彼の6

千尋は瞼を閉じたまま、ゆるゆると醒めてゆく意識に合わせて、心地良い気だるさを感じながら、未だ眠る身体をゆっくりと起こしてゆく。
意識と身体を自分のものとして、ゆっくりと夢から現実に引き戻してゆく。
いつもであれば、油屋の一日の営みの僅か睡眠時間では疲労が完全に昇華される事は無く、身体と脳が睡眠と休息を欲し、完全に目が覚めるまでに時間がかかり、結局無理矢理起きてしまうのが常で、こんなに心地良い朝を迎えたことは無かった。
久し振りに想いっきり安眠ができ、休息感を得た。未だ眠る意識の中でも笑みが自然と浮かぶ。
恐らくそれには昨日ハクにちゃんと謝る事ができた満足感がある事も含まれている事は自覚していた。
些細な事から、ハクを傷つけてしまった事。ハクの事が本当は大好きな事。嘘を告げてしまった事。仲直りをしたい事を離しに、営業終了後、リンに背中を押されながら、夜、彼の部屋に赴いた。
言葉にした事が本当になってしまう。そうリンに聞かされた。
それが本当ならば、千尋は取り返しのつかない事をハクに言ってしまった。
一度気になり始めると、不安で堪らなかった。次に会った時、ハクが豹変していたら、千尋はきっと立ち直れないだろう。そんな不安な気持ちをいつまでもずるずると引き摺ってしまうのが嫌で、その日のうちに謝ろうと思ったのだ。
ハクは仕事が溜まっていたのか、彼が自室に戻ってきたのは明け方と、随分遅かった事を千尋は記憶している。
待ちくたびれて、頭が半分眠っており、寝ぼけてしまっていた気はするが、ハクが部屋に入ってきた事にはすぐに気がついた。
ハクが来たと思ったら、はしたない事にハクを傷つけたと言う心の痛みよりも、ハクに会えたという嬉しさで舞い上がってしまっていた。
途中記憶が朧気になっているが、それでもちゃんとハクに好きだと伝えた事は覚えている。
ハクが嬉しそうに「うん」と答えてくれたのを覚えている。
そうしたら、心がほわほわと暖かくなって、幸せで仕方が無かった。
ハクが許してくれた事、仲直りできた事で、胸の中のもやもやがすっきり無くなって、今度はほわほわになって、ハクはやっぱり凄いのだと感じた。
ハクの言葉一つでこんなにも幸せになれる。
こんなにも千尋に沢山の気持ちを与えてくれる。
あんなにも落ち込んでいた自分を簡単に変えてくれるハクを凄いと思った。
だから幸せで、とても心地良く眠る事ができた。
そして眠っている間に、ずっと感じていた温もり。
千尋を包む込むように温かいそれはずっと彼女を守るように側にあって、さらに安眠を誘ってくれるのだ。
昔、母親に添い寝をしてもらった時のような温かさ。それでいてあの時とはまた違う温もりがある。
布団なんだろうか。
もっとその温もりに触れたくて、千尋は手を伸ばして、温かいそれに寄り添うように、ぎゅっと抱きつく。
温かい。
トクトクと脈打つ音が聞こえてくる。
安定した音。時計等の無機質的な音では無い。千尋の良く知っている、生き物が生きている証である、心臓の鼓動。
心臓の音?
千尋は頭の中に疑問が過ぎる。
そうして今、自分が何処にいるのかを改めて考えた。
昨日の夜、ハクの部屋に来て、ハクと仲直りをして・・・・それからどうしたのだろう?
記憶がそこでぷっつりと切れてしまっている。
しかし、確かに彼女は今、布団の上で寝ている。それは感触で分かる。
リンさん?
そんな望みの薄いと千尋自身も感じる期待を持ちながら、恐る恐ると彼女は瞼を開いた。
最初に目に入ったのは、誰かの胸元。女性の・・・では無かった。
長い腕が彼女の背に優しく添えるように回り、文字通り、包み込むように、守られるように抱きしめられていた。
状況が把握出来ず、何気なく、目の前にある胸元を見ると、安定したリズムで、余程安らいでいるのだろうゆっくりとした呼吸に合わせ上下していた。
そして胸元から視線を上に上っていくと、切り揃えられた艶やかで柔らかく、糸のように細い髪は整えられた顔の輪郭のなぞりながら流れ、零れ落ちた数本の髪が頬にかかるがくすぐったくは無いのか、安らかな寝息を立てる端正な顔立ちの青年の顔に辿り着く。
千尋よりもずっと透き通った、きめ細かな白い肌。
綺麗だと素直に感嘆の溜息を漏らす。
青年?
千尋の中に再び疑問が浮かぶ。
普通なら、男性と言う事に気がつき、危機感と気恥ずかしさが先立ち、咄嗟に飛び退くのであろうが、何故か目の前の存在はそれを越えて、逆に安心感を与えられた。
綺麗だからなのだろうか。
千尋は自然と視線が確認するように、また再度、己の背に回されている腕から、艶やかな髪の流れを追い、未だ起きる気配を見せない顔へと視線を流していく。
細くてもしっかりとした長い腕。
白く透き通った肌。規則正しく上下する胸。余程幸せな夢を見ているのか、安らかな寝顔。大人の顔つきで、それでいて、子どものように無邪気な寝顔。
何処かで見た、懐かしい、それでいて自分が最も好きで嬉しい表情。
とん、と一つ波が千尋の中に波紋を作る。
反射的に勢い良く身体を起こし、熱くなっていく頬と、口元を押さえ、自分を抱きしめていた人物をまじまじと見入った。
目を開ける前までは、ハクだと思っていた。
目を開けても、------ハクだと思った。
安定していた寝息が止まり、彼女を抱きしめて眠りに着いていた、青年が薄らと瞼を開く。
そして、己の中にあった温もりが無くなった寂しさに表情を曇らし、目の前に、まだ自分の側にいてくれた少女を確認すると、喜びに笑みを浮かべる。
それは子どものように純真な笑みだったが、そこにはもう少年のあどけなさは無い。
「千尋」
囁く声は半音低く、千尋の耳に深く響く、名残を残す。
彼女がこの世で最も好きな響き。
どくんと心臓が大きく高鳴った。
「△□×△○!!??」
千尋は声にならない悲鳴を上げた。

2003.10.12