風吹く先2

「また会える?」
「うん・・きっと・・」
「きっとよ」

少年は繋がれていた手を放し、決して振り向くことなく草原を駈けていく一人の小さな人間の少女の背中を、その姿がトンネルの中に完全に消えるまで、見送り続けた。
彼は少女が消えた後も、暫しじっと彼女が消えていったトンネルを見つめ続けていたが、やがて踵を返すと、彼が今まで存在べき場所であった、湯屋『油屋』へ戻り、その足で建物の最上階にある一室、彼の魔法の師であり、この湯屋の経営者である、湯婆婆の元へ向った。
「・・・それで、どうするんだい?ハク」
少年‐ハクは、じろりと睨みつけてくる湯婆婆の目をじっと見据えると、淀みなくはっきりと答える。
「私も、千尋と同じように元の世界へ戻ります」
予想通りの返答に、湯婆婆はただ冷笑し、言葉を続ける。
「お前の存在べき場所はあちらの世界にもう無い。どうするつもりだい?」
「それはーーーー」
「千の元で、千と共に人間として暮らすつもりかい?」
ハクの返答を待つよりも先に、湯婆婆は冷ややかな笑みを浮かべたまま、彼が答えようとした言葉を一字一句違えることなく、そのまま問いにして返した。
「--------はい」
湯婆婆の問いかけも、ハクもまた予測していたのか、迷いの無い口調で返答する。
やはり想像通りの彼の答えに、満足そうに笑みを浮かべると、湯婆婆は声を立てて笑い始めた。
ハクには彼女が笑う理由を何となく理解していた。理解していたからこそ、声を立てて笑われることにが彼の癇に障り、眉をひそめた。
それは明らかに嘲笑であったから。
「多少の弊害があることは予測しています。けれど、千と・・・千尋と共に生きていけるのなら、乗り越えていける」
湯婆婆の嘲笑を打ち消すように、瞳の中にある決意を少しも濁らすことなく、まっすぐと見据えたまま言い切る、ハク。
そんな彼の姿に、湯婆婆はまた笑いがこみ上げ、さらに高らかに声を立てて笑う。
「何が可笑しいのです」
流石のハクも、そこまで笑われる理由が無く、顔をしかめると湯婆婆に食いかかる。
決してハクの声に、おびえたのではなく、自分が笑う理由を理解していない哀れな人型をとった竜に説明してやるため、湯婆婆は声を立てて笑うのを止め、冷ややかな笑みを浮かべたまま、今度は瞳に同情の色を映し、返答してやる。
それがまたハクの癇に障るのだろうが、彼女には関係無かった。
「どんなに姿を変えようと、お前は、元、川の神であり、竜だ。そう、私の魔法は消えているんだから、思い出しただろう?真名を」
その問いかけに、ハクは無言することで、肯定を示す。
「つまり、どんなに人間として振る舞い、人間と同じように暮らし、人間と共に暮らしても、所詮は、人間の真似事にしか過ぎないということさ。お前が人間になれることはない」
「構わない。千尋が構わないと言ってくれるのなら、例え真似事だとしても、私は、千尋と共にありたい」
ハクの心は彼女の言葉ごときで動くことはない。
そんなことはとっくに分かっている。
人間の真似事だとしても。
人間になれないとしても。
共に生きることができれば。
千尋と共に存在ことができれば。
構わない。
彼の心はすでに決まっている。
はっきりと返した彼の言葉はやはり湯婆婆にとっては何も心に届かない答えなのだろうか、彼女は溜息を一つつくと、ただ一言呟いた。
「・・・竜とは、本当に愚かな生き物だ・・・」
彼女が何を言いたいのか、ハクには理解できない。
もう、彼を止めることはできない。
けれど、ただ、彼女の弟子であった以上、川を失った彼に存在べき場所を与えてくれた彼女に、きちんと、形式だけだったとしても、元の世界に戻ること、弟子を辞めること、今までの礼と共に、けじめとして伝えておきたかった。そして、自分が、千尋と彼女の両親を元の世界に帰すために、湯婆婆と交換条件を持ちかけた時に、彼女が言い放った言葉をはっきりとさせるためにも。
「私はあんたが帰ってきたら、八つ裂きにすると言ったね。・・まあ、それよりも、このまま生かしておいて、お前がどう生きていくのか見る方が楽しそうだ。どうせ真名を取り戻した時点で、契約はあってないようなものだ。好きにすればいいさ」
簡単には辞めさせてはくれないだろうと、もしかしたら手合わせすることになるかもしれないとまで覚悟していただけに、彼女の意外な言葉に、ハクは目を見開き、しばし呆然としていたが、ふと我に返ると、深々と頭を下げた。
「ふん。何処へでも行っちまいな」
湯婆婆は、そっぽを向くと、元弟子だった竜がその場を立ち去るまで、そのまま動くことは無かった。
辞めたものに、見限ったものに、もう用はないとでもいうように。

パタン。
扉が完全に閉まると、湯婆婆は視線を扉に戻し、じっと見つめている。
「・・若いね・・」
誰も無いな部屋で、一人呟くと、湯婆婆は笑みを浮かべる。
嘲笑でもなく、冷笑でもなく、穏やかで優しい笑みを。  ただ前に進む竜の若さに、懐かしさと羨む心がそこにあった。
そして若い竜がこの未来、幸せであるように願う心がそこにあった。
そんな自分に気付くと、湯婆婆自身、今度は心の奥がむずかゆく、恥かしく、けれどそんな自分が嫌いでない自分を笑わずにはいられなかった。
つい先ほどまで、坊があの人間の少女と共に、銭婆の元へ赴いていた。
一緒にいたのはほんの数時間だけだったはずなのに、けれど確かに共にいたことで、坊に大きな変化を与えていたことは感じていた。しかし、自分まで、変化があったことを今のやり取りで改めて、感じさせられ、これも、あの人間の少女のせいかと思うと何故か胸の奥がむずかゆく、自嘲するように笑った。
あの子がいたのはほんの幾日かだけなのに。
それだけで。

彼は気づいただろうか。
気づくだろうか。
彼女が伝えたかったことを。
願わくばーーーーーーーー。