彼の5

その日の帳場は忙しかった。
久し振りに大物の来客と、団体客が重なり、客室の分配、料理、大湯女の配置等、接客の内容から、月締めの決算と重なり、年に何度と無い忙しさを迎えていた。
その為帳場は戦々恐々地獄絵図と化していた。ある意味油屋で湯婆婆の次の統括であるハクが自室に戻り、床に着くのは遅かった。
既に廊下の窓の外を見れば、東の空が白々と明るくなり始め、光が闇を溶かし始めている。
まだ気温の低い暗い廊下を歩きながら、ハクは本日の業務を終えた事に溜息一つつく。同じようにして分かれた、父役、兄役も今頃溜息を落とし僅かばかりの安息を得ているだろう。
また数時間後には、忙しさに忙殺される一日が始まる。
安易に想像できる忙しさにハクは眩暈を感じる。
眩暈で廊下に倒れそうになるのをどうにか踏みとどまり、せめて倒れるのなら布団の上でと、自室の扉に手を掛ける。
スッと静かに襖を開け。
スパンと閉じる。
廊下の冷たい空気を感じながら、ハクは呆然と立ち尽くす。
今。何か見えなかったか。
扉を開け、一番最初に目に入ったものを、、心の中で己の視野に再確認する。
既に自分は眠ってしまっているのだろうか。
そう、問いかけてしまう。
それほどまでに、ハクにとって、違和感のある光景が、彼の部屋の中にあり、彼の瞳に一瞬にして焼き付いてしまった。
己の部屋なのに、何を脅える事はあるだろうか。自嘲しつつも、彼は再び恐る恐る襖に手を掛ける。

やはり。

彼の部屋の中には、異質なものがあった。
いや。むしろ想像ができない。
何しろ、今日、彼女には嫌われたばかりなのだから。
ハクを待ちくたびれて、掛け物を何も掛けず、畳の上で丸くなってすやすやと寝息を立てている千尋が彼の部屋の中にいた。
穏やかで幸せそうな寝顔。
ハクの疲れた心を癒し、自然と口元に笑みが浮かぶ。
しかし、何故、ここに?
疑問の言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
自分は嫌われてしまったのだから、彼女はここへくるはずがないのでは。
嫌われてしまった以上、ハクは夜の少しの休憩時間も千尋の元へ行く事もできず、一日の数少ない貴重な楽しみを仕方無しに諦め、仕事に集中せざるを得なかった。
情けない話ではあるが、ほとぼりが冷めた頃にまた会いに行こうと考えていた。
本当に私のことが嫌いなのか。
すぐにそれを聞くのは恐く、何度と無く聴かされている言葉を再度確認するには勇気のいる事であり、いつもとはもう全く異なる言葉で決定付けられるのを恐れ、脅え、逃げてしまった。
それほどまでに千尋から離れがたくなってしまっているから。
一度は選んだ別れを、もう二度と繰り返す事はできないだろう。
ハクはかけがえの無い存在、その側にいる事を選んでしまったから。
しかしそれはハクの一方的な決断であり、千尋には関わりの無い事。
嫌いであれば、無視をしても良いだろう。
私と言う存在が無くても、変わりは無いだろうと言うのに。
こんな愚かな自分の元へ、どうして尋ねてくれるのだろう。
どうして私を探してくれるのだろう。
ハクの戸惑う心を知ってか知らずか、、千尋は今の物音で目を覚ましてしまったのか、ふっと目を開けると、自分の状況を確認するかのようにきょろきょろと周りを見回す。ハクの姿を見止めると、これ以上無いほど喜びの笑みを浮かべ、「ハクだぁ」と歓喜の声を上げる。
その仕草の愛らしさに、ハクは一瞬抱きしめたい衝動にかられるがそれをぐっと抑えた。
呆然と立ち尽くす彼の前に、よろよろと立ち上がり、夢現のまま足取りも不安定でてとてとと近づく千尋に声をかける。
「どうしたの?いつからここにいたんだい?もう遅い。部屋まで送るから・・・・」
「ちゃんと布団の中で眠りなさい」と言葉を続けようとするハクの言葉を遮り、千尋はぎゅっと彼に抱きつく。
ハクといえば、突然の千尋の行動に、思考回路が追いつかず、抱き留める事も、抱き返す事もできず、背筋を少し丸め包み込むように抱きついてくる千尋の為すがままになっていた。
今まで眠っていた為か、千尋の体温がいつもより高く感じる。
その温かさが心地よく、ハク自身も溶けそうなくらい熱が伝わってきて、つい意識が朦朧としてしまう。
「・・・ハク・・・・大好き・・・・」
更に耳元から、寝起きで掠れる声で、しかしはっきりと彼の心の動揺に追い討ちの言葉を伝えられる。
あたたかい言葉。
凍りつきかけていたハクの心を一瞬にして溶かす、千尋の声。
柔らかい温もり。
「うん・・・・・・」
それだけを答えると、ハクは千尋の背に手を回し、まだ子どものままの彼でも十分に手が回りきってしまうくらいの細い彼女の身体を、大切なものを自分の中に収めるかのように、柔らかく、優しく、抱き締める。
鼻先に触れる首筋。流れてくる髪からひどくハクを癒す良い香りがした。
目尻が熱い。
愛しい。
千尋が愛しい。
ただ。ただ。
愛しさだけが湧き上がる。
愛しい。しかし、彼の望みは、ぶつけるように、追い詰めるように、彼女に自分の気持ちを伝えたくはないのだ。
ただ優しく。穏やかに。
ハクが千尋をどれだけ愛しいと想っているのか、感じて欲しいのだ。
己の側で穏やかに。
いつも笑顔で。
幸せに。
それはいつも願っていた事。
私を愛して欲しい。
そう願うようになってしまった。
なんて強欲なのだろう。
自分はなんて愚かなのだろう。
自分自身で呆れ果ててしまうほどに、己が千尋を想うように、想って欲しいと願っている。
それでいて、千尋が想う以上に、もっと愛したいと想っている。
ハクが千尋を愛しいと想っていて、それを千尋が少しでも気づいてくれればそれで良かった。見返りを求めようとは思っていなかった。
だが、千尋が己を好きなのだと分かった事で、舞い上がってしまっていた。千尋に求めてしまっていた。
愛しいと思うだけで、千尋を守れたら、それだけで良かったはずなのに。
それがいつの間に彼女を追い詰めるような行動に変化してしまっていた。
彼の望みとは裏腹に。己の気持ちだけを満たす為だけに。
ぶつけるような愛ではなく、柔らかな愛しさを与えたかった。
千尋は凄い。
ハクが望んでいた事を簡単にやってしまった。
包み込むように柔らかく。
穏やかな熱を
温かな愛を与えてくれる。
私もこのように。
包み込むように。
愛しさを与えられたら。
今のハクは包み込まれている。
身体でも。心でも。
己の方が千尋が想うより、ずっともっと、想っている。
包み込まれるのでは無く、包み込んで、彼女の全てを守りたい。
私だけが包み込まれて、幸せになるなんて望まない。
私が包み込んで、彼女を幸せにしたいのだ。
それが、ハクの幸せ。