風吹く先4

軽く、木製のドアがノックされる。
「どうぞ」
銭婆は、入れたばかりの紅茶を軽く口に含むと、来客を招き入れた。
そこには彼女が予想していた通りの人物が立っていた。
「突然の訪問。失礼致します」
「構いませんよ」
気を遣う竜の少年に、銭婆は優しく微笑むと、彼を椅子に座らせた。
「いらっしゃい。ハク竜」
「先日は大変失礼致しました」
そう言うとハクは深く頭を下げる。そのまま頭を上げようとしないハクに、銭婆が困惑していると、キッチンに入っていたカオナシが、彼のために、紅茶とクッキーなどの菓子を差し出す。
「わざわざそのためにきたのですか?」
「はい。ここを発つ前にもう一度きちんと謝っておこうと思って、こうやって来ました」
銭婆は目を見開いて少し驚くと、そのまま目を細め、笑顔になると、言葉を紡いだ。
「そのことはもう過ぎたことなのだから、いいのですよ。折角カオナシがお茶を入れてくれたのだから、顔を上げて、一緒に頂きましょう」
「・・・・ありがとうございます」
そうお茶に誘われることで、ハクはやっと顔を上げ、目の前のテーブルに置かれた紅茶に手をつけた。
「・・美味しいでしょう?カオナシは物覚えが速くてね、料理なんかも手伝ってくれて、結構楽しくやっているんだよ」
「・・・はい・・・」
紅茶の湯気がハクの心まで温めてくれる気がする。
酷いことをしてしまったにも関わらず、自分をもてなしてくれる湯婆婆とは違った銭婆の暖かい雰囲気から、緊張していた彼の表情からも笑みが浮かぶ。
そんな彼にほっと安心しながら、銭婆自身もカオナシが入れてくれた紅茶を飲みながら、暫くじっとハクを見つめていたが、やがてカップを静かに置いた。
「・・千尋は帰ったんだね」
「・・・はい」
ハクは銭婆の問いに、頷くと、再びカップに口をつける。
「そして、ハク竜は千尋の下へ行くのかい?」
「----はい」
その返答を聞くと、銭婆はその後特に言葉続けることなく沈黙した。
紅茶をすする音だけが部屋に響く。
ハクは沈黙し続けながら、自分を見つめ続ける視線を感じ、それが何を求めているのか理解すると、飲み干したカップをテーブルに戻し、顔を上げ、見つめ続けてくる銭婆の瞳を見返した。
幾らでもオブラートに包み込める言葉や態度ではなく、眼差しが全てを語る。
ハクは銭婆がそれを求めている事に気づき、顔を上げたのだ。 湯婆婆とのやり取りでも、揺らぐことの無かった、彼の決意。 彼の目を見れば、それは銭婆にも分かった。
しかし、それでも、だからこそ、どうしても聞かなければならないことが彼女にはあった。
「千尋が側にいなくてはならないものなのかい?私は確かにあんたに千尋を守るように言った。けれど、側にいなくても千尋を守ることはできる。見守ることができる。離れていても共に生きることはできる。どうして千尋の元へ行くんだい?」
「・・それは・・」
ハクが初めて見せる、瞳の奥の揺らぎ。
「ハク竜が千尋のことを愛しく、大切に思っているのは分かっているよ。けど、お前は竜であり、神でもあるだろう。千尋を神として護ることもできる。幸せにすることもできる。愛しいというのなら、大切だというのなら、それで十分だろう?どうして千尋の側にいようと思うんだい?」
彼女の言葉は続く。
「逆に、千尋の元に行くことで、己が彼女を束縛し、傷つけるかもしれない。不幸にするかもしれない。そんな風には考えなかったのかい?側にいることだけが、千尋とお前の幸せとは限らないだろう?」
ハクは言葉に詰まるしかなかった。
自分の真名を取り戻してくれた少女。
油屋で名を奪われても、覚えていた名前。
突然の異世界に脅えながらも、自分を頼りにしてくれた、かけがえの無い存在。
出会いを繰り返すたびに、強い命の輝きを見せる少女。
人間だとか、神だとか、関係ない。
愛しいと、大切だと思える唯一の存在。
別れの時の約束。
側にいて、幸せにしたいと思った。
側にいて・・・。
沈黙を続け、ただひたすら考え続ける竜の少年に、銭婆は笑みを浮かべ、そして、彼の悩みに助言するように、優しく言葉を続けた。
「お前の持っているものが、恋愛感情だというのなら、別だけれどね」
「・・恋・・愛・・感情・・?」
耳慣れない言葉に、沈黙を続けていたハクは、顔を上げ、首を傾げる。
「恋愛感情だよ。愛情だけではないよ。恋が無ければね。恋愛感情なんていうのは結局、相手を束縛することだからね。束縛し、束縛されることを望む。側にいて、側にいることを望むものさ」
油屋でも、恋だの愛だの、『あの人が好き』『この人が好き』などという声は、従業員の間の噂でよく耳にはしていた。
異性が互いに恋愛感情というものを持ち、認め合い、慈しみ合い、愛し合い、契りを交わす。そうして、婚姻を結び、やがて子を成す。
それは知っている。けれど、ハク自身、少しもその感情を理解することはできなかった。興味を持たなかったし、理解しようとも思わなかった。
異性に興味など無いし、魔法の勉強に、仕事で、そんなことなど考えたことも無かった。
恋愛感情というものによる、過剰なまでの接触、喧嘩、憎しみ合い、嫉妬、憎悪を、彼は今まで十分に見てきたこともあって、彼にとって、恋愛感情は、どちらかといえば、嫌悪感を持つ部類に入るものだった。
「私が・・千尋に・・恋愛感情・・?」
ハクは顔を歪める。
誰よりも慈しみ、愛しい存在に、自らの理解し難い感情の言葉を当てはめるのは、ハクには不快にしか感じなかった。
千尋に持つ感情を、そんな言葉では括りたくなかった。
「違うのかい?相思相愛でとてもいいカップルに見えたんだけれど」
ハクの動揺を、銭婆は楽しそうに目を細めて微笑む。
「私は・・ただ・・」
そこまで呟いて、ハクは口を閉じる。

ただ。
側にいて。

幸せにしたい。