいると、顔を挙げ、意を決したように口を開こうとするが、すぐにまた口を閉じてしまう。
そしてまた流れる沈黙。
いつもの事ながら千尋の不思議な行動にリンは首を傾げるばかりだが、しかし本人が言い辛そうにしているのを無理やり問うのも彼女の性分に合わず、言葉として出ないなら待ち続けてみるもよし、結局言わないような事ならそのまま聞かなかった事にする事にした。
それが最近は暗黙のルールになっており、千尋は一瞬冷たいと勘違いされそうなリンの優しさが心地よかった。
千尋は床を見つめ、リンを見上げ、そし呟く。
「ねぇ。リンさん、変じゃないよね?」
「はぁっ!?何が!?」
沈黙していたと思ったら、突然かけられた突拍子も無い問いかけに、リンは思わず声を上げる。
いつも脈絡の無い問いかけをされるが、本日のはまたいつもに増して意図が掴めない。
「えっと…違和感無いよね」
「いや。その前にお前の言ってる意味が…」
「…気を付けてたはずなんだけどな」
「聞いてるか?千…」
「…上手く人と会うのって難しいよね!」
「…そうだな…」
自問自答し、己の世界に入っている千尋の独り言に、最後は問い掛ける事を止め、リンは呆れた口調で相槌を打つ事に決めた。
もうどうせ何も聞いちゃいないし。
いつもに増して不思議な行動を取る千尋に、リンは心の中で涙を流した。
そんなリンの心中など自分の事で一杯になっていた千尋が気付くはずも無く、再び俯いて自問自答を続けていた。
リンさんとは不自然な感じはしない。
千尋はそう思って、ほっと胸を撫で下ろす。
いつも自然に振舞っていたつもりだった。
いつもと同じ距離を置いていたつもりだった。
私たちの間には今どれくらいの距離が普通なのだろう。
ある時、突然そんな事が頭の中に疑問として浮かんでしまった。
千尋はハクが好きで、ハクは千尋が好きだ。
兄弟とか、父母とか、友とか、そういった種類の好きではなくて。
異性として好きで。
互いに想いを伝え合って。
――恋人同士になった。
未だそれを言葉にして頭の中に浮かべるだけで、恥ずかしいやら嬉しいやらで千尋は頬を赤く火照らせてしまうのだが、それでもそれが夢ではなくて現実の事なのだと漸く胸に浸透し始めていた。
一方でそう意識し始めてから、千尋は逆にハクを前にすると、頭が真っ白になってしまう事が多くなった。
今までどんな話をしていて、どんな風に向かい合って、笑って、怒って、泣いて、どんな自分を見せていたのか分からなくなってしまった。
会う度に、こんな風に笑っていただろうか、こんな話をしていただろうか。
――こんな距離でいつも傍にいただろうか。
二人の関係が変化して、ハクと自分の今までの距離が掴めなくなってしまっていた。
気を付けていたつもりだったけれど、ハクに言われてしまった。
不自然だと。
「おっ、おい!千!」
突然横からリンの悲鳴染みた声が上がり、千尋は落ちていく思考から急速に引き上げられる。
「え?」
そうして歩き続けていた足は止まる事無く前へと進んでいたから、足元を見ずに歩いていた彼女にはその先に何があるか気付く事が出来なかった。
一歩また前絵と踏み出し、宙を泳ぐ足。
「!」
足元を見ると、床は一段下がり、すぐ下の階へ繋がる階段となっていた。
「わっ!きゃあっ!?」
声を上げるが、既に遅し。バランスを崩した千尋は下の階まで重力に従い、落ちていった。
彼女の元いた世界の階段のように安全性を考えて緩やかに作られている階段ではないし、従業員用の階段であるから踏み台を広くするといった配慮も無い。
その角度は急で、ほぼ垂直と言っても良いほど真っ直ぐに千尋は落ちていった。
「!!」
すぐに来る衝撃に千尋は身を硬くする。
が、いつまで経っても衝撃も、痛みも体に受ける事は無かった。
反射的に固く閉じた瞼をゆっくり開くと、白い布が最初に目に入る。
「…千尋…。頼むから心臓に悪い事は止めてくれないだろうか…」
ほぅ。と溜息と、焦燥を抑えるように深呼吸交じりの声が千尋の頭の上から降ってくる。
千尋は声の主を一瞬で察すると、ぼっと頬を染めた。
魔法で助けてくれたのだろう。ゆっくりとハクの腕の中に納まった彼女は、彼に抱き締められる形となり、ぎゅっと抱き締められる事によって当たる彼の胸元からどくんどくんと高鳴る鼓動が振動になって響いてきた。
相当驚かせてしまったのだろう事は容易に分かる。
ハクが自分を心配してくれる事に不謹慎だと思いながらも喜びで、千尋の胸もとくんと一つ鳴る。
「あ、あのね!ごめんなさいっ!…その…気を付けるから…下ろして…」
彼に抱えられていると言う今の状態が、彼が自分を心配してくれているという証明のように響いてくる鼓動が、嬉しくて恥ずかしくて、彼の顔を見る事が出来ないくらいに逃げ出したくて、千尋は慌てて訴えるが、何も答えず無言で自分を見つめてくるハクに、自分の今の気持ちを見透かされてしまっている気がして、段々と声が小さくなり、体温が上昇するのを彼女は感じていた。
そして、彼に、今自分が隠している気持ちまで見抜かれてしまいそうで、恐れてしまう。
――こうやって触れられている事に幸せを感じている自分を。
「千尋」
まだ仕事中なのに突然呼ばれた真名。
『千』ではなく『千尋』と呼ぶ。
逸れは彼が今、素の彼である事を示す。
素の彼に戻らせてしまうほど、千尋は彼に心配をかけた。
それほどまでに彼に想われている。
それが千尋の大好きな己の名を呼ぶ声から伝わってくる。
それに気が付くと千尋はびくっと体を震わせた。
彼女の背に回っている腕に自然と力が入る。
より強く抱き締められ、彼の胸に頬がより押し付けられる。
高鳴る心臓の音。
それはもう、さっきの出来事の衝撃による心音ではない。
熱く。深く。高鳴る。
千尋もよく知っている鼓動。
ハクが自分を好きで鳴っている音。
自分も同じくらいドキドキしているのも気付かれているのかなと思うと恥ずかしくなる。
でも、ハクも一緒だから嬉しい。
「…で、取り合えず幸せに浸っているのはいいんだが、時と場所を考えてやってくれるとオレは嬉しいんだが」
はぁっと溜息と共に階上から声が下りてくる。
ばっと千尋が顔を上げると、リンが階段の上で手摺に肘を立てた上に顎を乗せ、抱き合う二人二人を呆れた表情で見ていた。
その途端、夢心地だった気分が一気に現実に引き戻される。
改めてハクを見上げると、彼は優しい笑みを浮かべこちらを見つめていた。
自分の姿を見返すと、彼にしっかりと抱き込まれ、すっぽりと彼の腕の中に納まっている形を取っている。
周囲を見渡すと、何処か見て見ぬふりをして通り過ぎる従業員たち。中には本当に気にせずに仕事を続けている者もいるが、大半は明らかにこちらに好奇の目を向けながらもハクに脅え見て見ぬふりをする者たちだ。
自分の状況を改めて認識すると、千尋は全身をみるみる赤く染めていく。
「うきゃぁぁぁぁっ!!ハク!下ろしてっ!ねぇっ!下ろしてっ!」
半分泣きべそをかきながら、千尋はハクの腕の中で暴れる。
「千尋…ほら。下ろすから」
ハクは暴れる千尋を落さないようにふわりと下ろす。
ゆっくりと大事なものを扱うように。
彼女が楽な体勢で立てるように。
千尋はそんな細心の心遣いがされている事に気づいていないのか、足が床に着くと同時に一目散に彼の前から逃げ出した。